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2007年 07月 11日
元大手の新聞記者でいらしたYさんからお便りがまいりました。 「多佳女さんのこと初めてうかがいました。北野の観梅に誘った祇園の女性に断られて落ち込んだ漱石の話はどこかで読みました。「虞美人草」をもう一度読み返してみます。」 Yさんはこのtsubakiコラム、先の拙稿をご覧の上ご感想をお寄せくださったようでした。漱石と祇園ということは、担当でない分野であまり知られていない内容であったのかもしれません。 多佳女と漱石についてはかなり多くの論評がなされています。 「漱石は花街に無理解な人間だ。」「漱石という人間は京都にしっくり来ない。」「お茶屋・廓と漱石とはイメージが合わない。」 さあ、真実はどうなのでしょうか。漱石が祇園を訪れたのは何時だったか?多佳女を知り付き合うようになったそもそものいきさつは? 漱石が多佳の「梅見」の件で立腹したこと、その時代背景も考えながら私は漱石が多佳に何を語ろうとしたかに触れたいと思います。 祇園・一力の大石忌 漱石がはじめて祇園にきたのは明治四十年。兄事する狩野亨吉の住む下鴨の家へ逗留した漱石のもとへ、高浜虚子がやってきて祇園に誘い出したのでした。 万亭(一力)の大石(内蔵助)忌が行われている時で、漱石は13、4歳の二人の舞妓とひと時を過ごしています。虚子の文によれば漱石は父親のような眼差しで接したようです。 大正四年春、今度は西川一草亭の案内で再び漱石は祇園を訪れます。やはり一力の大石忌です。一草亭はその時の漱石を次のように述べています。 「祇園の一力に大石忌があったので、それを見に行った。古風な座敷に並べた遺墨を見て、舞子の運んでくるお茶をよばれたり、庭で蕎麦をよばれたりした。帰りに「こんな茶を」よんだり、そばを食はせたり、懸物を見せて入場料を取らないのかね。京都といふ処は実に不思議な土地だ」といって驚いて居られた。」 東京では到底あり得ないことが京都では行われている…。漱石にはなんとも不思議な光景に映ったと見えます。けれどもこうしたもてなしが受けられたのは、訳がありました。一力の女将はお茶屋「大友(だいとも)」の姉娘であり、そうしてその妹娘であったのがお多佳さんだったのです。 津田青楓画伯の実兄・西川一草亭という案内人によって、漱石は賀茂川べりの旅館・北大嘉に滞在し、川向こうのお茶屋「 大友」の女将である多佳女と付き合うことになります。 漱石が多佳女に出会う 漱石が多佳女に出会った時、漱石は48歳。多佳は36歳でした。しかし、これより約10年前に多佳は芸妓を止め、浅井忠から依頼されて、浅井の経営する陶器店「九雲堂」を手伝っていた時代があります。多佳はその店で自ら絵付けをして出来た湯飲みを漱石へ人づてに贈っているのですが、漱石のほうでは自分の愛読者たちが当時から京都にいることを日記に書いています。 浅井忠は漱石の英国留学時代に付き合いのあった洋画家であり、多佳と漱石とは全くの無縁の間柄ではなかったといえましょう。そのえにしが急に接近したのはこの大正4年の京都旅行でした。旅のきっかけは、鏡子夫人が津田青楓へ漱石を保養がてらに連れ出してほしいとこっそり依頼したのでしたが。 鏡子夫人は、夫の持病であった胃病の好転をねがって、ゆったりとした京都旅行をして来てほしいと津田に話したことを、漱石はもとより知る由もありませんでした。 漱石が日本画を描くに当たってよい相談相手になり、漱石の心酔者であった津田青楓が故郷である京都に住居を移したこともあって、漱石の保養を兼ねた旅が実現しました。 この当時は、多佳は母の経営するお茶屋「大友」を継ぎ女将となっていました。かねてからひそかに尊敬し愛読していた文豪の上洛です。津田の仲介により漱石が宿にしていた北大嘉で、多佳へ声がかかった幸運を多佳は感激したのです。 そもそもの出会いがいわゆる遊里の芸妓と旦那客といった関係でなく、漱石は終始おなじ人間として親しみ深い態度で接しています。その後。漱石はひどく体調を崩し大友に二晩も寝込む事態になります。多佳がかいがいしく看病し、病気が落ち着くのを待って漱石は京都を離れました。都合29日間の京都旅行でした。 多佳女に与えた俳句 大正4年3月下旬、祇園のお茶屋「大友」の磯田多佳女に与えた色紙。 「 木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を隔てて男女哉 漱石 」 この句には、なにか天の川を隔てて男が女を想うロマンがあると見る向きもあるようです。たしかにどこか甘美なひびきがありましょう。また一方、漱石は男と女の間にある隔て、心理的な溝の存在を示唆しているのだとする見方もあります。 そのどちらの見方も真実と思います。漱石の作品は読者がそれぞれに受け取ることを想定して書かれており、作者の主張を一色に表現していないからです。後者の見解は、この句が書かれた時、漱石は多佳女が梅見の約束を守らなかった時に作った句であるがゆえに、その心の間隙を詠んだものと見るのです。 私は、漱石が立腹したことがあったにせよ、ここ京都の地で親身になって世話をしてくれた祇園の女将であるお多佳さんに、感謝のきもちでこの句を書いて与えたのだと強く感じるのです。そこに文豪・漱石の真面目(しんめんぼく)を見る思いです。 風流・閑適を愛した漱石 「明窓浄机、これが私の趣味であろう、閑適を愛するのである」 大正3年3月、朝日新聞『文士の生活』の一節。 「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、 人の心を豊かにするが故に尊い。 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、 有難い世界をありのままに写すのが詩である、画である。」 『草枕』 漱石のこの京都旅行について、鏡子夫人は『漱石の思ひ出』にこう述べています。漱石が寝込む前のことです。 「今まで西川さんや何かに何くれととなく御厄介になった、そのお礼心にどこかで一夕お招きしたいといふので、お多佳さんのお家で舞妓の踊りでもといふ段取りをつけて、それには金が少し足りそうにないので、すぐ百円ばかり送ってくれろと申して来ましたのでそれを送りました。」 鏡子夫人は、漱石亡き後も京都にくれば必ずお多佳さんを訪ね、付き合いは長く続いたようでした。 画像はこちらに 磯田多佳のこと 祇園は京都では独特な読み方で花街(かがい)という古風な地域です。伝統の礼儀正しいしきたりが今も守り続けられているのは、五花街の中でも祇園甲部が一番といわれています。 都をどりは祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞(まい)の会です。明治5年(1872年)に京都博覧会の際に創演され、時の京都府槇村知事が歌の作詞を書き、井上流家元、井上八千代が振付した京都をあげての町興しでした。東京遷都のショックから立直るための大イベントだったのかもしれません。 今なお、都の誇りを掲げる伝承がここに生きている祇園町。その祇園甲部にあって文芸芸妓とうたわれ、著名な文人たちの集う文芸サロンとなっていたお茶屋「大友(だいとも)」の女将であった多佳女…。 磯村たかは、明治十二年(1879)、 祇園新橋のお茶屋の二女として出生。父親は下級武士の出で、芸妓であった母親の名はとも。その名前をとって屋号が出来たようです。茶屋といっても暗い環境ではなく平穏な家庭に育っています。美しい芸妓の姉は万亭(一力)に嫁ぎましたが、多佳は三味線の弾き手となり、和歌や絵を熱心に学びました。 蓮月尼の門人であった歌の師上田重子についていましたが、多佳を養女にと望まれた程、歌の才にも恵まれていたのでした。若き日にはこうつぶやいたそうです。 「一に器量、二に芸…といわはりますけど、祇園の女は器量だけやない思いますんや。」 しかし、花街の芸妓という期間は多佳が23歳ころまでで、すぐに母の経営になる「大友」を継いで女将となっています。それゆえ自由に行動できた面があり、他の芸妓と同じには語ることは出来ないのです。 和歌とともに、俳句も学んだ多佳はつぎの作品を遺しています。 散る花の それたにあるを 中々に ととめかねたる 人いかにせむ 梅咲くや わすれられて はや二年越し だまさるる 身はおもしろし 宵の春 死ぬといふ 女のくせや ほととぎす 歌にも句にもはかなさが漂い、花柳界に生きる哀愁と達観すら感じられるのではないでしょうか。着るものも地味で縦じまの紬のきものを好んでよく着ていたといいます。 多佳は終生、雨の日と紫陽花の花を好んだといいます。巽橋のかかる白川辺の元あった「大友」の庭には紫陽花が植えられていた由。そして、昭和二十年(1945)5月に多佳は養子又一郎の家で静かにみまかったのです。 やはりこの日も雨が降り、紫陽花の花がうつくしく咲いていたと、『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』の著者、杉田博明氏は書かれています。 それでは、お多佳さんに贈られた文人客の手向けの歌をここに。 あじさいの 花に心を 残しけん 人のゆくへも しら川の水 ・・・・谷崎潤一郎 年ごとに 君がこのめる 紫陽花の 花は咲けども 多佳女世になし ・・・・吉井 勇 参考文献 岩波『漱石全集』より『日記・断片』『書簡』『漱石言行録』。 夏目鏡子『漱石の思ひ出』。西川一草亭『瓶史』。杉田博明『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』 ◇ 関連記事 tsubakiコラム 2006/06/17 京都 東山区 祗園町 南側
by tsubakiwabisuke
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