2007年 03月 02日

西川一草亭 去風流挿花 漱石との交流


西川一草亭(一八七八~一九三八)
去風流七代目家元。昭和13年(1938)一草亭歿、61才。

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女性としてはよき家庭を築いた良妻賢母。知識人としても美術評論が抜きん出ていた白洲正子さん。彼女は生け花を習ったことはないそうですが、花について次のように言及されています。

[私はいけ花を習ったことはない。
しいて先生があるとすれば、好きで集めた器の類と。
西川一草亭の編纂による「瓶史」とよぶ冊子かもしれない。

「瓶史」から学んだのは、
いけ花は一種の総合芸術であるということだった。
花は花だけで孤立するものではなく、
周囲の環境と生活の中にとけこんで
はじめて生きるという意味である。

もうひとつの先生は器である(中略)
花は器にしたがって生けていれば自然と形になるということを自得した。」


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西川一草亭の令孫、華道去風流九代家元・西川一橙氏。
わびすけの所蔵する竹花入れ、一草亭好みの尺八に挿花をお願いいたしました。

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夏目漱石が一草亭のために書いた画賛。

  牡丹剪って一草亭を待つ日かな  漱石

●2003/04/17 Thu 21:53 津田青楓の兄 西川一草亭

この拙文を書いたとき、いつか「去風洞」家元を訪問したいものと考えておりました。4年経って漸く実現したというのは、なにごともスローモーな私めでございます。

漱石の画賛の軸の箱書きは、いうまでもなく一草亭ご本人です。すばらしい筆跡をカメラに収めることができました。
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椿のデザインは一草亭のオリジナル。来客の時だけこのテーブルセンターをお出しになるとか。
光栄です。





漱石が京都に来て、西川一草亭の自宅を訪ねた記録が残されています。

「去風洞といふ門札をくゞる。奥まりたる小路の行き当り、左に玄関。沓脱。水打ちて庭樹幽遠、寒き事移し、床に方視の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華蔵世界。一草亭中人。…… 料理 鯉の名物松清。鯉こく、鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならはず勝手に食く。箸の置き方、それを膳の中に落す音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。…」。

茶事の様式で漱石は出された懐石を口にします。はじめての体験でひどく窮屈だったようです。このあと、漱石はずいぶん失礼なことを一草亭に言うのですが、それでも二人の間には妙に惹き合うものがありました。



私は一草亭のお孫さんである一橙氏とは初対面でしたが、「去風洞」家元の佇まい、九代家元のお人柄に触れ感深く存じました。この家風は自然のすがたの花木を大切にされ、いわゆるアート的なものとは一味違うのです。

ウグイスカグラの花が小さく咲いた枝。それと本阿弥椿を一輪、お入れになりました。
それぞれが生き生きとうつくしく添い、竹花入れに調和しておりました。椿の葉のなんと見事に映えていたことか。

茶花ですと、つもって生ける。よく「つもり花」と申しますね。雰囲気は共通するものがございます。しかし、こちらは茶室に限定された部屋ではなく、書院風な感じがあり生活に自然をより美しく取り入れるといった風趣です。

風流一生涯、とは一草亭が死に際して書いた絶筆だったとお聞きいたしました。挿花を教えて月謝をいただくことすらこころよしとしなかった清貧の家風が続いていたようです。決して裕福ではなかった一草亭ですが、漱石との交流、弟である津田青楓が漱石の日本画に影響を与えたことを思うのです。

超俗のなにかがそこに生きていた、今も去風洞にはそうした伝統があるように、私は感じるのでした。






# by tsubakiwabisuke | 2007-03-02 01:17 | 京都
2007年 02月 27日

まもなく利休さまのご命日

2月28日は、利休居士の祥月命日になります。
大徳寺聚光院で法要が行われその後、追善の釜が懸けられます。去年は今日庵の当番で、淡敬会は三玄院で一席ご奉仕させていただきました。

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裏千家ホームページにその日のようすが掲載されております。
18年02月28日 利休居士毎歳忌


利休忌・淡敬会席(三玄院)
ご宗家の皆さまをお迎えして、点前をさせていただきましたわびすけの光栄。忝いことでございました。


◇ ◇ ◇


先日、研究会での阿部先生のお話を、ここで待っていらっしゃる方々が多いと思います。
会場から質問があり「八炉」について解説されました。

☆除夜に丸ぎっちょを8本くらいよく熾っているものを炉の中に入れ灰をかけ埋め火とする。

☆利休堂は、三畳中板の茶室になっている。炉は本勝手出炉である。

☆元日。除夜の埋め火をその炉に下火として移し、梅の井から午前4時に汲み上げた若水を釜に入れ準備をする。

☆家元が台天目の点前をされる。利休居士に供えられた後、大宗匠へすすめられる。
大宗匠は、「家元からどうぞ」と仰せになる。ご一族がおごそかに順服される。


裏千家宗家の大福茶は、このように利休御祖堂で行われるのです。
…というように私は記憶しますが、間違っているでしょうか。

利休御祖堂はにじり口があり、小間の名席であることを是非知っておいていただきたいのです。
利休さまの等身大の立像と、宗旦さまの小さい坐像がおわします。


ここで、私は準教授、教授、正教授の親授式をしていただいた日々のことを忘れません。
当時の鵬雲斎家元と坐忘斎若宗匠がお坐りになり、直接手渡しをしていただきました。御祖堂は厳粛にして澄み切った空気が張りつめ、感激に心ふるえるのでした。


利休忌。名誉師範を拝受される方々はこの日に、最上の栄誉に浴されるのです。
目安としては80歳前後の、裏千家茶道に貢献ある先生方。
おめでとうございます。




JanJan コラム 古都つれづれ 大徳寺・千利休居士の毎歳忌






# by tsubakiwabisuke | 2007-02-27 00:27 | 茶の道
2007年 02月 24日

裏千家 利休堂のお話 元日には大福茶の点前が

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数年前になります。この写真を撮ったのは。結界が置かれているのは入室禁止のおしるしなのです。

裏千家ホームページに、わかりやすく「茶室案内」が出ておりますので、ご参照頂きますよう。
裏千家宗家 利休御祖堂
 

つぎに畏れ多くも2002年の春、許諾を得ておん祖堂のなかを撮影。

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普段は入れない聖域に、特別にカメラを持ってお参りさせていただきました。

漱石の孫・マックレイン陽子先生をご案内して利休堂の見学を許された日のこと。今思い出してもまことに勿体ないことでございました。

2002年春 Mrs.松岡陽子マックレインの京都


先日の淡交会・研究会で、阿部業躰のお話がこの重要な「利休御祖堂」のことだったのです。

少しづつ書き足していこうと思います。







# by tsubakiwabisuke | 2007-02-24 20:53 | 茶の道
2007年 02月 22日

猫の日に 年季のいった家族たち

日本記念日學會、それを作られた富山いづみさんによれば、次のようになります。
http://www.nnh.to/02/22.html

☆猫の日
「英文学者の柳瀬尚紀さんらによる「猫の日制定委員会」が1987(昭和62)年に制定。
ペットフード工業会が主催。

「ニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)」の語呂合せ。全国の愛猫家からの公募でこの日に決まった。」


はい。今日が猫の日ということになります。ちなみに犬の日もちゃんとありますよ。

☆犬の日
「ペットフード工業会等6団体が1987(昭和62)年に制定。
犬の鳴き声「ワン(1)ワン(1)ワン(1)」の語呂合せ。」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まあ他人行儀とでもいうんでしょうか。猫を可愛がるにんげんは意外と多いのに、わざわざこんな日を作らなくてもいいんじゃぁないかっておっしゃるのですか?

でも世の中には猫が大嫌いなひとが多いのです。以前、全国では1年間に、39万匹余りの猫や犬が処分されているというニュースが出ていました。野良猫が増えないように地域の野良猫に避妊・去勢手術を施す愛猫家もおられますが、行政側の理解と対応がまだまだといったところです。

これは世の人々への注意を喚起するという意味で、記念日が作られたのでしょうね。
わが家では1匹の猫と18年ちかく暮らしています。家族ですから猫といえども老いを見ることになります。

この子にはモンドという名前の母親とま~という名の妹がいるのです。いえいえ、猫の実家に元気で暮らしているようで、飼い主の田村さんから折にふれて写真が送られてきます。

今日はドラのお母さんと妹、最後にうちのドラと、それぞれ年季のいった猫たちをご覧頂きましょう。

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猫の実家のおかあさん

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実家のいもうと


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うちのドラ

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水をたくさん飲みます

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おなかがふくれています

獣医さんから癌の宣告を受けてからも、ドラは毎日元気でいてくれています。
右のお腹にソフトボールくらいの癌があると、レントゲンから判明したのです。最近は左のほうも膨らんできました。いろんな食べ物を少しづつ口にします。でも一番すきなのは新しい水道の水です。

水って、口の中を清めてくれるみたいですね。水を飲んだ後はとても安らかな表情に見えるのです。

ありがとうね。ドラ。いつも元気をもらっていますよ。






# by tsubakiwabisuke | 2007-02-22 22:50 | 夏目漱石
2007年 02月 21日

漱石が博士号を拒絶した日 今日は漱石の日

今日2月21日は、『漱石の日』ってご存知でしたかしら?

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それに明日22日は猫の日なんですよ。
我輩は猫だからって言うのではなくて、ニャ~~、つまりニィニィっていうわけです。
文豪と猫を一緒にしてるのは偶然でしょうが、漱石先生は苦笑されてるんじゃないかと思います。

さて、誰が命名したのかわかりませんが、漱石の日と決めたのには意味があります。

漱石の日

漱石の日…1911年(明治44年)、夏目漱石が文学博士号授与の辞退を表明した日。

明治44年の2月21日でした。夏目漱石は博士号を辞退する旨を書いた手紙を文部省専門学務局長の福原鐐二郎氏に送ったのです。文部省から文学博士号を授与するという通達が来たことに対して漱石はきっぱりと拒絶したのですね。


東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ 漱石の生涯 より

「また明治44年2月、文部省から博士号授与の通達があったが、漱石はこれを辞退したため博士号授与を巡って事態が紛糾した。

 博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違ひない。けれども一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をすると云ふ様な気風を養成したり、又は左様思われる程にも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れてゐる。余は博士制度を破壊しなけばならんとは迄は考へない。然し博士でなければ学者でない様に、世間を思はせる程博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となつて、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く閑却されるの結果として、厭ふべき弊害の続出せん事を余は切に憂ふるものである。余は此意味に於て仏蘭西にアカデミーのある事すらも快よく思つて居らぬ。
 従つて余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である。

(「博士問題の成行」) 」


漱石は個人の栄達という観点ではなく、学問の道において名利を求める気風が養成されることを恐れたのです。
博士号によって、「学者的貴族」が生まれ、「学権を掌握し尽すに至る」弊害が出ることが、真理の探求である筈の学問を俗化へと向かわせるという判断によるものです。

そうして国家権力と学者が結びつくことを漱石は嫌悪しました。しかし、これは漱石の「主義の問題」であって、「余は博士制度を破壊しなけばならんとは迄は考へない。」と書かれているように、他に押し付けるものではありませんでした。


いわゆる文士という範疇には属さない、「学問の人」であった漱石。肩書きは無用だというのは自信がなければ言えることではありません。死に物狂いで勉強した大学者でありました。
「ただの夏目なにがしでありたい。」という信条は漱石の生死を貫いたものだったと思います。

東京大学で恩師のケーベル先生の高潔な人格に触れた漱石は、真の学究の道を求め、それを自分に厳しく課したひとだったのですね。こうした思いを後世にとどめ置くために、この日を「漱石の日」としたのは意義あることではないでしょうか。

それを決めた人の見識の高さを、私はひとり思うのです。



なお、画像の説明はこちらをご覧くださいませ。

2004年6月 4日 (金)  好漢 夏目房之介さん


鎌倉・漱石会のお友だちである横浜の吉良さんが房之介さんのサインをもらわれ、その貴重なご本をわびすけにお贈りくださったのでした。あ~~、ファンの皆さま、ごめんやっしゃ~。


さらに、NHKで放映されたETV特集 5月22日(土)のアーカイブ 

夏目漱石・夏目房之介が探す祖父”猫”誕生百年







# by tsubakiwabisuke | 2007-02-21 23:27 | 夏目漱石
2007年 02月 19日

美術売り場 そぞろ歩き

淡交会主催の研究会へ行った帰りに、タカシマヤに寄ってウインドウショッピングをしました。見るだけって、ひやかしというんでしょうね。ごめんなさい。ついでに写真を撮らせてもらいました。
最初は美術売り場です。

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はい、これまで。

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7階、軽い食事をしたお店のお手洗いです。センスがいいとお思いになりませんか?


なんだか、すいすい画像がアップされます♪

コメントなくても猫が語ってくれそうですね。

研究会は講師が阿部業躰。いいお話でしたよ。また書きますね。






# by tsubakiwabisuke | 2007-02-19 01:24 | 京都
2007年 02月 18日

パソコンテレビ 若者のすがた

パソコンテレビ「GyaO」というのがあります。製作はUSEN。

BS JAPAN「未来図鑑」
http://www.gyao.jp/sityou/catelist/pac_id/pac0003003/

#42
知る人ぞ知るアーティストたち。ゲストはテノール歌手 秋川雅史、詩人 chori。


今のところ最新のアップのようです。テノール歌手・秋川雅史さんの「千の風になって」はこのブログでも取り上げましたが、今回は対談で見せる素顔の彼をご覧いただけます。

製作者サイドで、千という名前にかけたわけではないと思いますが、千明史さん、ニックネームchoriさんが後半に出演。秋川さんの名前と千さんの名前と共通の「史」がつくことも偶然とはいえ面白いですね。

今の若い男性は昔の日本男子と違ってよくしゃべらはりますね。男は黙ってサッポロビールといったコマーシャルが好感された時代ではなくなっているのでしょう(^。^)。




choriさんは若者らしい謙虚な一面を、詩に描かれています。

『現代詩フォーラム』から抜粋


引越し        
chori


この家には
よそよりたくさんの神さまが棲んでいるのだった
だから
別れを告げるのに時間がかかった

父親は張り切って
母親は淡々と
妹や弟は面倒くさそうに
荷物をまとめてゆくそのかたわらで
どこにも置きどころのないぼくが突っ立っている

小さいころはずっと大きな家がよかった
大きなお風呂も茶の間もうらやましくてしかたがなかった
けれど二十年経ってみれば
ぼくの身体はすっぽり六畳間におさまりきって
ちょっとでも大きな部屋になるとぐっすりねむれない
背比べをした柱の傷だとか
いまどき神棚だとか
古臭くてたまらなくいやだったこの家じゅうに
気がつくとぼくがしみついていて

みんなの荷造りが終わりかけたころ
ようやくダンボールを引き寄せる
幼かったぼくを
はみだしてばかりだったぼくを
ずっと誰かになりたかったぼくを
ていねいに折りたたむ
急かされて何人かは入れ忘れる

背中越しに
お風呂の神さま
お手洗いの神さま
お台所の神さま
名前も知らないたくさんの神さまが
そこらじゅうから湧いてきて
なんとなく
肩を叩きあっている
家族がこの家を去っていっても
取り壊されるまでのしばらくのあいだ
彼らはここにとどまりつづける
疲れた顔をしているものや
さみしそうにしているものや
恥ずかしがって
出てこないものや
それはもう人間とほとんど変わらなくって
情けないやらいとおしいやらで
しゅっ、

音をたてて勢いよくヒモを結んだ

五人分の荷物が
トラック二台ではこばれてゆく
ぼくは最後に玄関のドアにふれた
ゆっくり
何度も
何度も
さすった
誰かが
さすりかえしてきた

車は
神さまの家からどんどん離れてゆく
たいした距離でもないのに
引っ越すというより
家を捨てた気分になって
助手席で
そっと泣いた


2006-11-29






# by tsubakiwabisuke | 2007-02-18 16:50 | 京都
2007年 02月 17日

無実ってなんのこと? 或る中国人女性の場合

日本の大新聞は、庶民感覚ではちょっと腑に落ちない記事がよく見受けられます。
私の読みが浅いからなんでしょうか?
まあ、次のタイトルをご覧になってください。


大阪地検、無実の中国人女性を起訴…戸籍規定見落とす

http://megalodon.jp/?url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070216i117.htm%3ffrom%3dmain1&date=20070217141426


● 大阪地検が、「女性が離婚後300日以内に出産した場合、子供は戸籍上、離婚前の夫の子供になる」と定めた民法772条の規定を見落とし、本来、罪に問えない中国人女性(28)を公正証書原本不実記載・同行使罪で起訴していたことがわかった。

● 同地検などによると、女性は1998年に来日し飲食店などで勤務。2000年7月、日本人男性と結婚したが、3か月後に別居し別の日本人男性と交際を始めた。前夫とは01年5月31日に協議離婚が成立した。

● 女性は同年10月17日、新たな交際相手との間にもうけた男児を出産。前夫に「(戸籍上の)父親になってほしい」と頼んだが断られたため、無断で大阪市内の区役所に出生届を出した。


● これを知った前夫が昨年1月、大阪府警に告発。書類送検を受け、同地検は同10月、女性が「前夫の子でないことは認識していた」と述べ、無断で前夫名義を使ったことを認めたことなどから「うその出生届を出した」と判断、在宅起訴したが、12月の初公判で弁護人からミスを指摘された。

 
●清水治・大阪地検次席検事の話「民法の規定に照らして虚偽申告といえるのかどうかに気付くべきだった。女性には申し訳なく思っている」

(2007年2月17日2時24分 読売新聞)





中国人女性は日本男性と結婚した後、3ヶ月で他の男性と親密な交際をしていました。夫と離婚した後で今の夫の子供を産みました。

「前夫に「(戸籍上の)父親になってほしい」と頼んだが断られたため、無断で大阪市内の区役所に出生届を出した。」

ここで問題が起きたのです。

これを知った前夫が昨年1月、大阪府警に告発しました。。書類送検を受け、同地検は同10月、女性から「前夫の子でないことは認識していた」という言質をとります。

そこで、女性が無断で前夫名義を使ったことを認めたことなどから「うその出生届を出した」と判断、在宅起訴したわけです。ここまでは誰が見ても前夫に同情するのではないでしょうか?


この中国人女性のした行為は、戦前の日本の法律なら「姦通罪」に当たるものです。女性のみを一方的に断罪する悪法ではありましたが。今は日本人女性の貞操観念がなくなり、こうした罪に該当する数は膨大なものになるでしょう。情け無いことと思います。


しかし、大新聞では「大阪地検、無実の中国人女性を起訴」としています。
「無実」なんですね。

えっ、無実ってなんのこと?

じゃあ、妻に裏切られた前の夫はどうなるのでしょうか?妻の不貞の結果、産まれた違う男性の子を、自分の子として戸籍に入れなければならないのです。

その上、大新聞には「無実の中国人女性」と書き立てられる。

いったいどうなっているのですかね???前夫の立場と気持ちを記者は考えたことがあるのでしょうか? 浮気での過ちであったとすれば、男性側より女性に責任が被せられる…それはいつの時代にもある不平等ですが。

しかし、記事自体に問題はありません。それは民法の不備によるものだからです。
この旧い法律に、おかしな規定が残っていたからです。




民法の「父子認定」を改正を 超党派国会議員が勉強会 - 共同通信(18時28分)

民法離婚後規定:裁判で認められても戸籍に「前夫の名」

 「離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子」とする民法772条の規定をめぐり、裁判の末にようやく今の夫の子とした場合でも、子供の戸籍に前夫の名前が記される。戸籍法が記載を義務づけているからだが、親たちは「なぜ、子供には無関係の前夫の名が付いて回るのか」と見直しを求めている。【工藤哲】


世界の中でどの国がこんなヘンテコリンな法律を作っているのでしょうか?

こちらはじつにお気の毒な女性のケースです。離婚後281日目の出産といいますが、今の夫を父親とする出生届は役所に受理されなかったのです。


「 東京都目黒区の会社員の女性(38)は02年3月13日に前夫と離婚。この年の9月30日に再婚し、12月19日に双子の女児を出産した。半月ほどの早産だったこともあり、離婚後281日目の出産で、今の夫を父親とする出生届は役所に受理されなかった。

 女性は前夫に「嫡出子否認」の手続きを取ってもらう承諾を得て、前夫と子供に親子関係がないことを証明するDNA鑑定を実施。家庭裁判所の調停を経て、約3カ月後に今の夫の子として戸籍登録した。」

ところが、戸籍は別のものになっていたのです。民法が勝手に日本国民の人権を左右していたのでした。

「 裁判結果が戸籍に記載されていると気づくのは、04年夏。海外旅行のため、1歳半になった娘2人の旅券を申請しようと取り寄せた戸籍謄本に嫡出子否認の裁判の確定とその日付、前夫の名前が記されていた。

 戸籍法の施行規則は、民法772条の規定を裁判(嫡出子否認や親子関係不存在確認)で覆した場合、その手続きと前夫の名前を記すとしている。法務省によると、本籍地を移したり、役所の電算化などで新しい戸籍になれば記載は消えるが、削除されたわけではないので戸籍をたどれば確認される。」


 一方、法務省は前夫の名前を明記するのは「前夫の子ではないことを明確に示すため」としている。

毎日新聞 2007年2月3日 15時00分


どうもわかった様なわからないようなお役所の答弁ですね。

でも、大新聞の記事にも、同じことを感じてしまうのです。。。。。






# by tsubakiwabisuke | 2007-02-17 14:31 | ニュース
2007年 02月 16日

能の離見(りけん)の見 隣国の記者

世阿弥は「花鏡」に、客観ということを説いています。
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西洋哲学よりも早く、こうした思想が日本にあった事実を知っておく必要がございましょう。

「見所(観客)より見る所の風姿は、我が離見なり。 ……離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。 その時は、我が姿を見得するなり。」

「離見の見にて、見所同見となりて、不及目(ふぎょうもく)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。」(不及目(ふぎょうもく)とは、肉眼の届かないという意味)


古文はかた苦しいので苦手だと仰らないでくださいませ。簡単にいえば、能を舞うときに観客の目が自分を見ている、その客席の「見」をもって自分の姿を感得することが大切ということでしょうか。

ここにお隣の韓国で中堅の記者が、日本の能から『離見の見』というテーマで日韓の政局を記事にしています。この記者さんはいわゆる反日の記事とは違う、きわめてクールなものの見方をする方です。これまでも私は二度ほど記事を紹介しています。



韓国 朝鮮日報/


【コラム】「離見」の目に映る韓国の姿(上)

「離見の見」とは、日本の伝統芸能、「能」における演技の極みを指す。これは「心の目」によって、自身の姿を客席から眺めることを意味する言葉だ。他人の立場で他人を理解する「易地思之」よりもさらに一歩進んだ境地と言える。そこでこの「離見」の姿勢を借り、さまざまな想像をしてみれば、韓国人の自画像を描くのに大いに役に立つのではないかというのが、今回の趣旨だ。


【コラム】「離見」の目に映る韓国の姿(下)


日本では今でも4万人余りの韓国人が不法滞在を犯している。そして毎年8000人余りが収容所を経て韓国に強制送還されている。日本で、韓国は不法滞在者数の第1位(2位は中国)、強制送還処分の数でも第2位(1位は中国)だ。金を稼ぐことを目的に来日する技術者の数でも、中国、ネパール、インドに続いて第4位につけている。相変わらず多くの韓国人が日本で日本人の足をマッサージし、日本人の体を洗っている。


もし韓国人が中国人労働者を扱うような態度で、日本人が韓国人労働者を扱ったとしたら、われわれはどれほど悲しみ、怒りを覚えるだろうか。


われわれには決して、他人を見くびるような資格はない。他人を軽視すれば、それがいつどこで自分にはね返ってくるか分からない。それなのに韓国人は自分自身についてあまりにも知らなすぎる。われわれが行う言動がどんな恨みを買い、どんな結果をもたらすのか、無関心過ぎる。遠い客席から見れば、われわれの言動など大根役者の大仰な演技に過ぎないかもしれないという省察が決定的に欠けているのだ。

 「離見」の目に映る韓国の姿に、記者は次第に恐ろしさすら感じてしまった。


鮮于鉦(ソンウ・ジョン)=東京特派員

朝鮮日報/朝鮮日報JNS




日本人が見ても、この記事は説得力があるとお思いになりませんか。

私は昨今の日本のマスメデアにはもひとつといった醒めた気持ちをもっています。視聴率のみを重視し、世の中の啓蒙といった使命をどこかに置き忘れているのではないだろうか、と思うことがしばしばです。

隣国との関係は国家がからむと、私達の市民感情とは別の硬直した展開になります。
しかし、こうした良質の記事を読みますと、まだまだ未来があり、希望があるように思えてきますね。

画像を探しましたが適当なのがありませんので、旧年のスナップを一枚挿入しておきます。







# by tsubakiwabisuke | 2007-02-16 01:04 | ニュース
2007年 02月 14日

炉には、地摺り(じずり)の羽を

茶道には炭点前というものがあります。
炭点前には、風炉と炉とそれぞれ点前と用具の使い方に違いが出てまいります。

羽箒(はぼうき)は、鳥の羽で作られたものを清める茶の用具です。古くから鳥の羽は塵埃(じんあい)に染まらない清浄なものとされました。炭点前の際、風炉の場合と炉の場合、羽箒も作り方が変わります。


さて、今は炉の時期ですから皆さまは炭点前をなさる時、羽箒はどのようなものかご存知でしょう。炉縁(ろぶち)から五徳、畳、さらに席中を掃き清めるのに使用されるのをご覧になっていることと思います。


ここに茶道の古典である『凌雲帳』を、ご紹介させていただきます。表千家の貴重な書物で裏千家の点前も共通するものです。

小西酒造株式会社運営のウェブサイトより引用。
凌雲帳 地の巻

「一 羽箒(はぼうき)

 羽箒(はぼうき)には、左羽(ひだりばね)、右羽(みぎばね)、双羽(もろは)、掃込(はきこみ)の四種あり。

 羽(はね)は鶴(つる)、雁(がん)、鷲(わし)、梟(ふくろ)、野雁(のがん)、等を用ふれども、鶴を最上とす。

 野雁(のがん)は臺子に必要なり。掃込(はきこみ)は白鳥(はくちやう)を用ふ。羽箒は總て新しきがよし」


 右羽(みぎはね)は風爐の本勝手、爐の向切(炭の逆勝手)に用ふ。

 左羽(ひだりばね)は爐の本勝手、臺目、隅爐、逆勝手及風爐の逆勝手に用ふ。

 双羽(もろは)は中央の羽にて、左右廣狹(こうきよう)なきものなり爐、風爐、左右何れにも用ひ得るものなり。

 掃込は運び點前に限り用ふるものにて、左右二つあれども、左右の勝手、爐、風爐共右羽のみを用ひ、羽の兩側を用ひて差支なし。

 男女共炭點前の後には必ず、使用した疊の上を膝をついて掃き込むべし。但し蹈込(ふみこ)み疊と道具疊とを合せて、一間半以内の席のみに用ふ。


 羽箒(はぼうき) まとめ

●炉縁の周囲、炉壇の上、五徳の爪や風炉などを清めるために掃くもの。

●三つ羽と一枚羽がある。一枚羽は真の羽箒として、炉、風炉共に使用。

●三つ羽は行・草に。炉用は左羽(向って左が広い)もの。風炉用は右羽(向って右が広い)ものを使用する。
 

このほか、青鸞(せいらん)の羽箒。裏千家宗家で台子のお稽古に使用させて頂いております。


風炉用、炉用、裏千家では利休道歌にあるものが踏襲されています。先ず、炭点前に関する利休道歌を見てみましょう。




炭置くはたとへ習ひにそむくとも
          湯のよくたぎる炭は炭なり

客になり炭つぐならばそのたびに
          薫物などはくべぬことなり

炭つがば五徳はさむな十文字
          縁をきらすな釣合をみよ

焚え残る白炭あらば捨ておきて
          また余の炭を置くものぞかし

炭おくも習ひばかりにかかはりて
          湯のたぎらざる炭は消え炭

崩れたるその白炭をとりあげて
          又焚きそへたることはなきなり


風炉のとき炭は菜籠にかね火箸
           ぬり香合に白檀をたけ

風炉の炭見ることはなし見ぬとても
          見ぬこそ猶も見る心なれ

客になり風炉のそのうち見る時に
          灰崩れなん気づかいをせよ



客になり底取るならばいつにても
          囲炉裡の角を崩し尽すな

炉の内は炭斗瓢柄の火箸
          陶器香合ねり香としれ

いにしへは名物などの香合へ
          直にたきもの入れぬとぞきく


羽箒は風炉に右羽よ炉の時は 左羽をば使ふとぞ知る


ありました、ありました。「風炉に右羽 炉の時は 左羽」 ですね。

さて、その心は。

その意味がなんのことかわからしませんでした、私には。

右が広い羽のほうが風炉の場合。左がせまい羽箒が炉用にと決められていますね。
私はこのことが分からないままでしたが、今日、ご宗家の稽古で寺○業躰先生に質問して一つの解答をいただいたのです。

86歳の最長老の先生ならではの、貴重なおことばでした。

「あのなあ、鳥に聞いてご覧。」

「鳥のことばがわかりませんので、寺○先生から聞きたいですね。」

「鳥が羽ばたいてる羽を見てみ。上に広げてるのが広い羽やろ。
下、地面に摺れている羽は狭いところや。それを地ズリの羽というたもんや。
ジズリの羽は強いし、だから炉は地摺りの羽箒を使えと昔からいうたもんなんや。」


ということでございました。忘れない内に覚書としてしたため、ご披露いたしますね。


今日は次の間で大炉のお稽古。私はしんがりで薄茶をさせていただきました。






# by tsubakiwabisuke | 2007-02-14 16:10 | 茶の道
2007年 02月 12日

タカシマヤ 第55回上品(じょうぼん)会

高島屋から、「上品(じょうぼん)会 特別ご内覧々会」の案内状が来ました。ここ数年、自分には無縁のせかいなどと思い込んで行かないことが多かったのです。でもまあ、目の保養をさせてもらうのもいいかと、一人で出かけてスナップをパチパチ。ごめんやっしゃ。

京都の大きいホテルは経営がよその資本へ移行してしまいました。ウェステン都ホテル、今日はここで、「第55回記念 高島屋 上品会」が開催されたのです。このあと、全国各地で巡回される予定と聞いております。雰囲気なりとチラリ、ご覧いただきましょう。

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高島屋資料館(大阪)には、日本の名画が収蔵されており、美術部創設のころの名画を今回、同人名家がしのぎを削ってきものにうつしたものが展示されました。

● 原画作家

 「世界三景 雪月花 」高島屋資料館所蔵より

● 山元 春挙。 (訪問着 ロッキー新雪・ 千總製。) 
● 竹内 栖鳳。 (訪問着 ベニス旅情・ 矢代仁製。)   
● 都路 華香。 (訪問着 春爛漫 )  ( 綴れ帯 吉野観桜・岩田製。)


● 神坂 雪佳。 (訪問着 春秋の華・千切屋製)
● 竹内 栖鳳。 (訪問着 大島紬。秋韻爽々。光琳風草花図より。秋場製。)

いずれも京都ならではの見事な出来栄えです。

私としては、大島の訪問着(秋韻爽々)に引き寄せられました。
古典的な大島もいいですが、これはまた、すばらしいデザインと職方さんです。

帯は龍村のシンプルな雀。じつにいい取り合わせです。
できればこうした美しい着物が日本人に愛されて、生活を豊かにできることになればどんなにいいでしょうか。お金のある方々、どうぞお買い上げくださいませ。

そんなことを感じながら帰途、私はバスに乗っておりました。
この車中がたしかに私の住む庶民レベルのせかいだなあ、なんてクスクス…。

それにしても、たのしかったひとときでした。






# by tsubakiwabisuke | 2007-02-12 23:46 | 京都
2007年 02月 10日

京都美術倶楽部 松庵茶会2月例会

1月の担当は、赤坂玄古庵。2月例会は、上原永山堂。いずれも日は9日に決められています。

赤坂政次さんはその鑑識眼といい、お人柄といい私の尊敬する方です。ことし9日午後は今日庵・初釜のご招待でしたから、赤坂さんの茶会には心ならずも失礼してしましました。

でも、上原さんという方も赤坂さんに次いで京都美術倶楽部の長老というべき茶道具屋さんなのです。
その昔、文豪の川端康成さんが常連客でいらしたのですから、上原さんの見識がおのずとわかるというものです。

写真撮影は快く認めてくださいましたので一席おわったころ、少々撮らせていただきました。

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永山堂のご主人は中央、夫人とご子息も丁寧なおもてなし。

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玄々斎手づくねの黒楽茶碗。銘 「延喜楽」 

●延喜楽 (えんぎらく)、舞の名。醍醐天皇の延喜8年(908)に式部卿敦実親王が舞を作り、左近少将藤原忠房が曲を作り、年号をもって曲名としたもの。慶賀の時には必ず舞われているといわれています。

玄々斎の共箱で、「 於庭前拙作 」の文字が読めます。おそらく玄々斎は楽家から来た土ひねりの原型を、今日庵の庭でみずから手を入れて仕上げられたのではなかったでしょうか。
そして慶祝の意をもってこの銘をおつけになったのだと、私はひとり想像するのです。

●茶杓は、玄々斎の養父に当たる認徳斎の作です。
「 み楚連 」と共筒にしたためられていますが、これは万葉仮名で「みぞれ」と読むのですね。
箱には「 自作茶杓 霙ト号  認徳斎 」とあります。

竹のけしきがあたかもみぞれを思わせるようです。櫂先は認徳斎らしい剣先でこれが玄々斎に引き継がれたということでしょう。きりりとしてふぜいのある茶杓でした。

●その上、雪輪の蒔絵棗との取り合わせは、ニクイとしか言いようがありません。


●それから待合掛け物について。
酒井抱一の「 紅梅画賛 」。賛がなんともおもしろいのです。
「 紅梅や 唇うすし 京童へ」。 さて、これをどのように受け取るべきか。

私は四客くらいの場所におりましたが、席主の上原さんとは気楽に話しあえるお付き合いですから横からふっと、こう申しあげたのです。

「京わらべといえば「二条河原落書」ですか、口さがない批判をおもしろおかしく書き付けたようですね。その京わらべも紅梅の美しさの前には、くちびるがうすい。つまり口をつつしんでいるといった風なことではないのでしょうか。」

同席の方々が笑顔で、ああ、そうですねえとうなづかれ、主がまた如才なく、「いやぁ、これはいいことを教えてもらいました。」と返されたのは嬉しかったですねぇ。ちごてたらえらいこっちゃ。

●釜が二月につきものの広口釜。芦屋に珍しい短冊の地紋があるいいものでしたが、なにせこの暖冬。ご亭主は「まるで調子が狂いいましてな。」と頭をかいておられました。

●広蓋に合わせて用いたといわれる古銅の三猿の蓋置きも、たのしいものでした。

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●あとさきになりましたが、花は木藤に椿。
画像が無事入るでしょうか。

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最後に釜の煮え、白い湯気でもいかがでしょう(笑)



お正客の方は欧米人の男性。日本語はもとよりお茶の本質をしっかり把握された本物の数寄者とお見受けしました。日本にいらしてからどのくらいになられますか、とお尋ねしましたら、「はい、僅か30年でございます。」と。裏千家を学んだと仰っていましたが、みどり会ではないそうです。

上原永山堂のお店の、たいせつなお得意さんではなかったでしょうか。
連客ともども、お正客さんの堂々たる「正客ぶり」に、感じいったことでした。






# by tsubakiwabisuke | 2007-02-10 16:36 | 茶の道
2007年 02月 08日

Kさんより「白薔薇100本と赤ワイン」?

岡崎といいますと、徳川家康公が生誕して後の江戸幕府の礎を築いた「三河武士」発祥の地であることは、誰しも異存ないことと思います。

糟谷銑司(かすやせんじ)さんのサイトには、東海道五十三次の浮世絵・岡崎の絵がいい景色となって訪問客を迎えてくれます。

人は年輪が増えるごとに望郷の思いが強くなるといいますが、いやぁ、立派なトップページです。エッセイはなかなか読み応えのある硬派のサイトと見ました。

このたびエキサイトブログ3周年記念の一環として読者からトラックバックを募集しています。
私は糟谷銑司(かすやせんじ)さんを選びました。

エキサイトさん、3周年おめでとうございます!毎日お世話さまでございます。

ところで糟谷さん、ホストである筈のご亭主が、あ、すみません、茶道のほうでは席主をこう呼ぶものですからつい…。

ご亭主の装束がですね、ちょっと不釣合いではございませんか。ハンチングをかぶっておられるのは一向に構いませんが、洋服は浮世絵といかにも不釣合いなのでございます。

鷹匠のような堂々たる、しかも小粋な姿であってほしいと、ほんの一瞬思いました(笑)。

岡崎は、私ども茶道に携る者には忘れることの出来ない土地柄でございます。
裏千家中興の祖と尊敬されている第十一代玄々斎精中のお生まれになった由緒ある地であること。

拙サイトに少々そのことに触れている箇所がございますので、一部抜粋いたしましょう。



精中忌 たむけの七事式と けいこ場席

詳細は 僭越ながら わびすけの日記から

裏千家十一代玄々斎精中(1810~1877)は、 幕末から明治の変動の時代に、「茶道は遊芸にあらず」とし、「忠孝五道を精励し」「貴賎衆人親疎の隔てなく交会」するものとして『茶道の源意』を書いているひとであるが、今日庵のみならずひろく茶道界に偉業を成し遂げた宗匠であった。
外国人を迎えるための椅子式の茶礼を創案したのも玄々斎である。

 もとは三河領主の松平家に生まれ、10歳で裏千家十代認得斎の養子として迎えられたという。
わずか10歳で実の母とも別れ他家に入った少年の胸中はいかばかりであっただろう。
それを救ったのは養母となった認得斎夫人の愛情とすぐれた教育であった。

 漢学をはじめとしてあらゆる学問・教養を学び、身につけた玄々斎は17歳で裏千家十一代当主となる。
今では考えられないようなことではなかろうか。よき人びとの広範な輪にも恵まれた。

 尾張徳川家、なかでも十二代の斉荘(なりたか)は、この玄々斎精中宗室に茶道を学んだ。
ともに同年齢であったという。友人であり師弟でもあったふたりには茶道を媒介として深い信頼関係があったようだ。

 さて、こうした玄々斎精中という裏千家中興の祖と他の歴代宗匠をおまつりし、供養する毎歳忌が今日の精中忌なのである。
 宗家において神聖な座敷である咄々斎、その八畳の間で七事式という協働の点前をご奉仕させていただく。
 いつものことながら緊張と感激の瞬間である。(*1で短冊雑を手に朗詠しているのが私。)
                     



たった一人の当選者へのプレゼント、白薔薇100本と赤ワイン」をお考えになったのは、正解だったと思います。素材は西洋風ですが、紅白という取り合わせは日本の伝統的な年祝いにふさわしいものだからです。

ひそかに当選を期待するものでございます(^。^)。
まあ、ダメモトという気持ちでおりますのでご安心をくださいませ。





# by tsubakiwabisuke | 2007-02-08 17:57 | ニュース
2007年 02月 06日

ギターの弾き語り 維新の詩を読むchoriさん

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三条御池から日曜日の町並を撮影。

新風館はここからすぐです。2月4日、日曜日の午後、ライブがありました。

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寒風のなか、最初のころは、客足が少なかったのは止むを得ません。

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出演者は、choriさん。ギターを弾きつつ、何編の詩を朗読しました。ギターは朗読の声を妨げず、よく調和していたと思います。打楽器よりもよかったのではないでしょうか。

私は「維新」の朗読に耳を傾けていました。本名・千明史さんの心境が語られているのです。

トークもあるがままの失敗談からはじまり、爽やかでした。




この「維新」という詩について、若い女医のSさんがこんな感想を述べています。

一篇の現代詩に寄せて 

投稿日時 2007年2月 5日 (月曜日) 23時22分

今夜は、一つ、とても 素敵な詩をご紹介いたしましょう。

一つのことば、 一つの出来事に、思うことは人それぞれ。
その、色々な、それぞれなことを大切にして行きたいと思います。

この詩への、私の感想が、妨げになってはいけませんので、皆様まずはご一読ください。

この詩をご紹介くださった、素晴らしいHPも合わせてご紹介いたします。

維新
chori  http://rendezvou.exblog.jp/5047289/

◇◇◇

何かを生み出すというのは、非常に大きな力を必要とするものではないでしょうか。
そして、何かが生まれる「瞬間」に持つ、若い息吹や、活火山の中の煮えたぎるエネルギーのようなものを、感じ、圧倒されるときに感じる、えもいわれぬ昂揚感、これこそは、何かが開花するときに、生まれるときに、そして、若さを感じるときに、強く、強く、ただ感じるものだと思います。
この詩の持つ、若々しい、純粋な「力強さ」に、ただただ、圧倒されました。

・・・この詩を紹介していただいた、
    HPの管理者様との出会いについて・・・

以前から、色々な機会に、「信じる」ということが生み出す力の大きさに深い感銘を覚えます。特に、このことを言葉に出して表現したのは、学生時代に参加したフィリピン旅行での、NGO活動に取り組まれる方々や現地の皆様との出会いからでした。ごくごく短期間ではありましたが、お互いを信じて、一緒に何かを成し遂げていく様子を目の当たりにしたとき、信じあうこと、相手と向き合うことの大切さを、強く実感しました。信仰を持つ人同士の支えについても、それだからこそ、あれほど、強く、ひたむきなのだと、肌で感じることが出来ました。
そして、振り返って、信じあえる人と出会って、向き合っていける、自分自身の人生の、幸せ、運の良さを思います。
この詩を紹介してくださった方との出会いもまた、「心」や「言葉」の奥行きを信じあう、素晴らしいものになりました。その出会いを運んでくれたのは、宗教ではありませんが、「茶道」という、一つの、同じ「道」でした。そして、その一つの出会いが、私の友人と、この方とを継ぐことにもなりました。一つの出会いが、いくつもの、素晴らしい出会いを運んでくれることを、今日また、改めて、強く感じることが出来ました。

「信じること」。
どんなに、傍から見て、些細だと思われることでも、一つずつを、心をこめて、最後まで信じて、やりぬくこと。その刹那に感じたことが、一瞬なのか、永遠なのか、何れにしても自分にとっての「真実」を大切に、積み重ねていくこと。
生き物である私たちは、本来、時間と共に、醜く、汚れていく運命です。それに抗うのではなく、大切に積み重ねていくことを繰り返していくうちに、ただ汚れていくのではなく、その一方で、磨かれ、削ぎ落とされ、本質をあらわし、自らを結晶にすることも出来るのではないかと思います。

自らを、美しく結晶とする道を歩んでおられる方との出会いは、ともすると自らを律することを怠りがちな私にとっては、偶然ではなく、必然の出来事かと思います。この天啓を、信じて、少しずつでも、道を歩む努力を継続させなければ、と思いました。感じたことを、機会を、自らものと出来るかどうかは、全て己自身の努力次第なのですから。感謝の気持ちを表すのに、自分自身の歩む道で示すということは、非常に難しいことでもあります。ですが、初めての道ではなく、ありがたいことに、先人のある道、いつかは後姿が見えるように、その道を進んで行きたいと思います。


Sさんへのメール  わびすけ

2月 6日 (火曜日) 01時41分

今まであなたの記事を拝読しておりました。
涙が流れてきてとまりませんでした。

医療の現場でいずれあなたが病む人々にこのお気持ちで
接してくださることを目に浮かべてしまいました。

感謝のなかに。


ココログのほうの写真は、一枚こことは別の画像を入れています。表情と雰囲気も僅かにちがっていますでしょう?






# by tsubakiwabisuke | 2007-02-06 16:40 | 京都
2007年 02月 03日

光悦忌 本阿彌光悦(ほんなみこうえつ)


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光悦忌
書家・工芸家の本阿彌光悦の1637(寛永14)年の忌日。


 2月3日は、本阿弥光悦(1558-1637年)の忌日です。寛永14年丁丑2月3日。壽80歳。

 洛北・鷹が峰の光悦寺は光悦の死後に建てられたものです。日蓮宗、大虚山光悦寺は、鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰、鷹峰三山の南麓にあります。

 『本阿弥行状記』によれば、光悦にこの地を与えようと考えそれを命じたのは家康でありました。

 或る時、「光悦はどうしているか」と伊賀守にお尋ねになり、存命なれど、異風者にて、京都に居あき申候間、辺土に住居仕り度よしと申上げた。

 権現様(家康)は次のように仰せられた。
「 近江丹波などより京都への道用心あしき、辻切追いはぎをする所あるべし、左様の所をひろびろと取らせ候へ、在所も取立べきもの也との上意なり」

 京の町衆であり既に卓越した作家であったものの、開拓できる別天地を求めていた光悦にとって、家康の命による鷹ヶ峰一帯の賜物は願ってもないことでありました。辻切追いはぎが出る所であろうと、彼は雄大な自然に恵まれたこの地を愛しました。

 光悦一属はここに集団移住をし、芸術村を作ったのですが、彼の才能は芸術にとどまらず、経営、経済という方面で近代化に大きく貢献したことを、私は思うのです。
 光悦の真価はここにあるような気がします。

 光悦が慈悲心厚く、正義感の強い人物であったのは、数々のエピソードからもうかがうことが出来ます。

参考
續近世畸人傳卷之二
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/str_07.htm

【凡そ藝のみにあらず、經濟の才もありて、鷹峰の邊に金掘るべき山を考へ、五ヶ所を得て、人民多くその益を蒙る。もとより心ばせ正しき人にてありし。

 その一事は、七月十四日にある町家へ行きたるに、常に同じく家職を營みてありしかば、悦あやしみて、「今日は貴賤となく金錢の出納に閙いそがしき日なり。なぞ斯く常にかはらぬぞ。」といふに、あるじ、「町家には利用を計るをむねとし候さぶらふ。

 今日與ふべきものを五日過ぎて與ふれば、何計りの利を得ることにさぶらふ故に、今日は心いそぎも侍らず。」といひしに、悦答へもせず、家の内の者共の面を一人一人にらまへて、「よき畜生めら。」と云ひ捨てゝ出で、それよりは再び來らざりしとなり。】(引用)


 光悦が激怒したのは、他の雇用主が金を惜しんで、職人たちに給与を遅らせたことでした。倫理に基づいた經濟こそ、彼の求めた世界であったのです。

 法華信徒の光悦は、理想の共同体をねがい、日夜読経三昧に入っていたと伝えられます。

 光悦村は寛政11年(1799)家数が168軒・人数383人であったと記録されているのです。


【寛永年間洛北鷹峰を悦に賜はりしより、此處をひらきて、人家を設けたるに、若狹・丹波の通路なる故に、往來しげくなり、此の邊に山賊などいふもの絶えたり。是れより先きは、かうやうの惡黨かくれ住みて、人を犯す事多かりしとぞ】(引用)




「寛永の三筆」のひとりとして名高いことはよくご存知でいらっしゃいましょう。

  元和元年(1615年)、光悦は徳川家康から鷹ヶ峯一帯の地を与えられたことを機として、光悦の一族をはじめ町衆の人々と共に移住し、芸術村を築きました。ここには長屋が立ち並び、職人たちが養成され、刀剣、陶芸・漆芸・書画・などが制作されました。

 光悦は熱烈な法華の信徒であり、真摯な行者でありました。彼の信仰は個人的な芸術を打ち立てることよりも、京都町衆、職人たちを光悦村に集め、育て、生活の糧となすよう組織を作ったことにあります。

 陶芸・漆芸・書画・和歌など、卓越した作品を多く世に遺しました。芸術文化のリーダーとしては相協力し、嵯峨本の出版事業にも寄与しました。

 「私式の信心は、只国恩を忘れず、心の正直に悪魔のささぬ様にと信心仕候」と光悦は述べています。

 国を愛し、心の正直なるをモットーとし、人に布施をなし喜捨したという光悦。彼は現代の学校経営者たちの数字に明け暮れるさまを、どのように見ることでしょうか。


昨秋、お参りした光悦の墓には、白菊の花が供えられていました。


IT新聞掲載記事

職人を育てた芸術村 本阿弥光悦







# by tsubakiwabisuke | 2007-02-03 22:40 | 京都
2007年 01月 30日

『維新』という詩 作者は京都の22歳青年詩人

これは私が管理しているミクシイのコミュニテイでの投稿記事です。

会員数は今日の時点で6270人。毎日参加希望者がひきもきらない状態です。
荒らしの襲来もなくはありません。そのため、多くの会員の方々のアドバイスを頂き、当分は「管理人の承認が必要(公開)」という設定にさせていただきました。

もちろん退会する方もありますが、本来、参加・退会は自由、というのが原則です。

私は茶道に関連のある活動について、イベントの一つとしてトピックを作っています。その詳細は以下に。


●このコーナーは茶道をたしな方々が、実社会で活動されている別の催しを、フランクに書き込んでいただく為に立ち上げました。

個人の展覧会・発表会、或いはご自分に関わりある書物の紹介などもどうぞ率直に書き込んでくださいませ。

個人でもグループ活動でも、大いに宣伝してくださってけっこうです。お近くでしたら関心がある人々が参加されるかもしれません。

社会奉仕をなさる方々の近況報告も歓迎いたします。
ただ、宗教と政治は差し障りもございますので常識の範囲内でお願いしたいと思います。

生活者としてのさまざまな活動は、茶道の心に添うものであればたとえ苦しくてもいつかは実る行いとなるのではないでしょうか。

皆さまによりよき交流の輪が広がってゆきますことを蔭ながら念じております!

管理人


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●投稿  わびすけ


アーティストの心理という点で。

chori青年の最新の現代詩を一篇、ここでご紹介いたしましょう。



維新
chori


煙草を一本吸っていかないか
別にきみの名前なんてどうでもいい

東の空が白みはじめるころ
長かった今日が燃え尽きるまで
このひとりごとにつきあってはくれないか

ほんとうのところ
ぼくやきみは
誰かが放り出した過去なのかもしれない
ガードレールにもたれながら
そんなことを考えている

きみが19世紀に生まれていたらどうだろう
きみが別の星に生まれていたらどうだろう
きみが穏やかな春の日に生まれていたらどうだっただろう
そのひだまりは あたたかかっただろうか

とにもかくにも この国の詩人は病みすぎている
薬を飲まなきゃ吐き出せないようなことばがさみしい
切り傷だらけの手で書いた詩は 切り傷だらけの手にしか届かない
きみは神さまの名前を知らないし
神さまもきみの名前を知らない
つまり 興味がないんだ
携帯のアドレス帳もマイミクシィも相互リンクも
友だちって便利なことばだよな
けれどきみは心のどこかで誰かに気づいてほしいとおもってる
いくつになってもうまく煙草の灰を落とせないことを
無理やりつくった笑顔に でもきれいな片えくぼができることを
今までに一度だけだけれど 両親にありがとうと言いたくなったことを

ぼくはあんまり普通じゃない家庭に生まれた
1000年も2000年もつづいてるんだってさ
気が遠くなるほど現実がちっぽけで
その現実すら受け止められない自分はもっとちっぽけで
どれだけ希望や絶望を歌ったところでこれっぽっちも具体的じゃないんだ

煙草がなくなったならぼくのをあげよう
きみには軽すぎるかもしれないけれど 悪くないとおもうよ
朝はいつでも後ろから襲い掛かってきて
気がついたときには奪っていってしまう
楽しかったことや 楽しかったけれど楽しかったとおもいたくないこと
悲しいはずなのになぜだか楽しくなってしまったこととか そういうのまで

お互い いや違うな
ぼくときみはただのぼくときみでしかなくって
それ以外の関係性は今のところすべて嘘だもんな
共有しているのはこの5分ちょっとの間
それぞれの普通は それぞれの日常は
押しつけるためにあるわけじゃない
もうすぐ何かはじまるんだよ
そこに意味なんてひとつもないとしても

きょう
たくさんのひとが産まれてたくさんのひとが死んでたくさんのひとがきのうと変わりなく過ごしてたくさんのひとがきのうとはまるでちがう世界に驚いてたくさんのひとが何か取りこぼしてたくさんのひとがそれを拾い上げてたくさん愛したたくさん殺したたくさんの出来事がたくさんのニュースがとても他人ごとのようにたくさん流れ感動や嘆きを与えたくさんの幼児がたくさんの少年がたくさんの学生がたくさんの社会人がたくさん生きていてたくさん死んでいてたくさん変わってたくさん変わらなかったたくさんのきょうはやっぱりたくさんのきょうでしかなくてたくさんの明日はやっぱりたくさんそこで立ちすくんでいてたくさんのきのうなんてとっくに

帰る場所がなくなってせいせいしたんだ
そしてすぐ やわらかなブランケットが恋しくなった
できればあたたかな灯りが できれば隣でねむってくれる誰かが
できれば目覚めのいい明日の朝が できれば手帳に愉快な予定が
できれば できればがあとからあとから押し寄せてきて
ぐんぐんスピードを上げて自転車は国道沿いを突っ走る
どこへ向かってるかわからなくたって
どうせこの道はどこかへつづいている

すっかり灰になりかけた煙草から
次の煙草へ 小さな火をうつして歩きだす
ひとりごとにつきあってくれてありがとう
残酷な朝のひかりがアスファルトを叩きつける
誰も待っていなくともぼくは行くよ
なにかを変えるためではなく
なにか変わる瞬間を見たいから


**************************


会員のコメント 

●Sさん ブログ 日々是好日

「創造する」ことを趣味に、あるいは仕事にされる方の「生み出す力」には、本当に、ただただ圧倒されます。

その意味では、chori氏の詩にも、「何かが生まれるときの力強さ」を感じさせられ、圧倒されました。わびすけ様、ご紹介ありがとうございます。

話は少し変わりますが、本日、淡交タイムスを拝読いたしました。お家元の書かれていた「座右の銘」に、改めて、裏千家に所属していて、このお話をうかがうことが出来てよかったと、深く感銘いたしました。

茶の湯の持つ、「「精神」を生み出す力」は、本当に素晴らしいものですね。いつも、ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。


●Cさん(アメリカ)

chori さんの詩はいつも未来があっていいですね。若い時は死に憧れたりしがちですが、chori さんは優しさが溢れていて、勇気づけられます。

わびすけ様、chori さんの新しい詩を併せてご紹介いただきありがとうございます。






# by tsubakiwabisuke | 2007-01-30 13:59 | 京都
2007年 01月 30日

占い 海の生きもの 

海の生きものになってみません? 水族館占い ってあるのですよ

http://sea.sumomo.ne.jp/sea/

ちょっと遊んでみました。

水族館に泳いでいる生きものを五つ、選ぶことになっています。
私が選んだのは、ラッコ、タツノオトシゴ 、イルカ、オットセイ、タイ(赤い魚)。

イラストの中ではこれくらいがマシだったという、苦渋の選定でございました。


さて、占いの結果が出ました!


すばり、あなたは「タツノオトシゴ 」タイプ!

負けず嫌いで意地っぱりときていますから、いったん行動を起こすと、闘争心をムキ出しにして頑張ります。しかし、スタートダッシュはいいのですが、根気が続かないのが欠点で、いいところまでいきながら、挫折していましがちです。

へえ。 

海の生き物を選んだ順に、自分自身をもっと知ることができます。一匹目は「仕事」、二匹目は「恋愛」、三匹目は「お金」、四匹目は「性格」、五匹目は「人間関係」をあらわします。アーラ不思議?本当によく当たるんです!!

ほんまかいな。


○ 仕事
臨機応変な対応を求められる職業より、じっくり腰を据えて取り組める作家やエッセイストと、建築家、陶芸家、園芸家、大学教授、図書館秘書などが向いています。

ほう。主婦いうんはないみたいどすな。


○ 恋愛
恋には消極的で、用心深い面があります。好きな人がいても、なかなか自分からは告白できないのではないでしょうか

あの世でのお話でっしゃろ。


○ お金
毎月しっかりと目的を持って積立貯金をするタイプです。生活は比較的地味なほうなので、派手に使って後で困ることはまずありえません。

こっとうを買うのは高うつきますしなあ。おかゆさんだけの暮らしもいやや。


○ 生活
一見おとなしく見えますが、かなり頑固で非妥協的な面があります。表面は穏やかですが、爆発すると恐ろしいところがあります。

蚊もころさんようにして生きてきたとはウソですけど、バクハツはありえましぇ~ん。


○ 人間関係
相手に合わせるのうまく、交際術にたけていて、友人も比較的多いほうでしょう。

いやいや、しゃぁないなあ、とあきれてるのか、いたわってくれはりますのや。


タツノオトシゴタイプ徹底分析


○恋人にするなら                        
「エイ」「ペンギン」「テッポウ魚」タイプ

○結婚
30歳前後がベスト。自由気ままな夫婦になります。

○友達にするなら                          
「オットセイ」「ペンギン」「イルカ」タイプ

○上司にするなら                          
「テッポウ魚」「ラッコ」「イルカ」タイプ

○将来性を五段階で
★★★★★

○ラッキーアイテム
めがね。サングラス。水晶

○お勧め場所
外国

○好きなこと                             
ウィンドウショッピング。

○趣味                             
占い。

○運
ほんの少しだけです        


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

○運 ほんの少しだけ。。。ということは、 めでたさも中位なり おらが春。。。

これは当たってるんと違いまっしゃろか・・・


タツノオトシゴについて

タツノオトシゴは漢字で海馬と書きます。
江戸時代までは虫扱いされていたそうです。
大きさは5~15cm程度です。
プランクトンを食べて生活しているそうな。

ちなみにタツノオトシゴはオスが子供を産みます。
ナニー!?∑(;゚□゚)yヾ ポロッ
と、思った方、ご安心下さい。
その秘密を紐解くとご理解頂けるハズです。

タツノオトシゴはメスが卵を産みます。
オスにはカンガルーみたいに袋があって、メスはこの中に卵を産みます。
オスはこの中で卵が成長するのを見守るわけです。

そんなわけで、タツノオトシゴはいろんな意味で面白い生物ですね。^^


出典 水族館ふり~く



                            

     

# by tsubakiwabisuke | 2007-01-30 01:54 | あそび
2007年 01月 28日

スライドショー 中宮寺の初春 中宮寺御流の初茶会

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1・28UP スライドショー 中宮寺の初春 中宮寺御流の初茶会

 中宮寺御流という茶道の流派があるのを ご存じでいらっしゃいましょうか。

 尼門跡 日野西光尊さまは中宮寺御流のお家元なのです。初釜の次の日にお社中の皆さまの内輪の会がございました。この日のスナップをスライドショーにしてみました。

 濃茶席は中宮寺ならではのお掛け物。 大正天皇ご真筆でした。皇太子殿下であられた頃のご染筆の由。
 箱書きは一日前の「初釜」の道具のお取り合わせから秋篠宮悠仁(ひさひと)親王さまご生誕慶祝の席と拝察いたしました。

茶会記はご門跡みずからお書きになったもの。一日前の「初釜」の道具組と若干異なるとおっしゃっておりました。

 お席主は日野西さまの高弟であられます、91歳におなりになる師範のお方。尊いご精進のようすを学ばせていただきました。

 濃茶席、薄茶席ともに人形が飾られていて尼寺らしいしつらいでございました。






# by tsubakiwabisuke | 2007-01-28 12:18 | 茶の道
2007年 01月 25日

きのうは宗家・稽古はじめ 今日は初天神

茶の湯には 梅 寒菊に 黄ばみ落ち 青竹 枯れ木 暁の霜 
                                         ー利休道歌ー

この利休道歌をさらっとお書きになったのは、裏千家九代不見斎。その掛け物がかかっていたのは裏千家で貴人座がある抛筌斎(ほうせんさい)でした。

今日庵 茶室・茶庭(裏千家ホームページ)

1月24日は、ご宗家における初稽古が行われました。志倶会という直門の会員だけに許される稽古日で、私どもはみな紋付を着て厳粛な面持ちで兜門(かぶともん)をくぐります。

咄々斎(とつとつさい)の床を背に、鵬雲斎大宗匠、坐忘斎家元のお二方が着座されますと、稽古始のご挨拶がありました。

お家元はこの利休道歌「茶の湯には 梅 寒菊に、、、、」 と朗詠されてから、「私がもっとも好きな歌です。」とお話になりました。

侘びの境地が見事に表現されているこの歌に続いて、「人生にリハーサルはない、その都度その都度がみな本番なんです。一期一会(いちごいちえ)です。」

「今日の稽古もそうした心構えであって欲しい。単なる稽古ではなく、再び来ることのない日であることをおもい、一期一会の修道として。」と、いうご指導に身の引き締まる思いがいたしました。

また、知人の方が「一番になろうと思ったことはないが、僕は一流の人間になりたいと思う。そのために伝統文化の茶道の稽古をすることにした。」とのエピソードも、心なごむものがございました。

いえいえ、けっしてこちらが一流だなんて思い上がってはおりませんです。ただ、日本が世界に誇りうる「侘び」の美とその理念を、身近に感得できることを仕合せだとしみじみ思うのです。
勿体ないことに、咄々斎で七事式のお稽古が許され、私は茶通箱で仕舞い花をさせていただきました。



(植木市と苗木の写真はココログにアップしました。)今日の25日は北野天満宮の初天神でした。午後からお参りかたがた行ってまいりました。目的は植え木市なんです。昨年の初天神で買い物をした植木屋さんを探しました。やっぱり、前と同じ奥まった場所にいてはりました。

「去年もらいました玉之浦がきれいに咲いたんですが、夏に枯れてしまいまして。」

「そうでしたか、残念でしたなぁ。玉之浦ならここにもありますよ。」

「ほんとや。いい木ですね。もらいますわ。」ということで、次から次から欲しい木が増えていき、結局4本の苗木を買うことになったんです。全部、椿の木です。

玉之浦。曙椿。(庭にあった木が枯れそうになっているので)。五色散り椿。千羽鶴椿。

「今の皇后さまがお好きな花がこの椿ですよ。」とすすめれた木が千羽鶴という名の椿でした。
純白のようでうっすらピンクがかかっている清楚な小輪の花です。ワビスケ系とも違う中部地方のツバキのようです。

千羽鶴という椿の花すのつりさんのHPより。

京椿 五色八重散り椿。
京都の法然院、本堂北側の中庭にある、五色八重散り椿です。(この木の末裔でしょうか。)


ああ~~、けっこう値のはる苗木でした。千羽鶴のほうは苗木というよりしっかりした木です。でもなんだか庭に植えたいという気持ちになってオバチャンと交渉の結果、全部で千羽鶴だけの値にしとくよ、ということになりました。財布の中は空っぽになり、その代わり植木をかかえて家路をたどるわびすけでした(*^。^*)。


これって、じつは自分への前祝いだったのですよ。
そうなんです。7月から一年間原稿料をいただくことになったので、先ずは椿の木でお祝いってわけです。



『なごみ』編集部の方からは、FAXと電話でさっそく仕事の打ち合わせ。私の担当は20代の男性編集者Eさん。フレッシュマンといえば新入社員をいう言葉でしょうが対応がキビキビされていてしかもフレッシュ!

コラムのタイトルとして三つほど候補が書かれていました。Eさんが考えられたのでしょう。
FAXでは最後の候補がなんともおかしいのですよ。

電話
「小社の「ご連載依頼内容書」をFAXでお送りしましたがお読み頂きましたでしょうか?」

「ありがとうございます。ご配慮を感謝しています。ところでわからない箇所が一箇所ございますが。」

「どうぞお聞かせください。」

「ご執筆テーマ、、、、(仮)の最後に挙げられたタイトルですが。「椿H記」となっていますね。
あの~ぉ~、私がエッチを書くってことではないですよね???」

電話の向こうでは若い男性の声色がぱっと変わりました。噴き出したような笑い声に。

「すみません。こちらでは確かに 椿日記 と表示されているのですが、FAXで不具合が生じたと思われます。決してそのようなことではございません!」

やれやれでございます。

どんな名前がいいでしょうかねえ。コラムの名前。
みなさまの率直な声をお聞きできればどんなにかありがたいと思います。

どうぞよろしく。






# by tsubakiwabisuke | 2007-01-25 03:52 | 茶の道
2007年 01月 22日

著作権を放棄したメアリーの詩 「千の風になって」

或るクラッシックの歌曲がいま国民的なヒット曲になっています。

ご存知、「千の風になって」という歌曲、秋川雅史さんが歌っています。

http://www.youtube.com/watch?v=gDMtEIse1eI&mode=related&search=

昨年暮、紅白歌合戦をたまたま見ていましたら、ありましたありました!
う~~ん、よかったですねえ。聞き惚れましたよ。
秋川さんの風姿も、すばらしい歌声とあいまってとても爽やかです。

この曲はNHKの番組では作者不詳となっていましたが、それは事実ではありませんでした。

東京新聞の放送芸能 のカテゴリにもこうした記事が掲載されています。

英語原詩で作者不詳『千の風になって』 喪失の悲しみ癒やす

記者の山田晴子さんは記事を次のような言葉で結んでいます。

「原詩も、世界中で読み継がれてきた。米中枢同時テロで亡くなった十一歳の少女の一周忌で朗読され、IRA(アイルランド共和軍)のテロで命を落とした二十四歳の青年が「私が死んだときに開封してください」と両親に託した手紙の中にも、この詩が入っていた。

 昨年十一月にはNHKの衛星ハイビジョンで、詩が広く知れ渡った軌跡などをたどる「千の風になって」の特集が放送された(12月にNHK総合でも放送)。番組では、女優の木村多江をナビゲーターに、世界中の人々が「千の風になって」を通じて、身近な人の死をどう受け止めてきたのかを、詩の朗読や曲を合間に流しながら紹介。電話などで寄せられた感想が千件を超える反響だったという。NHKは二十五日、衛星ハイビジョンで午前十時から再放送する。

 番組担当の山本展也チーフプロデューサーは「死をどうやって受け止めたらいいのか、この歌は、その方向性を示してくれる存在。この歌を求めている人たちがまだまだたくさんいると思う」とブームのさらなる広がりを予測している。」


しかし、ネットからは更に貴重な情報を得ることができました。『千の風になって』は作者不詳ではないとの確かな記録があったのです。

「千の風になって」の詩の原作者について 執筆:オーママミア Quinn


この詩を書いたのは、メアリー・フライというアメリカ人の女性でした。
メアリーの地元ラジオ局でのインタビューより

「メアリー・フライは家庭的で、常識があり快活な94歳のようだ。

これはメアリーが自身の言葉で語った親友マーガレット・シュワルツコフ(Margaret Schwarzkopf)の事である。

時は1932年に遡る──

「そうね、マーガレット(ドイツ系ユダヤ人)はドイツから来たの。ちょうどヒットラーが政権を取ってね、お母様も国外に出たかったんだけど、老齢の上、具合も悪くて来れなかったのよ。彼女はそれこそ何時もお母様の事を心配していたわ。何しろ全然手紙が来ないのよ、だから日ごとに心配を募らせていたわ。

私たち大使館を通してできる限りのことをしたわ。わかるでしょ? その手の事って。ようやく事が判明したんだけど、お母様は亡くなってたの。それで、マーガレットは実際に神経衰弱を患ってただ泣くばかり。毎日、毎日泣き暮らしていたわ。

ある日一緒に買い物に出たの、茶色の紙袋に買ったものを入れて、家のキッチンテーブルで仕分けをしていたのよ。そしたらね、何だか分からないけど、私の買ったものを見てマーガレットが泣き出したの。「それ、私の母が好きだったの。」ってね。

「マーガレット、お願いだから泣かないで。」っていったの。そうしたらマーガレットがね、「何が一番悲しいかって、私は母の墓標の前に立ってさよならを告げる事も出来ないのよ( I never had the chance to stand at my mother's grave and say goodbye.)。」涙に目をぬらしたまま、2階の自室にひきこもったわ。

(注;ドイツの情勢が反ユダヤ人に向かっており、帰れる状況ではなかった。)

その時メアリーの手には、買物を点検するためのペンが握られていた。メアリーは、引きちぎった茶色の買物袋に、一息に込み上げる詩を書き付けた。

しばらくして、落ち着きを取り戻したマーガレットが階下に下りてきたとき、メアリーはマーガレットに紙切れを差し出した。「これ、私が書いた詩なの。私の思う〝人の生と死のあり方〟なの。あなたのためになるかどうか分からないけど。」

マーガレットは詩を一読し、メアリーを抱きしめて言った。「私この詩を一生大切にするわ。」そして、もう泣く事は無かった。」



インタビューのテープの中で、何故メアリーの詩がここまで愛されるに至ったか、彼女が本当に困惑している様子が伺えます。

そして、明らかになった事実は、この詩になんら著作権が設定されていない事です。この詩が人々の共有財産であるため、彼女は一銭の報酬も受けていないのです。

この件についてメアリーは、次のように話しています。

「この詩は私だけのものじゃないの、皆のものよ。今でもそう思うの。これは、愛や安らぎについて書いたのよ、もし私がお金を受け取ったりしたら、意味が無くなるわ・・・。多分、いかれてるんでしょうね。」

ドイツからこの詩の原文を見たお友だちの方がこう述べています。

歌を聴いた時に少し感じた違和感も1932年にメアリーが書いたオリジナルバージョンを読むと、スッと気持ちの中に入ってきました。


Do not stand at my greave and weep
        Words by Mary Frye

Do not stand at my grave and weep
I am not there, I do not sleep
I am in a thousand winds that blow
I am the softly falling snow
I am the gentle showers of rain
I am the fields of ripening grain
I am in the morning hush
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight
I am the starshine of the night
I am in the flowers that bloom
I am in a quiet room
I am in the birds that sing
I am in the each lovely thing
Do not stand at my grave and cry
I am not there I do not die


千の風になって
オーママミア訳詞

私の墓標の前で泣かないで
私はそこにいないのだから 私は眠ってなんかいない
私は千の風になって渡ってゆく
私はやわらかく 舞い降りる雪
私は優しく降り注ぐ雨
私は野に実る穂
私は朝の静寂の中に
私は水辺にたなびく灯心草
空を旋回する美しい鳥たちとともに

私は夜空の星の光
私は咲き誇る花たちとともに
私は静かな部屋の中に
私は歌う鳥たちとともに
私は全ての素晴らしいものとともにあるの
だから、私の墓標の前でなかないで
私はそこにいないの 私は死んではいないのだから




オーママミア Quinn 様。
JanJanの記者をなさっていた木走(きばしり)様。
ドイツのがんばるHiromba。様。

参考にさせていただきました。ありがとうございます。


◇◇◇


反響 この記事を読んで

ミクシイで私が管理しているコミュがあります。いつの間にか6千300人近い会員数になり会員同士のコメントも活発に行われています。その一部をここでご披露いたしましょう。

☆がんばるHiromba。  2007年01月21日

わびすけさん
こちらではご無沙汰しています ドイツ在住のがんばるHiromba。です。

素晴らしい歌のご紹介ありがとうございました。

国内では分らないと思いますが、ご紹介戴いたアドレス・・・「お客様がお使いのIPアドレスは、国内のIPアドレスではございませんので、ご利用いただけません。」という表示が出てしまいますので(^_^;) 下記、ご紹介。

http://www.youtube.com/watch?v=gDMtEIse1eI&mode=related&search=

こちらは海外からでも視聴できます。

番組では作者不詳となっていますが、わびすけさんの紹介されたサイトも素晴らしいですね。

歌を聴いた時に少し感じた違和感も1932年にメアリーが書いたオリジナルバージョンを読むと、スッと気持ちの中に入ってきました。

☆ハレのはは  2007年01月22日

私もこの曲を聴いたとき少し違和感を感じました。
それは、歌手の映像と一緒にTVの画面に流れる「墓」とか「死」など目に飛び込んでくる「漢字」のせいだと今思います。

翻訳の曲を作る時、日本語の歌詞はどうしても短くそぎ落とさなければならなくなるので、しょうがないですね。
オリジナルの詩と翻訳は本当に素敵ですね。
特に英語の詩は美しく韻を踏んでいて、口に出して読むと曲がついていなくても充分美しいですね。

原文を教えていただきありがとうございました。

けれども、日本語の歌も、それはそれでメロディーも歌詞も、シンプルで美しく私は好きです。

この歌に携わった全ての方達の暖かい思いが詰まっているように思えます。

☆わびすけ 2007年01月22日

ルソンさんはお出かけのようですね。
皆さま、コメントうれしく拝見しております。

ただ今、拙ブログを更新したところです。
はい、ここでの話し合いのもようも一部入れてますけれど、著作権を厳しくいう方々ではないので安心してま~~す。

2007年1月22日 (月) 著作権を放棄したメアリーの詩 「千の風になって」
http://tsubakiwabisuke.cocolog-nifty.com/rendezvous/

http://rendezvou.exblog.jp/

いかがでしょう?


☆ルソン 01月22日

○がんばるHiromba。様へ
ドイツでこの問題は,現在もタブーになっていると思われます。が,意外と旧東ヨーロッパの人たちではユダヤ人への迫害が残ったままだったように記憶しています(1994年時点)。

大陸国家にとって民族同志の戦いは,常に大きな悲劇を生むでしょうから,いつまでたっても解決できない問題なのだと想像しています。その意味では昨今のEUの東方への拡大によって90年代の旧ユーゴスラビアの悲劇を避けることが可能になれば良いと日本から希望を持ってみています。

それにしても,故郷を追われて数千年たつユダヤ民族達がいまだに故郷を見つけられないというのは,悲劇としか言いようがありません。

○ハレのはは様へ
言葉の訳は,本当に難しいと思います。そもそも発想が違ったりするからです。その上,同じ英語でも英国の英語と米国の英語では違った使い方をし,そのまま読むと間違った解釈をしてしまったりします。これは,その国の文化や成り立ち,社会背景の違いなどが影響するからです。でもそうした文化の違いを理解してわかると新たな世界を知ることが出来るので楽しいですね。

○わびすけ様へ
だいぶ最初の問題提起からそれてしまってすみません。わびすけ様の指摘された「人の情けであり大自然の美しさ」は,どこの国に行っても私にとって大切なものです。ほとんどの場合,「再会することがまずない」という条件での交流になります。まさに,「一期一会」です。

そのことは,帰国して茶道を知ることによってより実感しました。具体的には,これまで海外で感じた「一期一会」を茶室で知ることによって,「人の情けであり大自然の美しさ」をさらに深く感じることができました。特に,昨年夏に訪れたフィリピンの調査先の皆様に"Don’t' forget me!"(私のことを忘れないで)と言われたことが懐かしいです。

とはいえ,世の中便利になり,インターネットでやりとりをしている友人達の交流も長い友人で10年以上になりました。国は違えど,同じ時代を一緒に成長するので楽しいです。







# by tsubakiwabisuke | 2007-01-22 13:41 | ニュース