2007年 08月 16日

津田青楓・西川一草亭 と 漱石の交友

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漱石と京都、学問の繋がりでは松本文三郎、狩野亨吉がいずれも京都帝国大学(旧文科大学)の長であり、漱石へ教師として講座を依頼していました。明治40年4月、漱石は京都の銀閣寺北にあった松本文三郎の山房に招かれその礼状を送っています。

「拝啓 京都滞在中は尊来を辱ふせるのみならず銀閣の仙境に俗塵を振るひ落し候」
市街と離れたこの地を漱石はたいへん気に入り、東京付近ではこんな住居は求められないと賞賛しています。しかし、41年6月、書状で教師就任と講義の件は断っているのです。狩野亨吉とも同じやりとりがあったは史実に遺されている処です。

ただ、これら碩学の友人は当時京都在住ではありましたが、故郷は別にあり後に京都を去った人でした。京都に生まれ育ったきっすいの京都人で、親密な知人といえば、津田青楓と西川一草亭きょうだいを措いてはないと思われます。今回はこのふたりにスポットを当ててみることにいたしましょう。

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フランス帰りの青年画家・津田青楓

漱石門下の小宮豊隆の仲介で津田青楓が漱石に逢ったのは明治44年。京都に育ち、日露戦争が終わると官費でフランスに3年間留学した貧しい青年画家で、帰国してまもなく京都から東京に出た頃でした。本名津田亀次郎、雅号青楓。

彼は、フランスで日本人の仲間が落ち合うレストランでの思い出を述懐しています。留学生の彼らは、漱石の『坊っちゃん』や『我輩は猫である』『草枕』の掲載されている雑誌を持ち込み朗読していたそうです。

津田と共にいた安井(安井曽太郎)は新参者であり、朗読するのは古参の留学生ら。

「茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人程勿体ぶった風流人はない。広い視界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに、鞠躬如(きっきゅうじょ)として、あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である…」

『草枕』の一節を聞いては「愉快だね」と、うれしがる古参者ら。津田はそれを横目で見ながらこの時、漱石に親愛の情を感じはじめたと書いています。

けれども、彼の父親は去風洞挿花家元西川源兵衛(一葉)であり、また表千家の茶人でもあったのですから、皮肉なものです。明治44年、縁あって漱石門下に入ることになります。漱石にとっては趣味にしている描画のよき相談相手になり、心許せる門下生でありました。津田が漱石山房に出入りするようになった後、実兄の西川一草亭をまた漱石に引き合わせるのでした。

津田清楓は述べています。
「京都はいやだった。親兄弟のお付き合いばかりして、やれお花見だ、やれお茶会だ、やれなんだかんだで引っ張り出されることばかしで、仕事なんかするひまはない。京都の人間は画家は風流人で、風流人は閑人だと思っているんだ。やりきれない…」

 漱石と散歩しながらの話を彼はこんな風に書いています。

「君の親の商売は何だと云われるので、一寸嫌だったが思い切って、花屋です、店では花屋で奥では生花の先生です」といい、父は風雅な風采をして茶ばかり啜っていると云った後で、

「だから僕を学校にもやってくれないで、小学校を出ると丁稚にやらされて、それ家を飛び出して孤児のように自分でやっとここまでこぎつけたのです」

長男は特別で次男以下は同等ではなかった明治の家族制度を思いますと、こうした話も理解できるのではないでしょうか。いっぽう、兄の西川一草亭は長男として教育も受け家業を継ぎました。去風洞挿花をさらに盛り立て、『瓶史』を刊行する著名な文化人となっていました。


去風洞主人・西川一草亭

漱石は、大正4年3月21日、京都滞在中に西川一草亭の招きで彼の住居である茶室を訪れています。まず、漱石自身の筆記を見ることにいたします。

漱石全集 大正4年 日記14 (日記・断片 下)

「二一日(日)
八時起る。下女に一体何時に起ると聞けば大抵八時半か九時だといふ。夜はと聞けば二時頃と答ふ。驚くべし。」

漱石は旅館の女中の生活を聞き、労働時間が長いのに驚いています。それから宿の窓からのぞむ加茂川とかなたの東山が霞でよく見えないのに河原で合羽を干すさまを書きとめています。


漱石 去風洞・小間の茶室に入る

「東山霞んで見えず、春気曖、河原に合羽を干す。西川氏より電話可成(なるべく)早くとの注文。二人で出掛ける。去風洞といふ門をくぐる。奥まりたる小路の行き当たり、左に玄関。くつ脱ぎ。水打ちて庭樹幽すい、寒きこと夥し。」

寒がりの漱石はここでも京の底冷えの寒さに震え上がっています。数奇屋の庭はこの時期殺風景な感じもあったでしょうし、待合の座敷から暖かい陽光の遮られた暗い茶室へ入り、心寒いばかりの想いがあったのではないでしょうか。それでも漱石の観察眼はするどく克明に記憶にとどめています。

「床に方祝の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華厳世界。一草亭中人。御公卿様の手習い机。茶席へ案内、数奇屋草履。石を踏んでし尺(しせき)のうちに路を間違へる。再び本道に就けばすぐ茶亭の前に行きつまる。どこから這入るのかと聞く。戸をあけて入る。方三尺ばかり。ニジリ上り。」

ここは、露地を歩きながら茶室への方向を間違え、やっと茶室のにじり口を見つけたところです。武士も刀を外して身分の上下なく入る狭き入り口なのです。漱石はどうやら身をかがめて茶室内に入ったようです。

「更紗の布団の上にあぐらをかき壁による。つきあげ窓。それを明けると松見える。床に守信の梅、「梅の香の匂いや水屋のうち迄も」といふ月並みな俳句の賛あり。」

暗い茶室内には天井に突き上げ窓が開けられていました。ここから自然光が入る仕組みになっているのです。しかし、同時に冷気も入ったことでしょう。次に懐石料理が書かれています。この去風洞の近くに「松清」という料理屋があり、亭主は懐石をそこから取り寄せたもようです。


懐石料理の献立はどういうものだったか

「料理 鯉の名物松清。鯉こく。鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならはず勝手に食ふ。箸の置き方、それを膳の中に落とす音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。」
(後略)

 箸の置き方、それを膳の中に落とす音を聞いて主人が膳を引きにくるのだ、のくだりは、茶道で懐石の作法になっているものです。客は食事が終わった合図として、静かに箸を膳の上に落とし亭主に知らせ、主はその音を水屋で聞くとすぐに膳を引きに来るわけです。

ところで、この献立を見るかぎりでは、西川一草亭は茶事を余りしていなかったのではないかと私は思います。理論はできても茶道の基本的な稽古をしていたかどうか…。父親から手前を習ったことはあるとだけ書かれています。

茶懐石では、海の幸、山の幸を少しづつとりまぜて消化の好い調理をし、無理なく食べられる分量で客に呈すのが本筋です。料理屋にまかせず亭主自ら客のことを考え吟味しなければいけません。しかし、この献立では胃腸の重篤な病をもつ漱石に如何なものかと思われてならないのです。


漱石「腹具合あしし」

案の定、漱石は23日の日記に「腹具合あしく且つ天気あしゝ。天気晴るれど腹具合なほらず。」とあるのです。翌24日には更に、腹具合は悪化します。
多佳女が云い出して北野天神の梅見の約束をしていたにも拘わらず、断りなく多佳が遠出していたことで漱石は深く傷つくのです。

「二十四日(水)
寒、暖なれば北野の梅を見に行こうと御多佳さんがいふから電話をかける。御多佳さんは遠方に行って今晩でなければ帰らないから夕方懸けてくれといふ。夕方懸けたって仕方がない。(中略)腹具合あしし。」

この時漱石は東京に帰るべく、「晩に気分あしき故明日出立と決心す」といったんは京都を離れる決意をしたのでした。この危機的状況を救ったのがまた津田青楓その人でした。

付きっ切りで看病する津田は多佳女に懸命にとりなすように依頼し、祇園の芸妓で漱石信奉者のお君さん、金之助にも来て貰い、最悪の状態を切り抜けました。京都滞在はこの後更に続くことになります。

「二十五日
御多佳さんが来る。出立ちをのばせと云ふ。医者を呼んで見てもらえと云ふ。(中略)多佳さんと青楓君と四人で話しているうちに腹具合よくなる。」

結局、漱石は翌月の4月16日まで、都合二十九日間京都に滞在したのです。東京へ帰ってから胃腸の病は深刻になり、翌月大正5年の12月9日までその病苦は続きました。


西川一草亭に漱石は感想をのべる

「漱石と庭」と題した一草亭のエッセイに、漱石が来庵した折の事柄が興味深く書かれています。その一部分を抜粋します。

「夏目さんの来られたのは三月の末で、さう云ふ時分にこう云ふ家を見ると只陰気で不愉快なばかりだった。夏目さんはその暗い陰気な座敷の床の前に坐って、欄間に懸かっている「一草亭中之人」と云ふ夏目さん自身の字を眺めたり、床の間に生けておいた室咲きの牡丹の花を見たりして、最後に此処の家賃はいくらするかねと尋ね、「こんな家は只でも嫌だね」と云って心から嫌な顔をされた。」

まあ、客としては失礼な物言いですが、体調の悪い人への亭主の心配りも「も一つ」だったようです。

江戸っ子漱石と京都、かならずしも相性は悪くなかったのです。相性が悪かったのは、京都の寒さだけだったのかもしれません。


正直で飾り気のない交友

表裏のある狡猾な人間を嫌悪した漱石。それゆえに江戸っ子と自他ともに認めた気性でした。では、その対極にあるのが京都人だという世間の見方があるとすれば…。それは概には云えないのではないでしょうか。

 西川・津田兄弟を見ましても自分の家はもとより時代へ厳しい批判精神をもち、それを公言して憚らなかった京都人なのでした。1千年有余の歴史を有し伝統を保ちつつ、京都が革新の都といわれる所以はここにも見られると思います。


 漱石は祇園の一力で舞妓の運ぶ薄茶を喜んで喫しています。展覧会では茶道具の名品を手帳に書き付けています。そして漱石は乾山の向付けの一揃いを見つけそれを津田青楓に贈ってもいます。茶道そのものを嫌っていたのではありません。

漱石は、東京に帰ってからは「京都の閑雅をひとり懐かしんでいます、また行くつもりです」と書簡に書きながら、大正5年12月9日に、49歳の生涯を終えたのでした。

ああ、前年に京都旅行をしたあの体験がもし小説になっていたら…
不出世の文豪に時間が与えられなかったことは、惜しみても余りあるのです。



参考文献
岩波『漱石全集』。津田青楓著『漱石と十弟子』。西川一草亭著『落花帚記』 


IT新聞の連載コラムへも 掲載されています。
http://www.news.janjan.jp/column/0708/0708130733/1.php







# by tsubakiwabisuke | 2007-08-16 11:48 | 夏目漱石
2007年 08月 08日

漱石の参禅体験

漱石の参禅体験 取り入れられた作品の数々 2007/08/08

今日、日本インターネット新聞のコラムに掲載されたものです。

コラム 古都つれづれ

以前からこの案は温めていましたが、資料を集め裏づけをとることなど手間がかかりました。

そもそも、鎌倉円覚寺の専門道場で、はるか昔、私が師事したT老師が修行され、古川尭道老師から印可証明を与えられた因縁があるのです。しかも、兄弟弟子ともいえる方が東慶寺の井上禅定師だったのです。そうしたことから禅定さまは私を可愛がってくださいました。

道縁のご恩を感ぜずにはおれません。古川尭道老師こそ、釈宗演老師の法を継いで円覚寺僧堂を護ってこられた大徳でありました。峻厳な禅僧としてご自分を律し他を導かれたと私はさまざまなエピソードを師匠から聞かされておりました。

私の師匠はその後、鎌倉を離れ、京都でも修行され京都五山である或る大本山で管長職を務められました。拙文を書くに当たって、思いは感無量なものがございました。

漱石に焦点をあてて書かせて頂きましたので、失礼なこともあったのではないかと思います。

最後に井上禅定様が私の要請を快くお受けくださいまして、玉稿をお送り頂きました日のことが、懐かしく思い出されてまいります。



椿わびすけの家別館 夏目漱石掲載  鈴木大拙と夏目漱石 井上禅定執筆






# by tsubakiwabisuke | 2007-08-08 12:10 | 夏目漱石
2007年 08月 07日

八朔(はっさく)のご挨拶 裏千家坐忘斎家元のお言葉


茶道宗家での体験を書くことにいつも躊躇している私です。

でもそれを待って下さっている読者の方々も確かにいらっしゃいますので、今日は少し触れたいと思います。八朔と申しますと柑橘類の果物を思い浮かべる方が殆どでしょう。

それとテレビなどで京都祇園・甲部歌舞練場のおっしょさん、井上流家元へ舞妓や芸妓があらたまって挨拶に行く日と仰る方々も多いのではないでしょうか?

でも、別名田の実の節句ともいわれるように、この頃は早稲が実ります。稲の穂が実るので、初穂をお世話になる人にに贈る風習が生まれたようです。この「たのみ」が「頼み」になり、「お頼み申す。」 ということになったといいます。そこで上つ方の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で挨拶に行くのですね。

暦の専門家でいらっしゃるかわうそさんは八朔の歴史を次のように仰っています。

「徳川家康が天正18年8月1日(グレゴリオ暦1590年8月30日)に初めて公式に江戸城に入城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としていた。

今明治改暦以降は、新暦8月1日や月遅れで9月1日に行われるようになった。」

私は念のために、8月1日が旧暦ではいつになるかと探して見ました。↑↓

2007年  09月 11日 (友引)
ということですので、本来の八朔はもっと先で今より涼しい頃でしょうね。それと暑いさなかは、三伏(さんぷく)の候といい、夏の勢いが大変盛んで秋の気を伏する(降伏する)ということのようです。旧暦ならきのう今日はまだ三伏の中ではないかと思います。

前置きがくどくどと長くなってしまいました。えっ、お家元の話はどうなったんだ?とおっしゃるのですかぁ~~。はい。風が通る家が従来の日本の家屋であった、というお話が中心でした。

「これまでの旧い住居を新しく建て直したが、小川通りの佇まいに合ったものにしたと思っていた。しかし、家の中を以前のように風が通らないんです。見た目には昔風の家でも、エアコンを設置した建築は、すでに自然の風は通り抜けてはくれない。」

そう仰ってお家元は時代の流れというものの難しさを話されたのです。そして更に茶会の箱書きについて、「自分は今後特別なものを除いて箱書きを断ることにした」と。それは、ものの価値でなく肩書きで物を見、判断する茶人のありようを厳しく指摘されたのでした。

新しくものを創るばかりが道ではありません。利休さまがわび茶を伝えられた千家の茶道の正統を行かんとされる坐忘斎家元の静かな気迫を、私どもはしみじみと感じさせていただきました。

茶の湯には梅寒菊に 黄ばみ落ち 青竹枯れ木 暁の霜

利休百首







# by tsubakiwabisuke | 2007-08-07 01:44 | 茶の道
2007年 08月 01日

専門家・研究家・真摯な学究の知己

専門家といいますとすぐ専門バカだとか、仰る方もございますので、れっきとした学者の先達の方々と申し上げます。

私のつたない書きものを丁寧にご覧いただき、ご感想をお寄せくださることを本当に光栄に存じます。

漱石研究家として大家でいらっしゃる方々ですから、お便りにも研究のための示唆を頂戴し、大きい励ましとなります。ありがとうございます。




2007/07/31 07:00   松岡陽子マックレイン様(オレゴン州ユージン市)

伊津子様

 御心配かけて申訳ございませんでした。元気にしておりますが、夏は、この辺りは最善の気候、湿度が低く、昼間はかなり暖かくなりますが、日が沈むとぐっと冷え、熱帯夜というものがほとんどありません。真昼でも室内で窓を閉め切って暖かい空気を入れないようにすると、エアコンがほとんど必要がない所です。日本で言えば避暑地という感じの所なので、いつも他州や日本からのお客様が多く、夏の間はつい忙しくなります。その上ゲラが戻ったりして、何となく落ち着いてお便りをする暇がありませんでした。ご無沙汰お許し下さい。新書が出るのは十月半ばだそうです。

 京都と漱石についていろいろ書かれ、どれも大変面白く読んで、習わせて頂いています。

 ちょうど今度の本の中で、祖母が「お父様はなかなかおしゃれだったんだよ」と言っていたことを思い出して書いたので、伊津子様の半襟の話のところ大変面白く読みました。漱石は自分も良い着物が好きだったし、また子供達が奇麗に着飾るのも好きだったそうです。祖母に半襟の御土産など買おうと思ったことも、彼らしいと思いました。

 『虞美人草』は漱石自身後で厭だと言っていますね。内容は別として、『虞美人草』だけがあんなにごってりしたスタイルで書かれているので、厭だったのでしょう。後期のものは飾りけなく、平坦で単刀直入な文章で書かれています。ですから、いくら漢字が多くても、それさえ字引で引けば、『心』など私の学生が上級になると、あまり苦労せず読めるようになりました。

 私も『門』は好きです。彼の作品のなかで一番暖かいものだと思います。彼が自分で一番好きだと言ったというのがよく分ります。彼の理想の夫婦仲だったのかもしれません。でも漱石の作品は一つ読むといいなと思いますが、また次のを読むと、それもいいと思い始めます。だから、今でも人にどれが一番好きかと言われると、はっきりどれと言えません。芥川は『明暗』をすごく褒めていましたが、あれは少々冷たくて、いくら文学として優れていても、私はあまり好きではありません。やはり個人の好みですね。

 今週もお客様があります。来週は、私が1964年に助手として始めて日本語を教えたときの学生たち(もう孫のいる人もいます)が10人くらい、ある者は他市(日本も入れて)に住んでいますが、皆ここに来て集ることになっています。いわば四十年以上前の学生達のクラス会とでも言うものですから、皆で昔を思い出して楽しむことでしょう。

 ではまた良いものをお書きになったときは、どうぞお知らせ下さい。いつも楽しんで読み、いろいろ新しいことを習わせて頂いています。

陽子




2007/08/01 11:40 内田 道雄様

椿様の達筆・麗筆・速筆に感心しています。折角のご文章なのに、遅くなりました。

『門』は私も、一番大好きだった作品。夫婦愛が共感深く書かれています。「上品な半襟」につきましては「襟善」についての貴重な調査踏まえて「宗助」の愛妻への心情、きめ細かな捉え方で素晴らしいと思います。

『虞美人草』の「初源性」についても同感。吉本隆明の著述等々よくマメにお読みですねえ。椿様がご指摘のこの作品での社会批判・時代意識は言うまでもなく『門』の後半部への転回にも辿れますね。前半の「夫婦愛の物語」はそれによって大きく揺るがされるのですね。

「京に着ける夕」の原体験については水川さんも良く辿ってくれていましたが、今度の椿様のご指摘で安堵!(狩野亨吉、菅虎雄が、誤植になっていました。)

以上お礼まで。

内田拝



2007/07/32 11:25   内田道雄様

下記のURLで拝読が叶いました。プリントアウトいたしまして外出先で熟読いたします。どうもありがとうございました。内田拝

http://www.news.janjan.jp/column/tsubaki/list.php



2007/07/31 09:51   伊豆 利彦様

椿 伊津子さま

漱石と京都というテーマは大事なテーマだと思います。「門」を京都との関連で考えることはしていませんでした。

「門」は私も好きな作品です。これは漱石文学の転換点となったと思います。
今後ともよろしくお願いします。

伊豆 利彦



2007/07/27 08:12   伊豆 利彦様

椿 伊津子様

興味深く読ませていただきました。
半えりのことはいままで気づきませんでした。このことから、漱石のことがあたらしく見えてくるように思えます。

ところで、「虞美人草」には衣装のことなど細かく書いているようですが、「三四郎」ではそんなことには無頓着な三四郎の眼で書かれているし、これ以後もあまりそうしたことは書かれていないのではないでしょうか。

「明暗」はどうだろうか。お延の衣装のことなど書かれていたような気がしますが、どうでしょうか。

ご活躍をおよろこびします。
今後ともよろしくお願いします。

           伊豆利彦



鯰様 (ジャーナリスト)

わびすけ 様

魚が水を得たというのはこんなことをいうのでしょうか。
漱石と古都と半襟 この取り合わせの妙を明快に
ときほぐすさま これはやはり わびすけさんの独壇場ですね。

おもしろく 読ませていただいております。正直なところ
わたしたちが期待していたのも こんな話だったのです。
こころ 豊かに読ませていただいております。





私はこちらの方々とは何度か実際にお会いして、お人柄は充分存じ上げております。

大正時代の香りが残るお方もいらっしゃいますし、昭和ヒトケタの男性は忍耐強いといわれておりますが、やはり現代の若い男性より男性っぽい印象を受けますがいかがでしょう?

いえいえ、ちゃんと現代に生きて活躍されている方々でいらっしゃいます。

学ばせていただくご縁を心より感謝申し上げます。










# by tsubakiwabisuke | 2007-08-01 16:51 | 夏目漱石
2007年 07月 30日

えり善で、漱石が半襟を選んだのは妻の為だったことが判明

今日のIT新聞に、拙記事が掲載されています。先に書きました襟善の半襟の続編にあたるものです。きのう、参議院選挙の投票に行ったあとで、最終原稿を入稿したのでした。

7月30日 tsubakiコラム 京都の取材から書かれた漱石の『虞美人草』と『門』


なにか適当な画像はないかと探しましたが、どうもみつからないのです。

今は記事のお知らせのみでございます。







# by tsubakiwabisuke | 2007-07-30 13:09 | 夏目漱石
2007年 07月 26日

生涯ただひとりの妻を守った漱石の節操

今日、インターネット新聞のトップページ記事の一つに掲載されたのが、

コラム古都つれづれ 07/26 漱石が京都で買い求めた高価な半襟

こちらに書いたものに、新しく『虞美人草』の資料なども入れて加筆いたしました。

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更紗もようの唐紙、漱石の書斎にあったものを漱石が絵に描いています。

漱石は取材した後に、実際にその品物を買い求め、家族に着けさせているのですね。

先ほど、えり善の部長さんからお電話をいただきました。

私は、現在刺繍入りの半襟を扱っていらっしゃるかとお聞きしましたら、次のようにお答えが返ってまいりました。

「せんだって、お嬢さん用にと親御さまから特注がありました時は、手縫いの刺繍入りの半襟が30万円でございました。ただ、あまり値が張りますので大抵はミシン刺繍にする場合が多いのでございます」

そうでしたか。やはり…。

ところで、漱石は奥さんだけでなくお嬢さんにも買ったということが考えられるのです。

「じつは、明治45年から大正にかけて売れ残った半襟が150点ばかり保存しております。当時、残った品の値段ですが、一枚5円が最高のようです。」

なるほど、では、漱石が買ったのは半襟2・3枚と帯揚げだったのかもしれませんね。

まあ、勝手な推測をしてしまいました。

漱石先生、かんにんしておくれやす~~。


皆さまにお願い!!!
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漱石山房と更紗の唐紙
http://homepage1.nifty.com/xkyou/akutagawa.sosekisanbo.html






# by tsubakiwabisuke | 2007-07-26 15:00 | 夏目漱石
2007年 07月 24日

えり善 漱石が京都で買い求めた半襟

店舗新装につき大売出し 半襟で有名なあの店どっせ
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祇園祭には ヒオウギがつきもの。
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今度は5階建てのビルになりますよって、この看板は見納めに。
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夏目漱石先生て、明治42(1909)年10月、漱石は2日間だけ大阪から京都に立ち寄った際、わざわざ四条の襟善に買い物に行っているのです。 それも案内なしでひとり当初から予定していたフシがあります。

半襟と帯揚げを買って18円払っています。日記には「十八円程とられる。」と書いていますから内心は値の高さにおどろいたようです。

さらに更紗の布を物色します。漱石は更紗を好んでおり、漱石山房にも更紗を壁かけにしていたのを見てもその好みが伺えます。

けれども、買い物はここまで。漱石は「女房が気に食はんのでやめた。」ということになったのです。女房が気に食わんといっていることがひっかるじゃぁありませんか。奥さんの土産に高い半襟と帯揚げを買い求めたのはいいとしてもですよ。

私は、祇園祭に出かけたついでに四条のえり善本店へ寄ってみました。私もある品を物色していましたので専務のNさんがやって来ていろいろ話されます。

「あの~~、明治42年頃のことはおわかりではございませんよね?」

「手前どもの店のことでしたなら」

「ええ、その頃お店の奥さんが店に出てらしたとか、今で云う店員さんで女性の方は出てはりましたか?」

「手前どもの店は番頭がでておりまして、女性が出ることはありませんです。何かありましたか」

「じつは、女房が気に食はんのでやめた、と日記に書いている文豪がいるものですから」

「はははは、漱石さんのことですな。あれは漱石の奥さんのことですわ」

「あら、そうでしたか」

なるほど。昔の大だなには番頭がいて主人の奥さんが出る幕はなかったようですね。

いや、もしかしたら鏡子夫人のことではないかもしれない、なんて思った私がおかしいのでしょう(笑)。

夫人のことについて現代人のような愛情表現をしない明治の男だった漱石は、愛人のいない文士としても珍しい存在でした。気鬱の病のためにある時は離婚を言い渡したり、さんざん当たり散らすことはあっても、生涯ひとりだけの妻を守った節操のある夫だったと私は思います。

それでは当時の18円というものがどれほどの貨幣価値があるかを、明治40年代の物価をもとに見てみましょうか。
適当なのがみつかりませんが、約10年後の授業料なら以下の通りです。




東京理科大

◇1919年(大正8年)
 *授業料月額3円50銭に改定
  授業料を月額3円50銭に改定。前年、米価が暴騰して各地で米騒動が起きるなど物価は不安定になっていた。これより前の12年、東京大学の授業料は年額35円、早大年額50円。慶大年額48円(いずれも文系)だった。

☆ 明治40年に逆算して、東京大学の授業料は月額約3円。早大月額約4円。慶大月額4円。


漱石が買った半襟と帯揚げは、たしかに高価ではありましたねえ。
きっと刺繍入りの立派なものだったに違いありません。

帝大出の漱石の給料も書いておきましょう。

明治28年 松山中学英語教師 月給80円。(校長は50円でしたから破格の高給でした) 

明治40年 朝日新聞社入社 月給200円。



店のPR

「京都の「ゑり善」は、半襟の専門店として、400年以上も昔の天正12年に創業。次第に高級呉服、和装小物も扱い、上流階級婦人方に愛される店として地位を築く。京都本店のほか、銀座、名古屋の計3店舗。名古屋店も。」





# by tsubakiwabisuke | 2007-07-24 14:31 | 夏目漱石
2007年 07月 17日

祇園さんの献茶式 裏千家家元ご奉仕

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七月十六日の八坂神社の献茶式は、隔年ごとに表千家と裏千家が交代でご奉仕されています。ことしは坐忘斎・今日庵家元のお献茶の年ですので前から心待ちにしておりました。

茶券と普通はいいますところ、ここは神撰料と印刷されています。その券は九席あって一万円。お裏と表。親戚付き合いの協力と申しましょうか。

一力、中村楼、美濃幸、と老舗の料亭が茶席会場になるという贅沢さに、コンチキチンの音色が
いやが上にも胸の高なりを誘うのです。全国から祇園祭の献茶式に参集した方々その数800人。

ことしは値上がりしたというものの、昨年までは大変お求め安い神撰料でした。ただし点心はありません。和菓子とお茶でまんぷくになりまっしゃろ~~。お値打ちの大茶会だったと思います。

ちなみに詳細を書いておきますと以下のようになります。

○拝服席     今日庵担当(常磐新殿2階)
○副席       三互会担当(常磐殿)、幽静会担当(中村楼)、大中会担当(美濃幸)
○協賛席     今日庵担当(瑶池軒)、淡交会京都支部担当(中村楼階下)、清園会担当(清々館)、菓匠会担当(常磐新殿階下)、而妙会担当(万亭)


なにしろ800人もの客数なんですよ。今日庵席のお世話役の方にそっとお伺いしましたら、約20回とのことでした。大広間ですから40人として一日に20回別の客におもてなしをすることになりますね。

午前9時からの献茶式は、会場外の型テレビにて多くの参拝客はお家元の点前に見入っておりました。後でほんとうに美しい手だったと、お点前のことを囁きあっている声が耳に入りました。


今日庵席に行列で入りますと、業躰さんが私を引き止め、煙草盆の前に連れて行かれました。年の順番かなと諦めてましたら、茶道口からお家元がにこやかにお出ましになりました。

「正客のTさんはじめ、皆さん…」と、席主としての丁重なご挨拶。ソフトなお声は声帯を痛めていらっしゃるように先日お聞きしたばかり。でも、もうそんなに良くなられたとは…。

「新潟では、震度6強という大地震があったと今、聴きました。ご家族の方か知り合いの方がおられる方はどんなにかご心配のことと思います。」

冒頭にこのお言葉がありました。こういう気配りをなさるのがお家元なのですね。いつもそうした心を感得させていただきます。その次に祇園祭の天候から席の道具組みなど平易な語り…。

「今日の軸はあまり出していない玄々斎です。玄々斎は字がうまいですなぁ~。」

「楽事万々歳」 五字一行。じつに雄大な墨痕淋漓とした書体でした。

待合に宗旦の消息。「読めぬ宗旦」通りの難解な文字でした。ただ、六月二日の日付の字はハッキリ読み取れましたが。これの日付には深いわけがあるのです。旧暦の六月二日を新暦に読めば祇園社の祭礼の初日になるとお聞きいたしました。ゆっくり時間をかけて解読したいものです。

私はすばらしいと思いました。ことしもこれらのお道具にまたお目にかかることが叶いました、と参拝客は一瞬、生きた歴代の方々をまのあたりにするのでしょう。これぞ、茶会の醍醐味と申しましょうか。

メインの今日庵席で、正客の座に引っ張っていかれたのは、こんなはずじゃなかったです~~。お家元のご挨拶でTさんとよびかけられたヒトは、平生の行いはあんまり褒められたモノデナイ。痛み入りました。

お家元との会話。
「今日の菓子は行者餅です。疫病除けにどうぞ召し上がってください。」

「ありがとうございます。でも折角のお守りですからこれはお土産に持って帰ります。」

「そういうこともあるかと思って、紙はそのまま外さないでおきました。」

菓子鉢に透明なセロハン紙に巻かれたままの行者餅。
こうした心くばりのあることをあらためて嬉しく教えていただきました。


その他の席は、中村楼の幽静会・淡交会京都支部。
みなさん、お世話さまでございました。いずれのお席もお茶をいただき、ほっこりと一息つきました。

一力の大書院では、表千家の茶席。ここでも何かのせいで上に追いやられ、長板二つ置きのお点前を半畳隔ててまん前に坐って拝見。舞妓さんの可愛いお運びでお茶をいただきました。

男性の半東さんと少しお話いたしました。

「夏目漱石が明治40年と大正4年にこの一力の「大石忌」に来ています。
舞妓やお茶などに接してたいへん驚いたように書かれてますね。」

「そうでしたか。舞妓の出る部屋はこの部屋だけなのです。」

それではこの広間で漱石が居て、ものごとを見聞したということになります。なるほど。
なお、屋号の万亭が一力と呼ばれるのは万の字が一と力で出来ているという所以です。


帰る道順は万亭の土蔵を前にして、庭の緑がさわやかな廻り縁を歩いて例の大きい暖簾「一力」をくぐって外界へ出ました。財政難から今の所有者は、新興の回転寿し屋になっているという説あり。とにかく真偽のほどはわかりませんが、これだけの伝統ある構えを維持するのは大変なようです。


もう一席は、美濃幸で行われておりました。やはり広間二間続きで点前座は長板の二つ板置き。どちらも平水指が夏の風情ですね。半東は男性。点前は女性。正客に勧めてなって頂いた方は淡交会青年部で大活躍の太田さん。男性ですが麻の縦じまの和服を着用しておられました。なかなかいいものでした。

涼やかな菓子なども嬉しいもてなしですが、客の着物も夏らしく奄美大島の香りがただよう「草のきもの」で、一座の雰囲気をごいっしょに楽しんだひとときでした。




この日記は17日に非公開でUPしていたものですが、PCの不調でそのままになっていました。

祇園祭は過去ログにも載せておりますのでそちらもどうぞ!

http://rendezvou.exblog.jp/3855066

http://rendezvou.exblog.jp/3813812

http://rendezvou.exblog.jp/3790780

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/heiwa.html

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/zaihu.html

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/gionmaturi2003.html






# by tsubakiwabisuke | 2007-07-17 23:07 | 京都
2007年 07月 14日

公式サイト掲載記事へ 諸先輩の方々からご感想をいただいて

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祇園新橋の多佳女をしのぶ歌碑

昨日、IT新聞のコラムが更新され、拙記事が掲載されました。

夏目漱石の縁(えにし)祇園と多佳女

私には尊敬する大先輩ともいうべき漱石研究家の方々と、もう長らくお付き合いをいただいております。みなさま碩学でいらしってこの方面の大家でいらっしゃいます。いつも過分のお励ましをいただく身には、勿体ないと恐縮することが多いいのです。

その中から差しさわりのないものをご披露させていただきましょう。
そのいくつかは、掲示板の書き込みになるコメントもございます。



new 2007/07/15 06:56 内田道雄様 (学芸大学名誉教授・漱石研究家)

 椿様。

 早々のお知らせにもかかわらずご返信遅くなりました。全集読み直す必要を感じまして時間が掛かった次第です。この標題での椿様のご見解は誠に穏当・妥当と感じました。やはり京都にお住まいでいらっしゃってその土地柄や人柄を知悉していらっしゃる事から自ずと滲み出る説得力があって読者を魅了します。病身で神経質・気位ばかりは一人前という漱石を、その作品への傾倒ゆえに大らかに受け止めて何と!「大友」での看病をも喜んで引き受ける36歳の多佳女。西川一草亭・津田清楓兄弟や鏡子夫人らの依頼があったにせよ、、これは稀有の美談でもあります。ここを椿さんは「終始同じ人間として」の「親しみ」という平易なことばで捉えています。
 これは後の漱石の二通の手紙でも訴えられている「切望」でもありました。(私はこの二通の多佳さん宛漱石書簡には歳若の弟めいた「甘え」を感じてしまいます。)
 椿さんの独壇場は漱石の「春の川」の句の解釈です。旧来の二方向の解釈をいずれも包容しながら「多佳さんに、感謝のきもち」を込めて書いた、と、これは正確なご指摘でもあります。句の成立を追って作品のふくらみを明かすここの一段はご文章につやがあって素晴らしい、と思いました。
 吉井勇の歌碑と対応させて美麗な写真を並べて下さっておられます。京都の町々(今日は嵐ですが・・・)を思い描きながら、鴨川の向こう側を思いやるように漱石句碑の呟きを私なりに心中で辿ってみようと思います。
 唐突のようですが「男と女のあいだには深い川がある」(野坂昭如)のあの歌も連想されますね!

内田拝




名前:namazu 2007年07月12日(木) 00:01 なまず様 (元新聞記者)

「夏目漱石の縁 祇園と多佳女」わびすけさんならではの話題ですね。わかりやすく、おもしろく読ませていただきました。漱石のとまどい顔が透けてみえます。ほんとうのところ漱石は京都が好きだったんですね。




by 鯰 at 2007-07-11 23:30 x

 飾り気なくしんが強くてしなやか。多佳女さんの話 興味深く読ませていただきました。読んでいくうちに「京女」とはこんな女性のことを言うのだろう、と変に納得しました。
 東男の漱石が魅せられたのもむべなるかな、とも思いました。 京歩きでの楽しみがまた ひとつ増えました。 ありがとうございました。




2007/7.14 03:50 松岡陽子マックレイン様 (オレゴン大学名誉教授)

伊津子様

 『漱石の縁、祇園と多佳女」お送り下さり有り難うございました。丁度今自宅の庭で紫陽花が咲き始めたので、多佳さんを偲び、面白く読ませて頂きました。京都の友人が、かなり前ですが、自宅に来られた時、アメリカは何でも巨大だけれども、紫陽花だけは日本のものの方が、ずっと大きくて立派だと言ったことが記憶に残っていますが、本当にこちらの紫陽花は日本のほど立派ではありません。多佳女が愛したのは、その大きくて立派な紫陽花ですね。いくら肥料をやっても自宅の紫陽花は大きくなりません。きっとこの花は多佳さんと同じように、しとしと降る雨、湿気を好むのでしょう。この辺りでは紫陽花は六月から七月にかけて咲きますが、空気が乾燥しているため、大きくならないのかもしれません。紫陽花で詩を詠むということもあまり聞きません。

 また数年前に京都に伺い、祇園祭りを見せていただいたことも懐かしく思い出しました。「京都漱石の会」が発足、京都と漱石について、ぜひもっとお書き下さい。「坊ちゃん」から漱石を江戸っ子としか考えない読者が多いと思いますが、彼が京都の静かな町を愛したことが、この伊津子様の文でもよく分ります。

陽子



2007/07/06 05:59 ヨーコ マックレイン (漱石のお孫さま)

伊津子様

 精中忌での、美しい紫のお召し物でのお手前のお写真有り難く拝見させて頂きました。お家元の前で次席として堂々となさっているところ、いつものことながら本当に感心してしまいます。また歌もお詠みになるのですね。まったく伊津子様には、いつも感嘆させられることばかりです。

 私は自分が無調法者で、雅やかというのでしょうか、風流というのでしょうか、ともかく、そういうことに、まったく疎いので、そのようなことの他にも、最も近代的なコンピューターの知識も深い、つまり古今の業(わざ)に通じていらっしゃる伊津子様を尊敬申し上げるのです。

陽子


2007/06/21 01:25

伊津子様

 京都の風流を愛した漱石
 早速読ませて頂きました。とても素晴らしいです。それですぐ「この記事が気に入ったら…」というところを押しました。私も漱石は京都を愛したのだと思います。京都と漱石について書けとおっしゃいましたが、伊津子様がもうすべてお書きになりました。ですから、書く時が来たら何か他のことを書かせて下さいませ。

 参考になさった小林孚俊樣には私もお会いしました。とても良い方で、1985年でしたか86年だったかよく覚えていませんが、私がこちらの学生を連れて早稲田大学に二年ほど行っていた時、四月二十九日の「鎌倉漱石の会」に連れて行って下さいました。講師は女流作家でした。その頃もうかなりのお年だったので、蔵書を古本屋に二束三文で売りたくないとおっしゃり、ご親切に皆私に下さったのです。それで私は丸通を雇い、幾つかの大きな箱に入れてアメリカに送り、大変有り難く長年重宝させて頂きました。

 そうそう、アメリカに住むので、私はいつも滿で数えて,漱石は四十九歳で他界したと言います。荒正人氏の年表は数え年なので、いつも滿に直します。日本はまだ数え年を使いますでしょうか。

 あっ、今、庭の掃除をしてくれる若い人が来ましたので、ここで失礼致しします。それではまた。

陽子




伊豆利彦様 (横浜市立大学名誉教授)

2007/07/13 10:43
椿 わびすけ様

 エッセイ拝見しました。漱石と多佳女ん対する愛情がこもった文章だと思います。
 私は漱石の手紙で知っているだけでどんな女性かと思っていました。
 あなたのエッセイで二人の関係がわかり、あの手紙の意味もいろいろ考える手がかりをあたえられました。ありがとうございます。

 京都漱石の会発足の由、活発なご活動には深い敬意を表します。
 ご成功を祈ります。
 ただ、このごろは、脳力極度に衰え、文章がかけるかどうかわかりません。
 
 ホームページも多彩なものになり、ご努力に感銘しています。
 今後のご発展をお祈りします。

      伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/


◇◇◇◇◇

ブログのコメント欄にご投稿くださっております皆さまにも、心より御礼申し上げます。
ありがとうございます。







# by tsubakiwabisuke | 2007-07-14 14:50 | 夏目漱石
2007年 07月 11日

夏目漱石の縁(えにし) 祇園と多佳女

元大手の新聞記者でいらしたYさんからお便りがまいりました。

「多佳女さんのこと初めてうかがいました。北野の観梅に誘った祇園の女性に断られて落ち込んだ漱石の話はどこかで読みました。「虞美人草」をもう一度読み返してみます。」

 Yさんはこのtsubakiコラム、先の拙稿をご覧の上ご感想をお寄せくださったようでした。漱石と祇園ということは、担当でない分野であまり知られていない内容であったのかもしれません。

 多佳女と漱石についてはかなり多くの論評がなされています。
「漱石は花街に無理解な人間だ。」「漱石という人間は京都にしっくり来ない。」「お茶屋・廓と漱石とはイメージが合わない。」

 さあ、真実はどうなのでしょうか。漱石が祇園を訪れたのは何時だったか?多佳女を知り付き合うようになったそもそものいきさつは?
 漱石が多佳の「梅見」の件で立腹したこと、その時代背景も考えながら私は漱石が多佳に何を語ろうとしたかに触れたいと思います。

祇園・一力の大石忌

 漱石がはじめて祇園にきたのは明治四十年。兄事する狩野亨吉の住む下鴨の家へ逗留した漱石のもとへ、高浜虚子がやってきて祇園に誘い出したのでした。

 万亭(一力)の大石(内蔵助)忌が行われている時で、漱石は13、4歳の二人の舞妓とひと時を過ごしています。虚子の文によれば漱石は父親のような眼差しで接したようです。

 大正四年春、今度は西川一草亭の案内で再び漱石は祇園を訪れます。やはり一力の大石忌です。一草亭はその時の漱石を次のように述べています。

「祇園の一力に大石忌があったので、それを見に行った。古風な座敷に並べた遺墨を見て、舞子の運んでくるお茶をよばれたり、庭で蕎麦をよばれたりした。帰りに「こんな茶を」よんだり、そばを食はせたり、懸物を見せて入場料を取らないのかね。京都といふ処は実に不思議な土地だ」といって驚いて居られた。」

 東京では到底あり得ないことが京都では行われている…。漱石にはなんとも不思議な光景に映ったと見えます。けれどもこうしたもてなしが受けられたのは、訳がありました。一力の女将はお茶屋「大友(だいとも)」の姉娘であり、そうしてその妹娘であったのがお多佳さんだったのです。

 津田青楓画伯の実兄・西川一草亭という案内人によって、漱石は賀茂川べりの旅館・北大嘉に滞在し、川向こうのお茶屋「 大友」の女将である多佳女と付き合うことになります。

漱石が多佳女に出会う

 漱石が多佳女に出会った時、漱石は48歳。多佳は36歳でした。しかし、これより約10年前に多佳は芸妓を止め、浅井忠から依頼されて、浅井の経営する陶器店「九雲堂」を手伝っていた時代があります。多佳はその店で自ら絵付けをして出来た湯飲みを漱石へ人づてに贈っているのですが、漱石のほうでは自分の愛読者たちが当時から京都にいることを日記に書いています。

 浅井忠は漱石の英国留学時代に付き合いのあった洋画家であり、多佳と漱石とは全くの無縁の間柄ではなかったといえましょう。そのえにしが急に接近したのはこの大正4年の京都旅行でした。旅のきっかけは、鏡子夫人が津田青楓へ漱石を保養がてらに連れ出してほしいとこっそり依頼したのでしたが。

 鏡子夫人は、夫の持病であった胃病の好転をねがって、ゆったりとした京都旅行をして来てほしいと津田に話したことを、漱石はもとより知る由もありませんでした。
 
 漱石が日本画を描くに当たってよい相談相手になり、漱石の心酔者であった津田青楓が故郷である京都に住居を移したこともあって、漱石の保養を兼ねた旅が実現しました。

 この当時は、多佳は母の経営するお茶屋「大友」を継ぎ女将となっていました。かねてからひそかに尊敬し愛読していた文豪の上洛です。津田の仲介により漱石が宿にしていた北大嘉で、多佳へ声がかかった幸運を多佳は感激したのです。

 そもそもの出会いがいわゆる遊里の芸妓と旦那客といった関係でなく、漱石は終始おなじ人間として親しみ深い態度で接しています。その後。漱石はひどく体調を崩し大友に二晩も寝込む事態になります。多佳がかいがいしく看病し、病気が落ち着くのを待って漱石は京都を離れました。都合29日間の京都旅行でした。

多佳女に与えた俳句

 大正4年3月下旬、祇園のお茶屋「大友」の磯田多佳女に与えた色紙。

「  木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに

   春の川を隔てて男女哉   漱石    」

 この句には、なにか天の川を隔てて男が女を想うロマンがあると見る向きもあるようです。たしかにどこか甘美なひびきがありましょう。また一方、漱石は男と女の間にある隔て、心理的な溝の存在を示唆しているのだとする見方もあります。

 そのどちらの見方も真実と思います。漱石の作品は読者がそれぞれに受け取ることを想定して書かれており、作者の主張を一色に表現していないからです。後者の見解は、この句が書かれた時、漱石は多佳女が梅見の約束を守らなかった時に作った句であるがゆえに、その心の間隙を詠んだものと見るのです。

 私は、漱石が立腹したことがあったにせよ、ここ京都の地で親身になって世話をしてくれた祇園の女将であるお多佳さんに、感謝のきもちでこの句を書いて与えたのだと強く感じるのです。そこに文豪・漱石の真面目(しんめんぼく)を見る思いです。

風流・閑適を愛した漱石

「明窓浄机、これが私の趣味であろう、閑適を愛するのである」
大正3年3月、朝日新聞『文士の生活』の一節。

 
「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、
人の心を豊かにするが故に尊い。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、
有難い世界をありのままに写すのが詩である、画である。」
『草枕』

 漱石のこの京都旅行について、鏡子夫人は『漱石の思ひ出』にこう述べています。漱石が寝込む前のことです。
「今まで西川さんや何かに何くれととなく御厄介になった、そのお礼心にどこかで一夕お招きしたいといふので、お多佳さんのお家で舞妓の踊りでもといふ段取りをつけて、それには金が少し足りそうにないので、すぐ百円ばかり送ってくれろと申して来ましたのでそれを送りました。」

 鏡子夫人は、漱石亡き後も京都にくれば必ずお多佳さんを訪ね、付き合いは長く続いたようでした。

画像はこちらに

磯田多佳のこと

 祇園は京都では独特な読み方で花街(かがい)という古風な地域です。伝統の礼儀正しいしきたりが今も守り続けられているのは、五花街の中でも祇園甲部が一番といわれています。
 
 都をどりは祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞(まい)の会です。明治5年(1872年)に京都博覧会の際に創演され、時の京都府槇村知事が歌の作詞を書き、井上流家元、井上八千代が振付した京都をあげての町興しでした。東京遷都のショックから立直るための大イベントだったのかもしれません。

 今なお、都の誇りを掲げる伝承がここに生きている祇園町。その祇園甲部にあって文芸芸妓とうたわれ、著名な文人たちの集う文芸サロンとなっていたお茶屋「大友(だいとも)」の女将であった多佳女…。

 磯村たかは、明治十二年(1879)、 祇園新橋のお茶屋の二女として出生。父親は下級武士の出で、芸妓であった母親の名はとも。その名前をとって屋号が出来たようです。茶屋といっても暗い環境ではなく平穏な家庭に育っています。美しい芸妓の姉は万亭(一力)に嫁ぎましたが、多佳は三味線の弾き手となり、和歌や絵を熱心に学びました。

 蓮月尼の門人であった歌の師上田重子についていましたが、多佳を養女にと望まれた程、歌の才にも恵まれていたのでした。若き日にはこうつぶやいたそうです。

「一に器量、二に芸…といわはりますけど、祇園の女は器量だけやない思いますんや。」

 しかし、花街の芸妓という期間は多佳が23歳ころまでで、すぐに母の経営になる「大友」を継いで女将となっています。それゆえ自由に行動できた面があり、他の芸妓と同じには語ることは出来ないのです。

 和歌とともに、俳句も学んだ多佳はつぎの作品を遺しています。

散る花の それたにあるを 中々に ととめかねたる 人いかにせむ

梅咲くや わすれられて はや二年越し

だまさるる 身はおもしろし 宵の春

死ぬといふ 女のくせや ほととぎす

 歌にも句にもはかなさが漂い、花柳界に生きる哀愁と達観すら感じられるのではないでしょうか。着るものも地味で縦じまの紬のきものを好んでよく着ていたといいます。

 多佳は終生、雨の日と紫陽花の花を好んだといいます。巽橋のかかる白川辺の元あった「大友」の庭には紫陽花が植えられていた由。そして、昭和二十年(1945)5月に多佳は養子又一郎の家で静かにみまかったのです。

 やはりこの日も雨が降り、紫陽花の花がうつくしく咲いていたと、『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』の著者、杉田博明氏は書かれています。

 それでは、お多佳さんに贈られた文人客の手向けの歌をここに。

あじさいの 花に心を 残しけん 人のゆくへも しら川の水
・・・・谷崎潤一郎

年ごとに 君がこのめる 紫陽花の 花は咲けども 多佳女世になし
・・・・吉井 勇

参考文献
岩波『漱石全集』より『日記・断片』『書簡』『漱石言行録』。
夏目鏡子『漱石の思ひ出』。西川一草亭『瓶史』。杉田博明『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』

◇ 

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# by tsubakiwabisuke | 2007-07-11 16:51 | 夏目漱石
2007年 07月 10日

松庵茶会七月例会は ぎおんまつりで

七月九日は、京都美術倶楽部・松庵茶会が開催されました。今月の担当は山本松濤庵。山本さんは美術倶楽部では比較的新しい方ですが、先代から数寄者の道具屋として知られた存在だったようです。10数年前、私がさる料亭に出稽古に行ってました時、若女将がひいきにしていたお道具やさんでした。忘れていたことをふっと思いだしました。ひょうひょうとした人柄がこの席にも感じられました。

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主のことば、 余白が多うてちょっとしか描かんでも昔はそれでよかったんでしょうかな。

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神鈴。
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唐獅子の香合。やさか神社をまもる狛犬、獅子と一対ということで今日は獅子を。

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とうろうやま カマキリ。これは名工といわれている〇〇が作っています。床脇に。

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籠行李蓋の煙草盆。青貝入りの煙管。

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南蛮の渋い水指はいい味でした。蓋裏にも工夫がみえました。

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菓子器はバカラの金縁が替えに、主の器は江戸切り子で痛いほどの良品。薄茶器の涼味ある色彩。全体は華美にならず、しっとりとして祇園祭の趣向がそこはかとなく漂う取り合わせでした。
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ここに表示されない画像2枚はココログのほうへ。







# by tsubakiwabisuke | 2007-07-10 02:47 | 茶の道
2007年 07月 06日

精中忌 お参りの皆さま ありがとうございます

平成19年7月5日、裏千家今日庵・精中忌の行事には、直門の志倶会がことしも添え釜をかけさせて頂きました。紫明通りにある茶道研修ビルの2階に早朝から準備に。茶席を整え、9時前には全国から参集された同門のみなさま方をお迎えいたしました。

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ここには表示されない画像が2枚、ココログのほうにアップしております。






# by tsubakiwabisuke | 2007-07-06 23:36 | 茶の道
2007年 07月 05日

今日の精中忌の画像がもう裏千家HPにUP

popyuさんという北海道の若い友人から先ほどメールが来ました。
なんと、今日の精中忌の画像が、裏千家ホームページにアップされているというお知らせです。
ええっ! なんと迅速な対応でしょうか!

http://www.urasenke.or.jp/textm/headq/soke/koyomi/seichukih19/seichukih19.html


咄々斎では、手向けの七事式(唱和之式、仙遊之式、三友之式)が行われ、参列者は順次拝見。対流軒には七夕にちなんだ乞巧奠が飾られ、法要に取り合わせられた道具が展観されました。

http://www.urasenke.or.jp/textm/headq/soke/koyomi/seichukih19/seichukih19-09.html

手向けの七事式(唱和之式)

唱和之式(しょうわのしき)は、裏千家14代無限斎(淡々斎)の制定された式です。精中忌は、精中・円能・無限忌というお三方の遠忌になるものなのです。私どもは一番先にこの唱和之式に出させていただきました。

花寄せのあと香をまわし濃茶、薄茶と点茶。その後にそれぞれ自分の入れた花を歌題にして和歌を詠み短冊にしたため、一人づつ朗詠いたしました。


お分かりになりますでしょうか?

正客、中宮寺門跡・日野西光尊さん。
次客、大年増というもはばかれる誰かさん。

亭主役、大阪のかっぷくのいい男性茶人。
他のおふたりは柱のかげに…。おきれいな方ほどひっそりと。



正客の詠草。

歌題 桔梗(ききょう)

ありがたき精中忌の会(え)に 集ひより ききょう供(そな)ふる今日ぞうれしき
    光尊 


次客

歌題 撫子(なでしこ)

巴里に住む君のつくりし 茶の庵(いほ)に くれなひにほふ なでしこのはな  
宗津


他の方々のお歌はここにしたためることが叶いません。みなさまお上手に詠まれておりました。



私どもが担当いたしました副席のもようは別に撮影しておりますので、写真を後ほどアップいたしましょう。






# by tsubakiwabisuke | 2007-07-05 22:46 | 茶の道
2007年 07月 03日

桐蔭会7月 京都美術倶楽部青年会の祇園まつり

空梅雨のなか、東山七条へ。
桐蔭会7月2日、今回の当番は京都美術倶楽部青年会です。
理事長はご存知、善田昌運堂さんのご長男。誰に対しても礼儀正しく好感のもてる青年と思います。本席でご正客は釜師の宮崎寒雉さん。次客アメリカから陶芸のリチャードさん。ゆったりと坐れたいいお席でした。点心席でそっと撮らせていただいたスナップをご披露いたしましょうか。

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# by tsubakiwabisuke | 2007-07-03 03:15 | 茶の道
2007年 06月 26日

あじさいの雨 多佳女のこと

生きものに感謝「放生会」 (京都市) …大橋昭博さん撮影(京都府)

京都・祗園で6月3日に行われた放生会(ほうじょうえ)。舞妓らが金魚を川に放流生きものへの感謝の心を示す。(yomiuri)
http://www.yomiuri.co.jp/vbox/index/list/toukou103.htm

リンクさせて頂きましたかつて「大友」のあった付近。白川、巽橋の動画です。感謝!

http://megalodon.jp/?url=http://www.yomiuri.co.jp/vbox/index/list/toukou103.htm&date=20070625000832

祇園は京都では独特な読み方で花街(かがい)という古風な地域です。伝統の礼儀正しいしきたりが今も守り続けられているのは、五花街の中でも祇園甲部が一番といわれています。

都をどりは祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞(まい)の会です。明治5年(1872年)に京都博覧会の際に創演され、時の京都府槇村知事が歌の作詞を書き、井上流家元、井上八千代が振付した京都をあげての町興しでした。東京遷都のショックから立直るための大イベントだったのかもしれません。

今なお、都の誇りを掲げる伝承がここに生きている祇園町。その祇園甲部にあって文芸芸妓とうたわれ、著名な文人たちの集う文芸サロンとなっていたお茶屋「大友(だいとも)」の女将であった多佳女…。

磯村たかは、明治十二年(1879)、 祇園新橋のお茶屋の二女として出生。父親は下級武士の出で、芸妓であった母親の名はとも。その名前をとって屋号が出来たようです。茶屋といっても暗い環境ではなく平穏な家庭に育っています。美しい芸妓の姉は万亭(一力)に嫁ぎましたが、多佳は三味線の弾き手となり、和歌や絵を熱心に学びました。

蓮月尼の門人であった歌の師上田重子についていましたが、多佳を養女にと望まれた程、歌の才にも恵まれていたのでした。文学と絵画に知識を深めて行ったことも文人客を喜ばせることになりました。

花柳界のなかで、器量のいい芸妓ではなかったとしても、誠実な愛をもって生きたひとりの才ある女性としていつまでも人々の心に生き続ける多佳女。若き日にこうつぶやいたそうです。

「一に器量、二に芸…といわはりますけど、祇園の女は器量だけやない思いますんや。」

私はをんなのたおやかさ、芯の強さ、清冽なものを水の音さえ聞くように感じました。

その多佳は終生、雨の日と紫陽花の花を好んだといいます。巽橋のかかる白川辺の元あった「大友」の庭には紫陽花が植えられていた由。そして、昭和二十年(1945)5月に多佳は養子又一郎の家で静かにみまかったのです。

やはりこの日も雨が降り、紫陽花の花がうつくしく咲いていたと、『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』の著者、杉田博明氏は書かれています。


それでは、お多佳さんに贈られた文人客の手向けの歌をここに。


あじさいの 花に心を 残しけん 人のゆくへも しら川の水・・・・谷崎潤一郎

年ごとに 君がこのめる 紫陽花の 花は咲けども 多佳女世になし・・・・吉井 勇


◇ 

2006/06/17 京都 東山区 祗園町 南側


IT新聞tsubakiコラムに掲載された拙記事です。






# by tsubakiwabisuke | 2007-06-26 13:20 | 夏目漱石
2007年 06月 19日

京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々

画像はこちらへ。昭和41年11月9日句碑建立。除幕式は翌年の 昭和42年4月9日に。

京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々

しばらくお休みしていたIT新聞のtsubakiコラムに、今日拙文が掲載されました。



磯村多佳は、明治43年7月発行の『新小説』の「代表的婦人」という欄に、上村松園、鳩山春子、福田英子、平塚明子、などの各方面で活躍中の女性の紹介記事があり、多佳女の名前はその中に見えるのです。

新橋縄手東入妓楼「大友(だいとも)」に生まれた多佳女は、祇園一力の女将おさだの実の妹で幼少のころから読書を好み、歌と俳句を学び絵は浅井忠に師事。一時文芸芸妓の名が高かったといいいます。


すみません。この続きは夜、書くことにしますね。






# by tsubakiwabisuke | 2007-06-19 19:04 | 夏目漱石
2007年 06月 16日

鴨川の畔に建つ漱石の句碑はこのようにして

漱石と京都

明治二十五年 夏

子規と京都に遊ぶ

明治四十年 春

朝日新聞社入社のため上洛 狩野亨吉邸に泊す

虚子と遊び「虞美人草」等の取材を得 後 春はものゝ句になり易し京の町 の句もあり

大正四年 春

旅亭 大嘉(この付近)に泊し 一草亭 青楓らと仕事の疲れを医す

漱石病み 祇園の磯田多佳ら看病のことあり

句碑の 春の川を隔てて男女哉 は三月 多佳におくった句である。

昭和四十二年四月九日 


以上の銘文は京都漱石句碑の会が、漱石を敬慕する有志の方々の浄財をもって建立した句碑の事由をしるしたものです。鎌倉漱石の会を創始し代表であった鎌倉在住の内田貢氏が京都にもと考えられ実現したのでした。

昭和42年2月9日(旧暦では1月5日)は、漱石生誕100年になるのでした。けれども除幕式は2ヶ月後の昭和42年4月9日、漱石生誕100年を記念碑として行われました。
京都にて漱石句碑除幕式。

(京都滞留の宿屋跡の句碑。京都市御池通東端川畔)

大正4年3月下旬、祇園のお茶屋「大友」の磯田多佳女に与えた色紙。
「     木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
    春の川を隔てて男女哉   漱石       」


発起人は漱石ファンの篤志家18名。
秋山、阿部、石村、磯田、今来、内田、金子、北山、小石、小林、高山、津田、中島、西川、三浦、山口華、山口昌、山本、の諸氏でした。

当時、高山市長のお名前もみえています。地元の京都を主として全国から集まった篤志家の寄付金で建立された比叡山の形の八瀬・真黒石の句碑。京都を代表する発起人の中島氏は祇園甲部の取締役でした。

北山氏の司会、鎌倉円覚寺帰源院富澤住職による禅式の「開碑香語」。多佳女のお孫さんの磯田日出子嬢の序幕。小林氏の「春の川」句朗読。内田氏の経過報告。京都市文化観光局長の石堂氏の祝辞もありました。


この日は春雨のなかに句碑はしっとりと、黒く自然石のかがやきをもって漱石生誕100年顕彰が行われた一日であったといいます。


その後、この句碑は京都漱石句碑の会から京都市に寄付されました。私は市の観光課に問い合わせたところ、つい先日以下の回答がありました。

「京都女子大学、堀井氏により、平成9年3月10日、京都市へ寄付の申し出があり。寄付受納、4月10日。」

ところが、当時はあった駒札も今はなく、管理も手がまわらないのでしょうか。京都市民が殆ど漱石句碑を知らない、気づかないといった現状なのです。

たいへん残念なことと思います。

これをお読みくださったみなさまは如何お感じになりますでしょうか?

なお、句碑の銘板には、書かれていないところがあります。 明治四十二年(一九〇九)十月、漱石は二日間だけ大阪から京都に立ち寄っています。

10月15日、朝鮮(満韓ところどころ取材)から船で下関港。下関発京都行きの一等寝台で大阪へ向かう。人力車で大阪朝日新聞社に行き、夕方京都へ。三条小橋西の万屋に宿泊。翌16日は嵯峨や北野天満宮などを見る。

面白いのは、電車で四条の襟善に行って買い物をしているのです。その買い物とは半襟と帯揚げなど、鏡子夫人やお嬢さんがたへのお土産だったのでしょうか。漱石のやさしさが感じられます。そしてこの夜、東京に発っています。




参考文献

小林孚俊氏の私家版『漱石と多佳女』(昭和61年4月9日)

内田貢氏の「夏目漱石と帰源院」

荒正人氏「増補改訂・漱石研究年表」







# by tsubakiwabisuke | 2007-06-16 14:09 | 夏目漱石
2007年 06月 09日

栄西禅師へのお献茶 副席をかける喜び 

6月5日は 恒例の建仁寺献茶式。
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建仁寺開山忌 お家元の献茶があり、ことしも副席をかけさせていただいた淡敬会でした。
ご参拝のみなさまへご奉仕できることのよろこびを、ことしもいただきました。

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法堂沓(はっとうくつ)。 正式な法衣を着用する時の唐様沓(靴)です。
高位の僧のみに履くことが許されているとか…。禅宗で襪子(しとうず)の上から履くと聞きますが、さて、襪子(しとうず)とは? 指の分かれてない足袋のご先祖で、べっすともいうようです。

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水指 鉄鉢 東大寺伝来

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拡大画像です。盛阿弥作 棗の底には、直書あり。さてどなたの?
はい。一燈さんですよ。覚々斎の箱書きもございます。


兄と 弟と ということで私が説明しているものを少し…。


兄と弟が ここに いてはりました。はい、竺叟(ちくそう)さんと一燈さん。
裏千家八代叉玄斎一燈宗室のお兄さんがこの竺叟(ちくそう)さんです。
実はこのご兄弟、表千家からご養子にこられたお方のようです。

表千家・如心斎の二番目の弟が、裏千家七代竺叟宗乾。25歳の若さで急逝。
そして三番目の弟が裏千家八代叉玄斎一燈(ゆうげんさいいっとう)。

このご兄弟の合作ともいうべきものは、今日のこの一会にご覧頂けます。
花入れと箱書き。そしてさらに、棗と箱の書付。

極めつけに覚々斎の外箱が出てまいります。
裏千家八代一燈と表千家六代覚々斎。
この方は如心斎の父。おなじく竺叟一燈兄弟にも父に当たる方のようですね。

養子といいますと昔、「こぬか三合養子に行くな」とかいわれたもんですけど、
こんな立派なご養子はんがいてはったもんと深く感じ入ります。

なお「如心斎と一燈は兄弟であるとともに、利休の伝統を守る二つの千家を担う人であった。」と
筆記された表千家関係の貴重なウェブサイトをみつけました。
「如心斎と一燈」をどうぞクリックしてくださいますよう!

http://www.geocities.co.jp/Foodpia/1095/cha/ittonyosin.html
お時間のない方にはここでその一部を引用させて頂きましょうか。


「 兄の如心斎が弟の一燈宗室のところへ茶に行ったときのこと。一燈に請われるまま、
如心斎は炭をついだ。同席していた水雲という一燈の弟子が見ていて、如心斎が帰るや
こんなことを一燈に言う。「如心斎という方は花は上手ですけれど、炭は下手ですね。」
一燈は笑って答えた。「そんなことはないよ。私は花はまずまずやるほうだが、炭は下手だ。
だからそれを隠すのに炭点前にアヤをつけるのさ。
兄が炭点前を何なく平々凡々にやってのけるのにはとても及ばないよ。」
 一燈宗室の言葉に謙遜の意味が含まれるのは言うまでもないが、
茶の湯にとって当たり前にすっと済ませることは一番難しく、一番大切なことである。」




ひとまず写真だけをアップしておきました。。。ここには表示されないものもございますが。
よろしければ、ココログのほうへどうぞ





2001年6月 建仁寺開山忌 献茶式・茶会


2003年6月 建仁寺献茶式  四代目の家系 或る業躰家

2004年6月 家元とヤブレガサ 建仁寺献茶式の日







# by tsubakiwabisuke | 2007-06-09 01:45 | 茶の道
2007年 05月 29日

大徳寺利休忌 今日庵当番 淡敬会席

ことし5月28日、大徳寺聚光院(じゅこういん)にて、利休居士の月命日法要。そして追善の釜が裏千家の当番。今日庵席に添えて直門の淡敬会席がお釜を懸けさせていただきました。

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三玄院北門のまだ開かれていない門扉に、「在釜」の小旗。7時台でもすでに遠隔地からおまいりの方々が佇んでおられました。

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無量寿塔。同門の物故者すべての方々の 供養のために。


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大徳寺 玉舟筆 南山雲起北山雨下

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くずやき 鶴屋吉信製

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玄々斎 しぼ竹 尺八 銘鳳篝(ほうしょう)。

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山法師の花が手ブレでぼけてしまいましたが、竹の質感なりとご覧いただけますでしょうか。


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認得斎在判 黒雪吹  茶杓 円能斎作 銘 昔語(むかしがたり)


長板二つ置きの画像が表示されませんので、よろしければココログのほうへどうぞ





関連ページ 

2003・5・28 道 愛 ひと そして 茶 初夏の大徳寺利休忌


2001・5・28 大徳寺利休居士月忌茶会






# by tsubakiwabisuke | 2007-05-29 23:56 | 茶の道
2007年 05月 24日

炭点前から 竹の蓋置(ふたおき) 略書院かざり


寸松庵 燈篭。今は槍の間の中庭に。

今月は一日にご宗家に参上したきり、欠席を重ねていました。朝行くつもりでいても持病の不整脈が出るともう駄目なのです。そういうことで点前の稽古がなおざりになってしまいます。内心こうした自分を恥じる気持ちがあり、これが嵩じると鬱になりますからまあいい加減なところで身心が談合するわけです。

楽しんでお茶をせないかんよ、、、とよく仰ってくださるのは、米寿になられた寺西業躰先生。点前のミスをいちいち気にしていては客に美味しいお茶を点てることも出来なくなりますから。とても有りがたい指導をしてくださいます。

今日は、槍の間で初炭をいたしました。炭をつぎ終わって中掃きをして灰器をとり灰さじにて月形に掬う。この席はこの客だけにという意思表示の伝承なのです。その後、後掃きをして香合をとり白檀を二片くべる。熱灰のところに置くのは火の上で燃えないようにとの配慮なのですね。

釜の蓋は切らずに灰器をもち茶道口へ。炭取りも下げる。席中、香合がかえれば主は釜前に坐り、袱紗をさばき土風炉の右から左と胴拭きをし二つに折って前を拭く。袱紗をさばき直し二つに折ったまま釜の蓋を清め、蓋を切ります。

茶事の形式による初炭点前です。ここから客前に坐って、香合の拝見の挨拶になりました。

なお、羽箒は右羽。地摺りの羽でない上の羽を使用するのは、土風炉は炉のような荒さがなく今でいうソフトなものだからでしょう。




次は八畳の間を小間据えにして風炉を置きなおしての点前になりました。水屋の若い見習いの男性が手早く風炉釜、敷板を移動します。青竹の結界を持ち出したところ先生から注意がありました。

「それはあかんで。青竹の結界は本来は野点のもんや。蕨縄(わらびなわ)で結んでいるのより蔦で組んでほうが未だましなんだが。」

そこで北山杉で作られた結界に取り替えられて置かれ、座が整いました。明け放たれた障子のすぐ向こうは、坪庭で寸松庵の趣のある燈篭が見えます。客は点前をされる亭主の背景にそれを眺めつつ、ゆったりとしたひと時を頂くのです。なんと贅沢な稽古であることか…。



台天目。その次は盆点(ぼんだて)。後炭の点前。

最後に私が薄茶の点前をさせていただきました。小間据えで客は三人。

干菓子は伊織製 ツバメの焼印が清々しい麩せんべい。水色の流水もよう有平糖。

竹の蓋置を扱いながら先生に問いかけました。

「宗旦の花押がある竹蓋置を拝見したことがございますが、もとは使い切りの消耗品だったとは考えられませんけれど。」

「いや、最初は青竹を切って作ったのだが、それを欲しがる者が出たので油抜きをしたんだ。日数を経て油がなくなった竹だから花押が書けた。だから昔の竹蓋置きは貧相なもんだ。」

そうなのですか。興味深いお話が聞きだせてよかったと思います。
今では、長板二つ置きは花押のある竹蓋置に決まっていますよね。時代の推移ということでしょうか。では、なぜ、竹以外のものは使用しないという不文律があるのでしょう?

茶の道具に大よそ、真・行・草の決まりがあることも関わりがあるのはいうまでもありません。竹は草であることに思いをいたせば、点前がおのずと見えてまいりましょう。


私は長板二つ置の点前は運び点前と考えておりました。長板は棚であるとされるのは、台子の天板を外し柱を取った地板が成り立ちだからですね。けれども点前そのものは運びであり、建水を飾り残すこともなく退くのです。運び点前であるからには、竹蓋置が約束なのです。

長板という格によって、柄杓を飾ることがなくても湯返しをする。これは長板総飾りに準じる作法です。また、こうした格があることで竹蓋置も青竹ではなく花押ある竹のものを使用しなければなりません。

寺西先生のご指導のなかに、自分の思いを確認することができましたのは本当に有り難い事でございました。

「今日庵の奥伝である十段にはなぁ、台子の地板に竹蓋置と柄杓を置く点前があるんだよ。それから出ているのだから矛盾は何もない。」

薄茶を三人の客に点てたあと、仕舞いの段階で竹の蓋置を左手で風炉の左、釜のカンツキに置くようにご指導があり、ついで同じく左手で柄杓をその上に置きました。

「ああ、先生。これが略書院飾りですね。茶碗が二碗って持ち帰れない場合の所作ですね。」

「台目畳なら替え茶碗を茶道口へ下げればいいんだが、一畳丸畳だから遠すぎるだろう。そういう場合にはこうすればいい。」

略書院かざりは、書院がある寒雲亭で使用されていたということ。もちろん広間でも小間でも出来る点前として、知っておくといいと思います。淡交会などでは全国的な統一を考えられますからこうした伝承の点前を習うことはありません。

しかし、温故知新(古きをたずね新しきを知る)の心は、茶道を学ぶ者一人ひとりが謙虚に学んでいいのではないでしょうか。







# by tsubakiwabisuke | 2007-05-24 16:55 | 茶の道