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2005年 09月 13日

土井八枝、与謝野晶子、夏目鏡子、その時石川啄木は

石川啄木の年譜より

まず第一に、土井八枝(土井晩翠夫人)のこと

>1905年(明治38) 5月20日 結婚のため帰郷の途につく。途中仙台に立ち寄り29日まで滞在。
この時、啄木は19歳。 
自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し詩人土井晩翠を訪ね歓談した。<

参考 盛岡タイムス 2002~2004連載 山下多恵子さん筆。

 >1905年(明治38)5月、啄木は自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し詩人土井晩翠を訪ね歓談した。一週間後、啄木は「田舎の母が重態だが旅費がないため帰れない」という創作の手紙を晩翠宅に持たせる。妻の八枝は27歳、真面目で勤勉な女性で手元にあった15円を持ち、人力車を走らせた。旅館に着いた彼女が見たものは、友人と酒を飲み真っ赤な顔をして談笑している啄木であった。

 厚顔無恥ともいえるふるまいは、父の住職罷免により一家の生活の責任を負ったが、その現実と向き合えずにあがいている啄木の姿だった。<


今の世で20歳といえば、成人になったばかりの青年です。その彼は、世話になった女性たちのことをこう書き綴ってています。


「二十歳の時、私の境遇には非常な変動が起つた。(略)その変動にたいして何の方針も定める事が出来なかった。」


うら若き八枝夫人の行いと夫・土井晩翠の愛情ふかい性格を、うつくしいと思わずにはおれません。


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閑話休題
画像は大鯛の蓋ものの器。楽焼系の陶器で、茶懐石に使用するものです。
蓋をあけますと、なかにはみどりの笹につつまれた笹寿司が!
京懐石の有名な店にたまたま行ってまいりました。魚はなんといっても鯛!鯛にたとえられる作家はだれ?中身はなに?
いまふうにいうならば作家のパートナーはどんなひと?夫唱婦随を守ったように見える明治の文豪の妻たち。

貧しくともよい時代だったのではなかったでしょうか?そんなことをおもいながら画像をアップさせていただきます。


第二に、与謝野晶子(与謝野鉄幹夫人)のこと。

明治41年5月  啄木の日記

「与謝野氏外出。晶子夫人と色々な事を語る。
明星は其昔寛氏が社会に向って自己を発表し、且つ社会と戦う唯一の城壁であつた。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編集長に雇はれて居るようなものだ!」


「隣りの生田長江君を庭伝いに訪ねる。
八時頃森田白楊君が来た。二週間前に平塚明子と浮名を流した人。今は夏目氏の宅に隠れて居るとの事。」

当時、啄木と与謝野夫妻、森鴎外、夏目漱石並びに漱石の門人たちとの交流。
与謝野邸を尋ねた日、鉄幹が漱石をどのように語ったかが興味深く書かれています。


明治41年5月 啄木の日記

「小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、氏は頻りに漱石を激賞して″先生″と呼んで居た。」

「「晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。」


啄木は中学時代、与謝野晶子の『みだれ髪』を愛読していたのですね。
1902年(明治35)初めて与謝野家を訪門。1908年(明治41)には与謝野家に滞在して、鉄幹が留守中、晶子と二人だけで語る機会も度々あったもようです。

>彼女は子沢山の苦しい生活の中で、夏物を持たない啄木に、単衣を縫って贈ったりしている。<


第三に、夏目鏡子(夏目漱石夫人)のこと。

明治45年1月22日 啄木の日記

「私は全く恐縮した、まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかつた事もないのである。」

>1月22日、森田草平が面識のない夏目漱石夫人の見舞金10円と征露丸150粒を持ってくる。この日の日記に“征露丸”は“日露戦争の時兵隊に持たせたもので,クレオソオトと健胃剤が入つてゐるから飲んだらよからうといふのだつた。”<


石川啄木が貧窮のなかで、病苦と闘いながら亡くなった年。
それはこの年(明治45年)の春4月でした。まだ26歳2カ月。青年のまっただ中でありました。

そしてなお、啄木の妻、節子夫人は一年後に他界するのですが、亡くなる間際に、次のような言葉を書き残したということです。

「-------森(鴎外)さん、夏目(漱石)さんによろしくお願いします」と。


いかがでしたでしょうか。
明治の文豪とその配偶者たち…。

今夜は、この心高き女性に思いをはせて、私はひとり文学の美酒を杯にそそぎたいと思います。




# by tsubakiwabisuke | 2005-09-13 00:33 | 夏目漱石
2005年 09月 08日

初秋の茶会


茶会のよさはいっときの安らぎ、清流に疲れた心身をひたすようなと、そう言った人がありました。

今日は早朝から大徳寺塔頭に。或る懸け釜の当番のひとりとして働きます。茶道具を包んだ大風呂敷をかかえて私は7時半に到着。折りしも台風と豪雨による被害が全国各地に起きた日でした。

けれども雨は止み、席の準備を進めるうちに、不運な情報はしばしの間消えていきます。
テキパキとしたお仲間のおかげで、席中はこのように、会員もちよりの道具組で。

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掛け物にあわせて花入れを。杵のかたちをしていますね。竹細工も緻密なもの。
花をえらびます。ススキ。カリガネ。シロナデシコ。

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菓子器は染付系統で。これを虫の絵というのは少し苦しいでしょうか。その積りなれど(笑)。

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お菓子はここには写っていませんが、初雁という銘。黒砂糖と屑でつくられ百合根が入っています。その白さに雁行のふぜいを感じられるお方はきっと多いでしょうね。

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席の道具組が済んだ時点で、撮影させていただきました。
今日の茶会はご宗家の施茶釜。歴代宗匠をお偲びし、参詣の方々をおもてなしする茶席でした。



# by tsubakiwabisuke | 2005-09-08 01:53 | 茶の道
2005年 09月 01日

与謝野鉄幹が京都から出馬した衆議院選挙


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小泉内閣のいう「郵政解散」は、いよいよ9月11日の選挙がまじかになりました。
与党である自民党からは、刺客とも落下傘候補ともいわれる有名人が続々出馬しています。

外国メデアは高みの見物でこんな解説をしているとか。

仏紙ルモンド 8月23日、
「『刺客』『女殺し屋』はサムライ映画の直伝」「こっけいさと悲壮感、策謀と裏切錯綜(さくそう)する自民党のあり様は小ぶりのシェークスピア劇のようだ」

自分らの国は棚にあげて、まあ、なんとでもおっしゃい。

日本の場合、現代の選挙から、明治・大正期の選挙をふりかえれば、選挙権の数が天と地ほど開きがあるのは認めましょう。いま思いおこすのは、与謝野鉄幹が京都から衆議院に立候補したことです。

大正3年(1914)12月25日、第三十五議会で、時の大隈内閣が衆議院を解散。そこへ、与謝野寛が大隈重信の与党の一人として立候補しました。大正4年(1915)2月でした。

彼は生まれ故郷である京都府愛宕郡岡崎村(現・京都市左京区岡崎)から出たのですが、当時の京都府は18郡が含まれていました。選挙の結果は、候補者11人中、定員5人で、1600票が当選ラインとされていた中、寛は99票という得票だったといいます。

旧憲法によれば、選挙権を持てる者は富裕層の男性に限られていました。選挙に参加できたのは、国民の約1パーセントあまり。女性は発言することすらできなかった時代でした。晶子夫人が直接夫の応援に立った写真が残されているのは、さすがだというべきでしょう。

「世間知らずの文士が代議士に立候補するとは滑稽千万」、与謝野寛と晶子夫妻にはこうした冷笑も浴びせられたようですが、今の選挙ならどのように展開しますか?夫妻のお孫さんがその後政治家になられたのも血は争えないということ?

私の父は曽祖父、祖父から、「政治にだけは手を出すな!」と厳しく忠告されていたようで、その心は、「井戸塀しか残らんぞ。」という事であったようです。幸か不幸か使いものにならない井戸と塀だけは現在も残っている市井の家なのですが。

井戸塀政治家ーー、もう、そのことばは死語になっているのかもしれません。いまは政党から選挙資金が給付されますし、いったん政治家になれば……♪♪♪。
税金の使いようは国民の目にはわかりにくく、選挙の時だけ有権者が王様であるのは、ああ、情けない。


大正4年といえば、漱石が亡くなる前の年になります。
文士にも、さまざまな運命の糸が、紡がれていったのでしょうか。



# by tsubakiwabisuke | 2005-09-01 14:30 | 京都
2005年 08月 27日

詩人


詩人    土井晩翠


詩人よ君を譬ふれば
恋に酔ひぬるをとめごか
あらしのうちに楽を聞き
あら野のうちに花を見る。

詩人よ君を譬ふれば
世の罪しらぬをとめごか
口には神の声ひびき
目にはみそらの夢やどる。

詩人よ君を譬ふれば
八重の汐路の海原か
おもてにあるゝあらしあり
底にひそめるまたまり。

詩人よ君を譬ふれば
雲に聳ゆる火の山か
星は額にかがやきて
焔の波ぞ胸に湧く。

詩人よ君を譬ふれば
光すずしき夕月か
身を天上にとめ置きて
影を下界の塵に寄す。



詩人よ君を譬ふれば、のフレーズがとても耳にこころよいのです。
それではこれを書いた頃の晩翠のプロフィールを見てみましょうか。



e0006293_1950983.jpg出典 東北大学図書館「漱石文庫」


処女詩集『天地有情』が世に出たのは、明治32年(1899)
土井晩翠は29歳の青年であったようです。

彼は、これによって『若菜集』(1897)の詩人島崎藤村(1872-1943)と併び称される程、高い評価を受けました。

翌33年には、第二高等学校教授となります。しかし、明治34年6月、二高教授を辞職して、私費で欧州遊学の旅へ。明治34年10月から35年5月までは、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで英文学を、36年1月から4月まではパリのソルボンヌ大学で仏文学を、36年10月から37年7月までは、ドイツのライプチッヒ大学で独英文学を研究し、同年11月に帰朝した、となっています。

おもしろいことは、明治34(1901)8月、ロンドンで夏目漱石が土井晩翠をヴィクトリア駅まで迎えたという記録が残っているのですね。4歳年下の晩翠はどんなにか嬉しかったことでしょう。

漱石は晩翠にとっては尊敬の対象であった先輩だと思われます。
のちに漱石は晩翠に宛てた葉書に、自画像を描き、このように話しかけます。


自分の肖像をかいたらこんなものが出来た 何だか影が薄い肺病患者の様だ。君が僕を鼓舞してくれるから今にもつと肥つた所をかいて御目にかける 現在の顔は此位だ

(明治38年2月2日(木) 土井晩翠あて書簡)


「君が僕を鼓舞してくれるから」 の漱石の言葉。
ふたりの信頼関係を物語るのに十分ではないでしょうか。この葉書を書いたとき、漱石は帰国してから3年目、身分は東京帝国大学英文科講師であり、『我輩は猫である』も世に出し喝采を受けた時期でありました。

漱石は漢詩と俳句を書く人でありましたし、晩翠が早くから詩人として心に想う存在であったかもしれません。
晩翠のうたう「詩人」ーーそのひとりは、漱石ではなかったか、とふとそんな風に、私は感じるのでした。



# by tsubakiwabisuke | 2005-08-27 17:42 | 夏目漱石
2005年 08月 25日

晩翠の詩 「希望」


『天地有情』より  土井晩翠


希望

沖の汐風吹きあれて
白波いたくほゆるとき、
夕月波にしづむとき、
黒暗(くらやみ)よもを襲うとき、
空のあなたにわが舟を
導く星の光あり。

ながき我世の夢さめて
むくろの土に返るとき、
心のなやみ終るとき、
罪のほだしの解くるとき、
墓のあなたに我が魂(たま)を
導く神の御声あり。

嘆き、わずらひ、くるしみの
海にいのちの舟うけて、
夢にも泣くか塵の子よ、
浮世の波の仇騒ぎ
雨風いかにあらぶとも、
忍べ、とこよの花にほふー

港入江の春告げて
流るゝ川に言葉(ことば)あり、
燃ゆる焔に思想(おもひ)あり、
空行く雲に啓示(さとし)あり、
夜半の嵐に諌誡(いさめ)あり、
人の心に希望(のぞみ)あり。



宮城沖地震に被災された住民の方々は、この晩翠の詩をどのようにご覧になるでしょうか。
明治・大正の人々に与えた感動と士気はもとよりのこと、このわたくしでさえも、元気をいただくような気がいたします。

平凡社刊『世界名詩集大成10 日本1』土井晩翠 『天地有情」から抜粋いたしました。




# by tsubakiwabisuke | 2005-08-25 16:04 | 夏目漱石
2005年 08月 23日

土井晩翠の詩 星と花

土井晩翠の詩 星と花


同じ「自然」のおん母の
御手にそだちし姉と妹(いも)、
み空の花を星といひ
わが世の星を花といふ。

かれとこれとに隔たれど
にほひは同じ星と花。
笑みと光を宵々に
かはすもやさし花と星。

されば曙(あけぼの)雲白く
御空の花のしぼむとき、
見よ白露のひとしづく
わが世の星に涙あり。


明治三二年四月、土井林吉の第一詩集『天地有情』は、博文館から出版。
この「星と花」はその中の一篇です。
翌三三年には母校の第二高等学校の教授となりますが、三四年にはロンドンに遊学。
駅では夏目漱石の出迎えを受けています。

ところが二人とも英文学者であり、高等学校教授という身分であったことが、不審な事件に
何かと取り沙汰されることになりました。
不審な事件とは、のちに「ナツメ狂セリ」という怪電報を英国から文部省へ何者かが打電した事件のことです。

それを、岡倉天心の弟の由三郎だとする説があり、これには松岡譲が否定しています。
しかし、なんといっても傷ついたのは、漱石本人だった筈です。
漱石の死後、鏡子夫人が或る雑誌に語ったという話に、晩翠が驚き、事実はこうだと綴っている
エッセイがありました。


『漱石さんのロンドンにおけるエピソード 夏目夫人にまゐらす』 土井晩翠

英文学者であるがゆえに嫌疑をかけられた土井晩翠と岡倉由三郎!
ところが晩翠の語ったことによれば、国文学者の芳賀矢一の名が挙がり、これは漱石を貶めるものではなく、別の観点からされたと思われるように書かれています。

故芳賀矢一先生が独乙留学の期が満ちて帰朝の途中ロンドンに来られました、それで二三の同志が落合つた折、自然話は夏目さんの病気に及びました。其頃ベルリン留学生の或る真面目な方が発狂して下宿屋に放火したといふ一珍談があつたので芳賀先生は『……どうも困つたな、夏目もろくに酒も飲まず、あまり真面目に勉強するから鬱屈して、さうなつたんだらう、もう留学も満期になる頃だが、それを早めて帰朝させたい、帰朝となると多少気がはれるだらう、文部省の当局に話さうか……』――正確には記憶しませんが以上の意味の言葉があつたやうです、(姉崎正治教授がその席にお出ででなかつたか、どうか、何しろ二十五六年前のことなので記憶は朦朧たらざるを得ません)
 あとに述べる通りそれから一ヶ月以内に私は全く英国を去つてしまつたので、くはしい其後の消息はわかりませんが、帰朝の期の早まつたことは良好の結果を来した云々とパリで所謂風の便りに聞いたやうです。多分芳賀先生が文部当局と相談なされての上で無かつたでせうか? 当時文部省には芳賀先生の親友上田萬年博士が専門局長であられたと記憶します、今日の学習院長福原さん、先頃まで大阪高等学校の野田義夫さんも同省に在官であられたでせう。ともかく此件に関しては漱石さんは感謝さるべきであると信じます。


晩翠の結婚媒酌人でもある芳賀氏。漱石といっしょにプロイセン号に乗船して留学した芳賀氏。
真相はいぜんとして闇の中ですが、この晩翠の言葉は傾聴に値するのではないでしょうか。

先に私のアップした「漱石と晩翠など」の記事には、松岡陽子マックレインさんは次のように仰っています。

 お送りいただいたものすべて大変面白く読ませて頂きました。土井晩翠のこともいろいろ習いました。晩翠と言えば、アメリカに来て少ししてから一世のお医者様にお会いしましたが、彼が日本にいる時読んだ晩翠の詩が好きで忘れられないとおっしゃったので、私自身も当時食うや食わずの貧乏学生でしたが、アルバイトから稼いだお金で次のクリスマスに日本から全集を取り寄せて差し上げ大変喜んで頂いた事を思いだしました。その先生は若い頃瀬戸内海の小さい島で育ち、家庭が大変貧乏でお父様とアメリカに出稼ぎにいらしたそうですが、働きながら医学部に行かれ医者として成功され、後年は美術館などに寄付され医業の他にもいろいろ尽くされました。私のことも長年助けて下さり昨年ほとんど百歳で亡くなりました。いつも思うのはどんな職業の方でもそうやって自分の専門の職業の他に文学または美術に興味を持つ方はその視野が広くてよろしいですね。



# by tsubakiwabisuke | 2005-08-23 17:00 | 夏目漱石
2005年 08月 17日

 晩翠通り 晩翠草堂 土井晩翠

最初の画像は、仙台市博物館の庭園。みどりの杜のネーミングにふさわしいところです。


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仙台の旅から京都に帰ってからまだ一週間です。
それが今日8月16日、宮城県沖地震のニュースに愕然としてしまいました。

お世話になった阿部かまの会社へ、地震見舞いのメールを出しましたところ即座にお返事がかえってきました。メールは早くてこうした時にはありがたいものです。

「こちら11時56分頃宮城県沖地震が発生、津波注意報も出ましたが、大事に到らず仙台市内、当ビルも数秒おおきくゆれました。当社には一応被害は出ませんので、従業員等も全員無事でご安心下さい。取り急ぎお知らせいたします。」

ああ、よかった。人々の無事が何よりです。でも、また心配なのは、晩翠通りと名づけられた大通りに建っている、あの土井晩翠の旧宅・晩翠草堂のことです。

晩翠の弟子達が戦後、恩師のために建てた木造平屋住宅で、地震の影響がなければいいがと…。

この度は東北大学付属図書館『漱石文庫』を閲覧するのが目的だったのですが、なんと、阿部かまの本社とちょうど後ろ合わせに建っているのが、晩翠草堂だったのです。

『仙台・東北大学をたずねて 漱石と土井晩翠のことなど』

先にアップした、このふたりの文豪についてのエピソードは、漱石夫人と晩翠の発言が残されたことで今後、例の「怪電報」がなんであったか解き明かされることでありましょう。


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晩翠の履いていた下駄も保存されておりました。家屋敷が仙台市に譲渡され、今は市の管理になって無料で拝見することができました。

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『オヂュッセーア』1万2千余行の韻文訳の出版、晩翠のライフワークは翻訳でもありました。80歳の昭和25年、第8回文化勲章を受章。詩人として文化勲章を受章したのは晩翠が最初であったそうです。

オヂュッセーアは浅野晃訳の詩集を持っていますが、晩翠の訳は存じないままでした。いずれ是非読みたいと思います。


河北新報によれば、この地震の影響は次のようになっています。
宮城南部震度6弱 けが59人 新幹線116本運休
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 宮城県沖を震源に16日発生した「8.16宮城地震」は、宮城県川崎町で震度6弱を観測したのをはじめ、仙台市宮城野区と泉区などで震度5強を記録した。揺れは北海道から近畿地方までの広い範囲に及び、震源地に近かった東北地方を中心に被害が広がった。政府が首相官邸に設置した官邸対策室などによると、地震によるけが人は宮城県を中心に5都県で計59人に上った。仙台市泉区では複合健康施設で屋内プールの天井パネルが落下し、26人が軽傷を負った。福島市、北上市、気仙沼市などでもけが人が出た。住宅の全壊や一部損壊も各地で相次いだ。東北新幹線は架線の断線で約10時間、運転が完全にストップし、全面復旧は17日未明となった。JR東日本は上下116本が運休し、影響は約10万3000人に及んだと発表した。一時運行を見合わせた仙台市地下鉄は約3時間後に復旧したが、高速道路など交通機関の混乱は夜まで続いた。気象庁によると、地震は16日午前11時46分ごろ、牡鹿半島の東南東80キロ付近を震源に発生。震源の深さは約42キロで、地震の規模はマグニチュード(M)7.2と推定される。気象庁は「今後、最大震度5強程度の余震の可能性がある」と警戒を呼び掛けている。(8/17 01:25)>>>詳細



# by tsubakiwabisuke | 2005-08-17 10:14 | 夏目漱石
2005年 08月 12日

みちのくの七夕まつり

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みちのくの旅は雨にたたられました。
仙台の東北大学をたずねてみたいと、いう思いは漱石ファンなら誰しも心あたりがあるのではないでしょううか。

漱石の直筆原稿や蔵書など、『漱石文庫』は宝庫なのです。仙台も空襲で多くが消失したそうですけれども、この文庫はよくも生き残ったと思います。

空路での仙台行きは、2度にわたって変更を余儀なくされました。なにしろ台風が直撃するコースだったからです。

7月が8月になり、それもご親切な仙台の友人のアドバイスで、七夕まつりのころに、ということになりました。

図書館のほうは、先ほどサイトのほうへ記事をUPいたしました。ここでは、七夕のことだけ触れてみましょう。

じつは、最終日の8日に市中は大雨となったのです。目抜きの商店街アーケードなら歩きながら見ることも出来たのですが、体力も根気もない私はすぐ諦めました。

翌日、仙台市博物館へ。それから土井晩翠旧居のまうしろに位置する、「あべかま」本店。そこでも七夕飾りにはからずも逢うことができました。

仙台の七夕まつりは戦後に復興したものとか。京都の笹に短冊の、あの飾りとはだんぶん印象が異なります。ただ、子どものきものを形どった紙細工が添えられていたのは、とても可愛らしかったですね。

昔は布で手作りをしたものだと、そう「あべかま」の奥様は仰っておりました。

画像は上から博物館エントランスホール。笹かまぼこの「あべかま」本店の庭。食事どころも料理に七夕かざり。

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最後は、もりの都・仙台にふさわしい、東北大学付属図書館の前庭です。
 
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# by tsubakiwabisuke | 2005-08-12 23:11 | 夏目漱石
2005年 07月 18日

伊勢まいり 五十鈴川

伊勢神宮への旅の画像を引き続き…アップいたします。

私のつたないブログに、コメントをくださる方々、教えられること多くお励ましを感謝いたします。
Commented by あきら at 2005-07-18 14:49


>わびすけさん、お伊勢さんでお献茶でいらしたんですね。
少し前、「野次サン喜多サン」の映画がありまして、漫画原作だったのですが、それを機会に「東海道中膝栗毛」を少しかじりました。
お伊勢まいりはそのころの人々の日常生活のリセットの機能を果たしていたのではないでしょうか。
失踪してしまっては迷惑もかけるけど、思いたってお伊勢参りと言えば通用するというシステムかな。便利になった現代じゃあ、すぐに戻ってこなくちゃならないのが難点でしょうか。

あきらさん、ああ、そうだったんですね。
今のお伊勢さんはやはり町興しと観光サービスで皆さん頑張っておられるように思いました。
神宮の荘重な歴史、たましいを洗われる清清しい空気。ただ、現代人は宗教だけではすんなりと受け入れない複雑さをもっていますから、生活の線上で人心をひきつける何かが必要なのでしょうね。
ええ、私は裏千家お家元の献茶式に参じたことから、ほんとうにすばらしい町だと感動いたしましたよ。こうした伊勢まいりという行いが、ねがわくば商業主義に傾斜しない在り方で、ながくながく続いていってほしいと思います。



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さいごに五十鈴川

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# by tsubakiwabisuke | 2005-07-18 23:06 | 茶の道
2005年 07月 15日

伊勢神宮 おかげ通り

日本のふるさと…というフレーズが似合うのは、どこでしょうか。
山陰の出雲。また九州の高千穂。けれども私は、伊勢ではないかと…そんな風に思います。

神話にこだわっているね、と仰る方もおありでしょうか。人それぞれのふるさとは、生まれ故郷に決まっているよ、とのお声には又、頷いてしまいます。

伊勢神宮でのお献茶に参列するためにこの5月、伊勢にまいりましたが、おかげ通りという商店街を通って行くのがそれは楽しかったですね。

郵便局もここではいにしえの店先。食事どころも旅籠といった趣。客のにんげんたちだけが無風流といった感じだったかもしれません。


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さあ、気分転換をするのにここはもってこいの場所です!
招き猫はとっても愛想よく、お酌でもしてくれそうですよ~~。



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# by tsubakiwabisuke | 2005-07-15 21:25 | 茶の道
2005年 07月 08日

サントゥール ペルシャの打弦楽器

今日、はじめてペルシャの打弦楽器の演奏を聴きました。
楽器はサントゥールと、その名もしめやかな語感。奏者がまたイラン生まれの魅力的な女性なのです。カメラの調子が今ひとつで、プーリー・アナビアンさんの哀愁を秘めた表情を撮影できなかったのが心残りでした。

今日、中宮寺奉賛会の総会が大阪の都ホテルで行われ、私も参加させていただいたことがこの方との出会いになりました。もともと日野西光尊ご門跡とのご縁は茶の道でした。その為、記事のカテゴリを茶の道にしたのですが、苦しまぎれといったところでしょうか。

それでは
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プーリー・アナビアンさんのうつくしい民族衣装をご覧ください。

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曲は即興的な流れも感じられ、ペルシャでは詩篇の朗読とともに演奏されていたのかもしれません。ハープシーコードにもどこか共通する音色で、やはりピアノの前身というべき楽器でしょう。
ペルシャ絨毯の緻密さ、トルコブルーとよばれる色調、人生の哀感、神への愛、それらのイメージが混然一体となって匂うような素晴らしいステージでした。

…茶の道とは確かにつながっていたと、今にして私は思うのです。


# by tsubakiwabisuke | 2005-07-08 23:51 | 茶の道
2005年 07月 06日

浴衣すがたのアメリカ女性

どうもこれまでの記事は文字が小さいように思えましたがいかがでしたしょうか。エキサイトはタグでしか対応ができないブログでちょっと不便ですね。今回は規定よりサイズを大きくしてみました。

今日の画像は旧作ですがゆかた姿のアメリカ女性です。京都市内では七月の祇園祭が近づくとこうした浴衣を着た人々が増えてまいります。八月の大文字送り火の時もそうですね。夏はふだん着物を着慣れない人たちも浴衣ならと親しむようです。

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# by tsubakiwabisuke | 2005-07-06 13:40 | 京都
2005年 07月 02日

雑司が谷に漱石の墓所をたずねお参りした日のこと

雑司が谷に夏目漱石の墓所をたずね私が最初にお参りした日は、2001年秋。
あれからもう4年近い歳月が流れました。松岡譲氏『夏目漱石』の解説によってこのお墓について教えられたことを思い起こします。

<十二月}二十八日に雑司が谷の墓地に愛子ひな子の遺骨にとなりして埋葬された。
一周期の時新しく広い墓地にかへ、墓を建てて改葬された。
墓は未亡人の妹婿鈴木禎次の設計になり、新様式の石塔である。
字は漱石の親友菅虎雄の筆になった。この墓地も落合火葬場とともに彼の作品の中に
描かれた有縁の地であるのである。墓地は『こころ』に、火葬場は『彼岸過迄』に。>

安楽椅子の形をデザインした石塔には、ご遺族のお気持ちが痛いように感じられました。病苦から開放され永久に安らいでほしいとの願いを…。ただ、スケールがあまりに大きいので当時から世間の評判はいろいろあったようでした。
傍らに夏目房之介さんがおつくりになった新しい小さなお墓があり、つつましい感じで私はお人柄を想いました。ふたつのお墓に私は持参したささやかな花を供えしたのでした…。

ことし5月松岡譲氏二女・松岡陽子マックレインさんが来日。故夏目純一氏夫人嘉米子さんの3回忌に出席されたとのこと。この雑司が谷霊園にもお参りされ、ふとこんな感想を述べられたのです。

「漱石の墓は、彼の好みじゃないわ。祖母はなんでも大きいのが好きな人だったですからね。でも、私はあれはあれでいいと思ってます。」

江戸っ子漱石をほうふつとする孫の陽子先生。旅行中でも毎日70回縄跳びをされ、ウオーキングが健康の元だと信じて実践される若々しさ。学究の生真面目さと、妻であり母である主婦のやわらかさが感じられて、傍にいるだけでたのしい方です。

今日はこのブログに、元新聞記者のなまずさんと掲示板でやりとりしたことどもを、なまずさんのご了解のもとに転載させていただきます。

椿わびすけ さま
いつも 励ましていただきありがとうございます。
掲示板の転載のこと どうぞ 気がねなく 転載してください。
暑くなってきました。健康にはご留意ください。 なまず。

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(172) 時代を感じました 名前 : namazu 2005年07月01日(金) 17:15
 松岡陽子マックレインさんのこと 頷きながら読ませていただきました。
 以前、訪れた雑司ヶ谷の漱石先生の墓。その墓石の大きさに驚かされたものです。お孫さんの死生観に時代を感じます。


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(171) 自然のなかに お墓に代わるもの 名前 : 椿 わびすけ 2005年06月30日(木) 09:42
くりママさんと鯰さんのお気持ち、よくわかります。お墓というものは先祖供養と結びついて日本人の生活にはなじんでいますが、最近はアメリカでも宗教を離れた自由な考え方が増えているようです。漱石のお孫さんのマックレイン陽子さんからお聞きした実話をつたないブログに書きました。
http://rendezvou.exblog.jp/


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(170) 頓田川のほとり 名前 : namazu 2005年06月29日(水) 12:09
 クリママさん 岡山のクリちゃん元気かな、いつもWeb上でたしかめ、ほっとしています。
 吉田さんとは同郷だったのですね。驚きました。「頓田川河口」が、どのあたりかな と気にはなっていました。
 どこかシャイな人でしたが、やはり生まれ故郷に思いをのこしていたのですね。あらためて あの人柄がしのばれます。
 クリママさんのHP http://www11.plala.or.jp/nayama/


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(169) 病床での書き置きを読んで 名前 : kurimama 2005年06月28日(火) 00:30
ご無沙汰しております。岡山のくりママです。
回りでお葬式が続く年頃になり、派手なお葬式に参列したり、身内だけのお葬式の話を聞いたりしている昨今なので、逝った方からの「ごあいさつ」を直ぐに「見聞録」で読みました。
思いがけないことに、その映像作家さんは私の同郷の方でした。70歳過ぎの姉が頓田川河口近くに住んでいるので電話で聞いてみると、知人の同級生だとのこと。
世界を飛び歩き、心残りのない生き方ができたから、自分のやり方で旅立つことを選んだのでしょうね。共感を覚えました。


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鯰のひとりごと
ある映像作家の死 by namazu
吉田元さん。自然と共生しながら生きてきたカメラマンでした。4月25日にガンで亡くなりました。遺言とうりに知らせることなく、家族とごく親しい仲間だけで秘蔵の酒を酌み交わして送ったようです。この人らしい「あいさつ」を再録しました。(05.06.22)

 私・吉田 元は平成17年4月25日 くたばりました。4月28日、自宅でごく近親者のみに送り出されました。通夜も坊主の読経もありません。いきなり棺に野の花を投げ込み、葬場へ直行です。今ごろは小さな骨壺の中でしょう。この上もなく暗く、いやな場所です。早々に瀬戸の来島海か頓田川河口(ふるさと)でも、あるいは八重山の海辺にでも ばらまいてもらう手はずです。地球が墓場になります。好きなときに世界中に出かけます。
 春のホオジロのさえずりに聴きいり、アルゼンチンのパンピエロ(季節風)を見たり、秋には皆さんの家の庭の片隅でコオロギを聴いているかもしれ ません、とにかく70余年の楽しい生涯でした。快い人たちーあなたのことですーに出会い、全く愉快でした。思い残すことがありません。素晴らしい一生です。ありがとう。それではー  元

# by tsubakiwabisuke | 2005-07-02 22:51 | 夏目漱石
2005年 06月 25日

太平洋から日本へ

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「太平洋にいつかわたくしの灰をまいてください、というのが希望なのです。そうなれば日本へ流れていきますから。」

5月のある日、こう晴れ晴れとおっしゃるマックレイン陽子さんの、若々しいお声が耳に残っています。このたびの来日には、夏目房之介さんのお母様の3回忌にお参りされる目的がおありだった由。それにご実弟も他界されてお寂しいはずですのに、からっと明るいご様子に私はことばもありませんでした。

「主人も自分で望んでました。わたくしは彼の遺灰をシャクナゲの花がきれいに咲く場所にまきました。シャクナゲの咲く季節にはそこに行って主人に会うのです。」
…アメリカ人のご主人は自然を敬い、日本美術を愛好する方だったのです。

昨今の世相になっている延命治療について私が懐疑的ですと述べると、陽子さんはきっぱりとおっしゃった。
「もったいないわ。せっかく楽しく生きるべき命なのに。あちらではベジタブルというんだけれどそれは絶対にイヤ!わたくしはそうしたことを弁護士を通じて書類を作りました。」

漱石より31年長く生きていることを感謝され今も人々の尊敬をうけていらっしゃる、オレゴン大学名誉教授・松岡陽子マックレインさん。今日の画像は、この春サクラの花が咲きましたと送ってくださった一枚です。

# by tsubakiwabisuke | 2005-06-25 22:55 | 夏目漱石
2005年 06月 25日

店子か?客か?

PC時代からインターネット時代へ マイクロソフト 古川享先達 引退     6月16日


登場があれば引退もある、これは厳粛な人生のさだめでしょうか。
社長さん はじめまして。
利用者は店子か?客か?ええ、どちらでもかまいません。
私がお世話になっているブロバイダはniftyとinfoseekと二つ。
主力のPCはNEC。ブログはいろいろ探した結果エキサイト。これもご縁ですね。
私のブログはスタートしたばかり、恥ずかしくないようなものにして行きたいと思います。

# by tsubakiwabisuke | 2005-06-25 17:22 | 京都
2005年 06月 23日

松岡陽子マックレインさんと中村是公旧邸宅にあそぶ

中村是公といえば満鉄総裁として有名ですが、のちに東京都の知事にもなっていますね。
是公さんの旧宅を松岡陽子マックレインさんとご一緒に訪ねて遊びました。それから「漱石山房復元」のニュースでクローズアップされた新宿区役所を訪問いたしました。懇談のあと部長さんのご厚意で漱石公園にも連れて行っていただきましたし、新宿区のお役人の方々のご親切は忘れることができません。

中村是公旧宅はいま結婚式場&レストランになっています。管理人さんの話では「この応接間には夏目漱石がよく来られていたそうです」と。
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どこか漱石のおもかげを陽子さんに感じましたが、それは私だけでしょうか。。


漱石山房復元へ 新宿区と中村是公旧宅を訪問 松岡陽子マックレイン

# by tsubakiwabisuke | 2005-06-23 14:45 | 夏目漱石