blog 漱石サロン ランデエヴウ

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2007年 08月 29日

26才の青年横綱・朝青龍 心はどこに?

モンゴルから来た26才の青年の栄枯盛衰をニュースで毎日見ることになろうとは思ってもいませんでした。現代日本の若者には見られぬハングリー精神で、出世街道をひた走り押しも押されぬ横綱になったのは誰しも依存のないところです。

不振の相撲界をひとりで盛り立てて来た強さに、多くの観客は素直に拍手をし声援を送り続けました。日本人は島国根性とよくひきあいに出されますが、モンゴル相撲から日本の国技へ移行し成功した横綱・朝青龍をなんの抵抗もなく受け容れたのです。

驕る平家ではありませんが、朝青龍のおごり高ぶった態度は何度か問題になりました。
けれどもいつもうやむやになり、親方の指導力不足ということで終わったのです。

ところで親方には一体どのような強い権限があるというのでしょうか?
大出世しただけで孝行息子なんです。態度がどうであれ、小部屋の親方には朝青龍は可愛い弟子に違いないのですね。 

親方に責任を押し付けるのではなく、強大な権限を持つ相撲協会のトップが厳しい沙汰をくだすべきだったでしょう。日本の国技であることが大前提であって、心の教育は行われていたか、あらゆることが後手後手に回ったわけです。

心の病を発病したという医師の診断により、治療のためにモンゴルに帰国が決まったといいます。本来なら配偶者が迎えにくるところですが、どうも日本とは様子が違うようです。人間として横綱として余りにも未熟といえましょう。

モンゴルの大草原を流れるあのホーミーのうつくしく哀しい響き…。私は26才の青年朝青龍が故国に帰って心身を癒し、心から悔い改める日が来ることを期待しています。いかに格闘技に強くても心を喪った横綱はもう見たくはないと思っています。

まだまだ若い人です。いくらでもチャンスはありますから。3年前にも私は彼のことを書いています。他人事でない事柄もございまして。


2004年11月22日 (月) 心技体 すもうと茶人







by tsubakiwabisuke | 2007-08-29 00:16 | ニュース
2007年 08月 23日

中宮寺門跡の記念歌集 『御仏にいだかれて』

編集委員の末席に加えていただきましてより、いくたびか編集会議を重ねて参りました。そしてついに最後の編集委員会がこの18日に開催されました。場所は京都市内の或るホテル。中宮寺様を中心に出版社の方と5名の編集委員。総勢8名。

この後晩餐のおもてなしに預かりました。写真は男性抜きの三人となって。左、冷泉夫人、右わびすけ。真ん中はいわずと知れたやんごとなきご主人公でございます。
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 『御仏にいだかれて』

この歌集は、日野西光尊門跡の喜寿を記念して、長い間詠んでこられました和歌の詠草を集め、尼公の伝記としても素晴らしい内容になっております。中宮寺は奈良であっても、もともと日野西家は京都の名家中の名家といっても過言ではないのです。

題名からすべてご門跡のご意向を受けて、5人の編集委員が審議したのちに決定したものです。編集員の方々は私を除いてみなその道の錚々たるオーソリティ。
歌集にとどまらず発起人から、挨拶をどなたに依頼するか、祝賀会の会場はなどの実行委員会の様相を呈しました。

光尊さまは、冷泉家の指導になる向陽会の古くからの歌人でいらっしゃいます。

そもそも明治天皇の思し召しによって始められ、そのご下賜金で運営されてきたという和歌の会・向陽会。

ご門跡は次のようにおよみになりました。

百二十年 受け継がれたる 向陽会 その一しゃく(歯へんに句)に居る 身の幸思ふ

また、本の題名のご染筆は、有馬頼底様。相国寺派管長。平和運動でも有名な方です。仮名をお書きになるといかにも優しい筆跡で、あらっと意外な感じを受けました。

この表紙は、龍村織物特製で、ご門跡が特注された「国宝・中宮寺天寿国曼荼羅」の絹布です。龍村織物の担当の方も何度か編集会議にいらして協議を重ねたのでした。色調といい、文様といい、香気ただよう表紙になっております。お歌はごく自然な歌風です。その上、年譜とあとがきのご文章が切々と心に響きます。

どなたでもお手にとっていただくことが出来ます。自費出版ですので購入されたい方は、中宮寺へ申し込んでいただきますよう。巻末の内ポケットにはCDが入っております。価格税込み6300円。

さて、編集委員の方々のご紹介を。

浅井与四郎氏、 向陽会の師範。北野天満宮・宮司さん。 

冷泉美智子氏、向陽会会長の令夫人。和歌の名手との評価たかい麗人。

出雲路敬直氏、歴史学者、下御霊神社宮司さん。

辻弘達氏、医学博士。表千家茶人。

わびすけ、ご存知 猫好き、茶好き、ソーセキ好き。貧相な手抜き主婦。

さて、出版社は京都に本社があります思文閣出版。専務の長田岳士氏がお世話くださいました。思文閣出版は古美術・思文閣の別経営の会社です。この度の縁はと申しますと、一昨年の私が担当させていただきました中宮寺・山吹茶会であったように思います。

                         ◇ ◇ ◇

裏千家・坐忘斎家元のお献茶が行われた際、忝くも添え釜を懸けさせていただきました。私の力などはちっぽけですべて皆さまのご協力だったように記憶しております。中でもかつて、会社で私が茶道の指導をしていた関係で、思文閣社主の田中周二氏がご家族と社員へとかなり茶券を買い求められ茶会の当日、夫人とお嬢さんたちと駈け付けてくださいました。

その時の感想文を氏は後日、送ってこられました。企業人としては自分で著書も出されているだけに、達意の文章です。個人的には面映いのですが。


 拙サイト掲載 京のあきんど 思文閣 田中周二

                          ◇ ◇ ◇

   椿先生との出会い                                      

                  田中 周二 (株)思文閣代表取締役会長

人生に於いて一期一会との言葉がありますように、椿先生との出会いがその後の生き方に多くの影響を頂いたように思っている今日です。

(中略)

話は少し戻りますが、先年久しぶりにお見えになり、何か夏目漱石の書いた作品がありますかと申されたので、書の掛け物をお見せいたしましたところ、気に入っていただきました。


ことし平成十六年四月二十一日と二十二日に奈良の中宮寺に於いて、お茶会をされるお手紙を頂きました。家内と一緒に二日目の日に参りましたところ、中宮寺山吹茶会 椿わびすけ席に案内されました。大書院正面の床の間は、裏千家当代・坐忘斎家元の書かれたものでございました。待合には、漱石の軸が掛けてありました。先生に聞きますと、漱石の書に柳の語句がありましたので、四月にあわせて掛けられたとのことでした。


普通お茶席には文人の軸は使われませんが、今までにない新しい試みとしてお使いになった椿先生の出色です。


中宮寺・本殿の落ち着いた部屋で椿先生みずからのおもてなしでいただいた一服は、俗の世界におります私に断ち切ったひとときの心休まる静かな時間でありました。


久方ぶりに心洗われる中宮寺だったと家路に着きました。






by tsubakiwabisuke | 2007-08-23 00:57 | 京都
2007年 08月 20日

お励ましのメールに一層の精進を自分に誓う

なんの因果か、夏目漱石に魅せられたのが運のつき。とまあ、こんな悪態を書くなんざぁ~困ったものでございます。漱石先生、ごめんやっしゃ~。

ことしから漱石について書いたエッセイが、6本ですか。まだまだものの数には入りません。日本インターネット新聞は元朝日新聞社編集委員の方が創立したマスメデアで、私は連載コラムニストの末席を汚しております。簡単な紹介が出ておりますのでこちらもご覧になっていただければ嬉しいです。

きっすいの京都人、津田青楓・西川一草亭兄弟と漱石
漱石は、京都に深いつながりを持っていた。今回は、門下となった京都出身の画家、津田青楓とその兄、西川一草亭との交流にスポットを当てた。(椿伊津子)2007/08/18

漱石の参禅体験 取り入れられた作品の数々
漱石と禅との関わりは鈴木大拙が「羅漢のような居士」として登場する小説『門』や釈宗演から「無字」の公案を与えられた事などが書かれたインタービュー記事など少なくない。(椿伊津子)2007/08/08

京都の取材から書かれた漱石の『虞美人草』と『門』
漱石は旅行をした後、必ずその見聞を作品に取り入れています。明治40(1907)年3月下旬から4月上旬、京都を旅行。漱石はその間、新聞に掲載するための記事を書いています。まさにニュースにふさわしい早業の執筆といえましょう。(椿伊津子)2007/07/30


漱石が京都で買い求めた高価な半襟
夏目漱石先生は、明治42(1909)年10月、2日間だけ大阪から京都に立ち寄った際、わざわざ四条の襟善に一人で買い物に行っているのです。 それも案内なしで当初から予定していたフシがあります。(椿伊津子)2007/07/26

夏目漱石の縁(えにし)祇園と多佳女
多佳女と漱石についてはかなり多くの論評がなされています。「漱石は花街に無理解な人間だ」「漱石という人間は京都にしっくり来ない」「お茶屋・廓と漱石とはイメージが合わない」さあ、真実はどうなのでしょうか。(椿伊津子)2007/07/13

京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々
京都は漱石にとって縁うすい都のようですが土地との繋がりというより漱石を看病した祇園のお多佳さんの様に人との深い縁があり「風流」を愛した日々のある都ではなかったのでしょうか。(椿伊津子)2007/06/19


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漱石研究に関連して、その後もお励ましのメールが届いております。一層の精進をと自分に誓うのみ…。心からのお励ましに感謝申し上げます。みなさまのご好意に甘え、一部をご披露させていただきましょう。


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2007/08/21   なまず様(ジャーナリスト)

わびすけ さま

お暑うございます。夏椿のひそやかさに涼を感じております。

「古都つれづれ」拝見しました。京都、漱石、茶道 の組み合わせ、 わびすけさん ならではの「論証」とおみうけしました。興味深く おもしろく読ませていただきました。

くすっと笑えそうになったのは 西川家の茶室訪問日記。
「布団の上にあぐらをかき壁による」「茶事をならわず勝手に食ふ」 そして底冷えの寒さに震えるー。等身大の漱石を感じました。

やはり漱石の話になるとわびすけさんの筆の運びがいっそう なめらかになってきましたね。でも このあたりで閑話休題のつもりで漱石を離れた「京のつれづれ」をはさんでいただくのはいかがでしょうか。

読者の立場では 一息いれたいところです。
続く漱石がらみのリポートにもインパクトを与えることになるのではないでしょうか。





2007/8/20 02:07 松岡陽子マックレイン様 

伊津子様

 お返事遅れまして、申し分けございません。避暑地のようなところに住んでいるため、夏は何となくお客様が多いのです。

 「きっすいの京都人。津田青楓・西川一草亭兄弟と漱石」は大変面白く、またまたいろいろ新しい事を習わせて頂きました。津田青楓、一草亭との、尊敬し合いながらの親しい交わりも、漱石らしいと思います。伊津子様ならではの、漱石の一面の貴重な記録です。このエッセイを読んで、漱石が京都で俗塵をふるい落としたと言っているのがよく分るような気がします。私自身も京都とは本当にそういうところだと、訪ねる度に思います。そしてそんな昔の面影をいつまでも留めてほしいと思っています。

 私事ですが、今住んでいる家がもう二年もすると、五十年、あちこち傷んできているので、今大工が入って直しています。そんなことも少々落ち着かない理由ですので、ご無沙汰お許し下さい。そのうち台所修理に移ると、お料理を階下の洗濯場の流しを使い、オーヴンもなく、ホットプレートでお料理をすることになり、今からその不便さを少々恐れています。

 ではまた。
 
陽子



2007/08/09 01:36  松岡陽子マックレイン様     

伊津子様

 いつもよく文献をリサーチされて書かれるので、今度のものからも習うことが多く、大変面白く読ませて頂きました。最後の「文学でも人をして感服させるようなものを書こうとするには、まず色気を去らなければならぬ。」というところは、彼の「則天去私」を思わせます。つまり「人を感服させるものを書こうと思って書くとそんなものはできない、ただ無心に書く、つまり彼のいう色気を去ればよいものが書けるということでしょうか。そこに漱石と禅のつながりがあるように私には思えます。

陽子



2007/08/20 08:28  伊豆利彦様

椿さま

いま、漱石を読む会で『虞美人草』を取り上げていて、京都と漱石についてあらためて考えています。
晩年の京都行きが『道草』を生んだと思いますが、この京都行きについて、ていねいにお書きくださりありがとうございました。
なお、孫文の言葉を紹介してくださってありがとうございます。
ただ、次のURLが開けません。

伊豆利彦



2007/08/09 16:13 伊豆利彦様

椿伊津子さま

「漱石の参禅体験」読ませていただきました。
長年の蓄積の上に書かれた論に教えられることがたくさんありました。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。

  伊豆利彦




このほか、私のお待ちする人はまだいらっしゃいますが、
どうか早くいらしていただきますよう(#^.^#)。


公式サイト掲載記事へ 諸先輩の方々からご感想をいただいて
2007-07-14

専門家・研究家・真摯な学究の知己 2007-08-01







by tsubakiwabisuke | 2007-08-20 17:51 | 夏目漱石
2007年 08月 16日

津田青楓・西川一草亭 と 漱石の交友

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漱石と京都、学問の繋がりでは松本文三郎、狩野亨吉がいずれも京都帝国大学(旧文科大学)の長であり、漱石へ教師として講座を依頼していました。明治40年4月、漱石は京都の銀閣寺北にあった松本文三郎の山房に招かれその礼状を送っています。

「拝啓 京都滞在中は尊来を辱ふせるのみならず銀閣の仙境に俗塵を振るひ落し候」
市街と離れたこの地を漱石はたいへん気に入り、東京付近ではこんな住居は求められないと賞賛しています。しかし、41年6月、書状で教師就任と講義の件は断っているのです。狩野亨吉とも同じやりとりがあったは史実に遺されている処です。

ただ、これら碩学の友人は当時京都在住ではありましたが、故郷は別にあり後に京都を去った人でした。京都に生まれ育ったきっすいの京都人で、親密な知人といえば、津田青楓と西川一草亭きょうだいを措いてはないと思われます。今回はこのふたりにスポットを当ててみることにいたしましょう。

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フランス帰りの青年画家・津田青楓

漱石門下の小宮豊隆の仲介で津田青楓が漱石に逢ったのは明治44年。京都に育ち、日露戦争が終わると官費でフランスに3年間留学した貧しい青年画家で、帰国してまもなく京都から東京に出た頃でした。本名津田亀次郎、雅号青楓。

彼は、フランスで日本人の仲間が落ち合うレストランでの思い出を述懐しています。留学生の彼らは、漱石の『坊っちゃん』や『我輩は猫である』『草枕』の掲載されている雑誌を持ち込み朗読していたそうです。

津田と共にいた安井(安井曽太郎)は新参者であり、朗読するのは古参の留学生ら。

「茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人程勿体ぶった風流人はない。広い視界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに、鞠躬如(きっきゅうじょ)として、あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である…」

『草枕』の一節を聞いては「愉快だね」と、うれしがる古参者ら。津田はそれを横目で見ながらこの時、漱石に親愛の情を感じはじめたと書いています。

けれども、彼の父親は去風洞挿花家元西川源兵衛(一葉)であり、また表千家の茶人でもあったのですから、皮肉なものです。明治44年、縁あって漱石門下に入ることになります。漱石にとっては趣味にしている描画のよき相談相手になり、心許せる門下生でありました。津田が漱石山房に出入りするようになった後、実兄の西川一草亭をまた漱石に引き合わせるのでした。

津田清楓は述べています。
「京都はいやだった。親兄弟のお付き合いばかりして、やれお花見だ、やれお茶会だ、やれなんだかんだで引っ張り出されることばかしで、仕事なんかするひまはない。京都の人間は画家は風流人で、風流人は閑人だと思っているんだ。やりきれない…」

 漱石と散歩しながらの話を彼はこんな風に書いています。

「君の親の商売は何だと云われるので、一寸嫌だったが思い切って、花屋です、店では花屋で奥では生花の先生です」といい、父は風雅な風采をして茶ばかり啜っていると云った後で、

「だから僕を学校にもやってくれないで、小学校を出ると丁稚にやらされて、それ家を飛び出して孤児のように自分でやっとここまでこぎつけたのです」

長男は特別で次男以下は同等ではなかった明治の家族制度を思いますと、こうした話も理解できるのではないでしょうか。いっぽう、兄の西川一草亭は長男として教育も受け家業を継ぎました。去風洞挿花をさらに盛り立て、『瓶史』を刊行する著名な文化人となっていました。


去風洞主人・西川一草亭

漱石は、大正4年3月21日、京都滞在中に西川一草亭の招きで彼の住居である茶室を訪れています。まず、漱石自身の筆記を見ることにいたします。

漱石全集 大正4年 日記14 (日記・断片 下)

「二一日(日)
八時起る。下女に一体何時に起ると聞けば大抵八時半か九時だといふ。夜はと聞けば二時頃と答ふ。驚くべし。」

漱石は旅館の女中の生活を聞き、労働時間が長いのに驚いています。それから宿の窓からのぞむ加茂川とかなたの東山が霞でよく見えないのに河原で合羽を干すさまを書きとめています。


漱石 去風洞・小間の茶室に入る

「東山霞んで見えず、春気曖、河原に合羽を干す。西川氏より電話可成(なるべく)早くとの注文。二人で出掛ける。去風洞といふ門をくぐる。奥まりたる小路の行き当たり、左に玄関。くつ脱ぎ。水打ちて庭樹幽すい、寒きこと夥し。」

寒がりの漱石はここでも京の底冷えの寒さに震え上がっています。数奇屋の庭はこの時期殺風景な感じもあったでしょうし、待合の座敷から暖かい陽光の遮られた暗い茶室へ入り、心寒いばかりの想いがあったのではないでしょうか。それでも漱石の観察眼はするどく克明に記憶にとどめています。

「床に方祝の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華厳世界。一草亭中人。御公卿様の手習い机。茶席へ案内、数奇屋草履。石を踏んでし尺(しせき)のうちに路を間違へる。再び本道に就けばすぐ茶亭の前に行きつまる。どこから這入るのかと聞く。戸をあけて入る。方三尺ばかり。ニジリ上り。」

ここは、露地を歩きながら茶室への方向を間違え、やっと茶室のにじり口を見つけたところです。武士も刀を外して身分の上下なく入る狭き入り口なのです。漱石はどうやら身をかがめて茶室内に入ったようです。

「更紗の布団の上にあぐらをかき壁による。つきあげ窓。それを明けると松見える。床に守信の梅、「梅の香の匂いや水屋のうち迄も」といふ月並みな俳句の賛あり。」

暗い茶室内には天井に突き上げ窓が開けられていました。ここから自然光が入る仕組みになっているのです。しかし、同時に冷気も入ったことでしょう。次に懐石料理が書かれています。この去風洞の近くに「松清」という料理屋があり、亭主は懐石をそこから取り寄せたもようです。


懐石料理の献立はどういうものだったか

「料理 鯉の名物松清。鯉こく。鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならはず勝手に食ふ。箸の置き方、それを膳の中に落とす音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。」
(後略)

 箸の置き方、それを膳の中に落とす音を聞いて主人が膳を引きにくるのだ、のくだりは、茶道で懐石の作法になっているものです。客は食事が終わった合図として、静かに箸を膳の上に落とし亭主に知らせ、主はその音を水屋で聞くとすぐに膳を引きに来るわけです。

ところで、この献立を見るかぎりでは、西川一草亭は茶事を余りしていなかったのではないかと私は思います。理論はできても茶道の基本的な稽古をしていたかどうか…。父親から手前を習ったことはあるとだけ書かれています。

茶懐石では、海の幸、山の幸を少しづつとりまぜて消化の好い調理をし、無理なく食べられる分量で客に呈すのが本筋です。料理屋にまかせず亭主自ら客のことを考え吟味しなければいけません。しかし、この献立では胃腸の重篤な病をもつ漱石に如何なものかと思われてならないのです。


漱石「腹具合あしし」

案の定、漱石は23日の日記に「腹具合あしく且つ天気あしゝ。天気晴るれど腹具合なほらず。」とあるのです。翌24日には更に、腹具合は悪化します。
多佳女が云い出して北野天神の梅見の約束をしていたにも拘わらず、断りなく多佳が遠出していたことで漱石は深く傷つくのです。

「二十四日(水)
寒、暖なれば北野の梅を見に行こうと御多佳さんがいふから電話をかける。御多佳さんは遠方に行って今晩でなければ帰らないから夕方懸けてくれといふ。夕方懸けたって仕方がない。(中略)腹具合あしし。」

この時漱石は東京に帰るべく、「晩に気分あしき故明日出立と決心す」といったんは京都を離れる決意をしたのでした。この危機的状況を救ったのがまた津田青楓その人でした。

付きっ切りで看病する津田は多佳女に懸命にとりなすように依頼し、祇園の芸妓で漱石信奉者のお君さん、金之助にも来て貰い、最悪の状態を切り抜けました。京都滞在はこの後更に続くことになります。

「二十五日
御多佳さんが来る。出立ちをのばせと云ふ。医者を呼んで見てもらえと云ふ。(中略)多佳さんと青楓君と四人で話しているうちに腹具合よくなる。」

結局、漱石は翌月の4月16日まで、都合二十九日間京都に滞在したのです。東京へ帰ってから胃腸の病は深刻になり、翌月大正5年の12月9日までその病苦は続きました。


西川一草亭に漱石は感想をのべる

「漱石と庭」と題した一草亭のエッセイに、漱石が来庵した折の事柄が興味深く書かれています。その一部分を抜粋します。

「夏目さんの来られたのは三月の末で、さう云ふ時分にこう云ふ家を見ると只陰気で不愉快なばかりだった。夏目さんはその暗い陰気な座敷の床の前に坐って、欄間に懸かっている「一草亭中之人」と云ふ夏目さん自身の字を眺めたり、床の間に生けておいた室咲きの牡丹の花を見たりして、最後に此処の家賃はいくらするかねと尋ね、「こんな家は只でも嫌だね」と云って心から嫌な顔をされた。」

まあ、客としては失礼な物言いですが、体調の悪い人への亭主の心配りも「も一つ」だったようです。

江戸っ子漱石と京都、かならずしも相性は悪くなかったのです。相性が悪かったのは、京都の寒さだけだったのかもしれません。


正直で飾り気のない交友

表裏のある狡猾な人間を嫌悪した漱石。それゆえに江戸っ子と自他ともに認めた気性でした。では、その対極にあるのが京都人だという世間の見方があるとすれば…。それは概には云えないのではないでしょうか。

 西川・津田兄弟を見ましても自分の家はもとより時代へ厳しい批判精神をもち、それを公言して憚らなかった京都人なのでした。1千年有余の歴史を有し伝統を保ちつつ、京都が革新の都といわれる所以はここにも見られると思います。


 漱石は祇園の一力で舞妓の運ぶ薄茶を喜んで喫しています。展覧会では茶道具の名品を手帳に書き付けています。そして漱石は乾山の向付けの一揃いを見つけそれを津田青楓に贈ってもいます。茶道そのものを嫌っていたのではありません。

漱石は、東京に帰ってからは「京都の閑雅をひとり懐かしんでいます、また行くつもりです」と書簡に書きながら、大正5年12月9日に、49歳の生涯を終えたのでした。

ああ、前年に京都旅行をしたあの体験がもし小説になっていたら…
不出世の文豪に時間が与えられなかったことは、惜しみても余りあるのです。



参考文献
岩波『漱石全集』。津田青楓著『漱石と十弟子』。西川一草亭著『落花帚記』 


IT新聞の連載コラムへも 掲載されています。
http://www.news.janjan.jp/column/0708/0708130733/1.php







by tsubakiwabisuke | 2007-08-16 11:48 | 夏目漱石
2007年 08月 08日

漱石の参禅体験

漱石の参禅体験 取り入れられた作品の数々 2007/08/08

今日、日本インターネット新聞のコラムに掲載されたものです。

コラム 古都つれづれ

以前からこの案は温めていましたが、資料を集め裏づけをとることなど手間がかかりました。

そもそも、鎌倉円覚寺の専門道場で、はるか昔、私が師事したT老師が修行され、古川尭道老師から印可証明を与えられた因縁があるのです。しかも、兄弟弟子ともいえる方が東慶寺の井上禅定師だったのです。そうしたことから禅定さまは私を可愛がってくださいました。

道縁のご恩を感ぜずにはおれません。古川尭道老師こそ、釈宗演老師の法を継いで円覚寺僧堂を護ってこられた大徳でありました。峻厳な禅僧としてご自分を律し他を導かれたと私はさまざまなエピソードを師匠から聞かされておりました。

私の師匠はその後、鎌倉を離れ、京都でも修行され京都五山である或る大本山で管長職を務められました。拙文を書くに当たって、思いは感無量なものがございました。

漱石に焦点をあてて書かせて頂きましたので、失礼なこともあったのではないかと思います。

最後に井上禅定様が私の要請を快くお受けくださいまして、玉稿をお送り頂きました日のことが、懐かしく思い出されてまいります。



椿わびすけの家別館 夏目漱石掲載  鈴木大拙と夏目漱石 井上禅定執筆






by tsubakiwabisuke | 2007-08-08 12:10 | 夏目漱石
2007年 08月 07日

八朔(はっさく)のご挨拶 裏千家坐忘斎家元のお言葉


茶道宗家での体験を書くことにいつも躊躇している私です。

でもそれを待って下さっている読者の方々も確かにいらっしゃいますので、今日は少し触れたいと思います。八朔と申しますと柑橘類の果物を思い浮かべる方が殆どでしょう。

それとテレビなどで京都祇園・甲部歌舞練場のおっしょさん、井上流家元へ舞妓や芸妓があらたまって挨拶に行く日と仰る方々も多いのではないでしょうか?

でも、別名田の実の節句ともいわれるように、この頃は早稲が実ります。稲の穂が実るので、初穂をお世話になる人にに贈る風習が生まれたようです。この「たのみ」が「頼み」になり、「お頼み申す。」 ということになったといいます。そこで上つ方の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で挨拶に行くのですね。

暦の専門家でいらっしゃるかわうそさんは八朔の歴史を次のように仰っています。

「徳川家康が天正18年8月1日(グレゴリオ暦1590年8月30日)に初めて公式に江戸城に入城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としていた。

今明治改暦以降は、新暦8月1日や月遅れで9月1日に行われるようになった。」

私は念のために、8月1日が旧暦ではいつになるかと探して見ました。↑↓

2007年  09月 11日 (友引)
ということですので、本来の八朔はもっと先で今より涼しい頃でしょうね。それと暑いさなかは、三伏(さんぷく)の候といい、夏の勢いが大変盛んで秋の気を伏する(降伏する)ということのようです。旧暦ならきのう今日はまだ三伏の中ではないかと思います。

前置きがくどくどと長くなってしまいました。えっ、お家元の話はどうなったんだ?とおっしゃるのですかぁ~~。はい。風が通る家が従来の日本の家屋であった、というお話が中心でした。

「これまでの旧い住居を新しく建て直したが、小川通りの佇まいに合ったものにしたと思っていた。しかし、家の中を以前のように風が通らないんです。見た目には昔風の家でも、エアコンを設置した建築は、すでに自然の風は通り抜けてはくれない。」

そう仰ってお家元は時代の流れというものの難しさを話されたのです。そして更に茶会の箱書きについて、「自分は今後特別なものを除いて箱書きを断ることにした」と。それは、ものの価値でなく肩書きで物を見、判断する茶人のありようを厳しく指摘されたのでした。

新しくものを創るばかりが道ではありません。利休さまがわび茶を伝えられた千家の茶道の正統を行かんとされる坐忘斎家元の静かな気迫を、私どもはしみじみと感じさせていただきました。

茶の湯には梅寒菊に 黄ばみ落ち 青竹枯れ木 暁の霜

利休百首







by tsubakiwabisuke | 2007-08-07 01:44 | 茶の道
2007年 08月 01日

専門家・研究家・真摯な学究の知己

専門家といいますとすぐ専門バカだとか、仰る方もございますので、れっきとした学者の先達の方々と申し上げます。

私のつたない書きものを丁寧にご覧いただき、ご感想をお寄せくださることを本当に光栄に存じます。

漱石研究家として大家でいらっしゃる方々ですから、お便りにも研究のための示唆を頂戴し、大きい励ましとなります。ありがとうございます。




2007/07/31 07:00   松岡陽子マックレイン様(オレゴン州ユージン市)

伊津子様

 御心配かけて申訳ございませんでした。元気にしておりますが、夏は、この辺りは最善の気候、湿度が低く、昼間はかなり暖かくなりますが、日が沈むとぐっと冷え、熱帯夜というものがほとんどありません。真昼でも室内で窓を閉め切って暖かい空気を入れないようにすると、エアコンがほとんど必要がない所です。日本で言えば避暑地という感じの所なので、いつも他州や日本からのお客様が多く、夏の間はつい忙しくなります。その上ゲラが戻ったりして、何となく落ち着いてお便りをする暇がありませんでした。ご無沙汰お許し下さい。新書が出るのは十月半ばだそうです。

 京都と漱石についていろいろ書かれ、どれも大変面白く読んで、習わせて頂いています。

 ちょうど今度の本の中で、祖母が「お父様はなかなかおしゃれだったんだよ」と言っていたことを思い出して書いたので、伊津子様の半襟の話のところ大変面白く読みました。漱石は自分も良い着物が好きだったし、また子供達が奇麗に着飾るのも好きだったそうです。祖母に半襟の御土産など買おうと思ったことも、彼らしいと思いました。

 『虞美人草』は漱石自身後で厭だと言っていますね。内容は別として、『虞美人草』だけがあんなにごってりしたスタイルで書かれているので、厭だったのでしょう。後期のものは飾りけなく、平坦で単刀直入な文章で書かれています。ですから、いくら漢字が多くても、それさえ字引で引けば、『心』など私の学生が上級になると、あまり苦労せず読めるようになりました。

 私も『門』は好きです。彼の作品のなかで一番暖かいものだと思います。彼が自分で一番好きだと言ったというのがよく分ります。彼の理想の夫婦仲だったのかもしれません。でも漱石の作品は一つ読むといいなと思いますが、また次のを読むと、それもいいと思い始めます。だから、今でも人にどれが一番好きかと言われると、はっきりどれと言えません。芥川は『明暗』をすごく褒めていましたが、あれは少々冷たくて、いくら文学として優れていても、私はあまり好きではありません。やはり個人の好みですね。

 今週もお客様があります。来週は、私が1964年に助手として始めて日本語を教えたときの学生たち(もう孫のいる人もいます)が10人くらい、ある者は他市(日本も入れて)に住んでいますが、皆ここに来て集ることになっています。いわば四十年以上前の学生達のクラス会とでも言うものですから、皆で昔を思い出して楽しむことでしょう。

 ではまた良いものをお書きになったときは、どうぞお知らせ下さい。いつも楽しんで読み、いろいろ新しいことを習わせて頂いています。

陽子




2007/08/01 11:40 内田 道雄様

椿様の達筆・麗筆・速筆に感心しています。折角のご文章なのに、遅くなりました。

『門』は私も、一番大好きだった作品。夫婦愛が共感深く書かれています。「上品な半襟」につきましては「襟善」についての貴重な調査踏まえて「宗助」の愛妻への心情、きめ細かな捉え方で素晴らしいと思います。

『虞美人草』の「初源性」についても同感。吉本隆明の著述等々よくマメにお読みですねえ。椿様がご指摘のこの作品での社会批判・時代意識は言うまでもなく『門』の後半部への転回にも辿れますね。前半の「夫婦愛の物語」はそれによって大きく揺るがされるのですね。

「京に着ける夕」の原体験については水川さんも良く辿ってくれていましたが、今度の椿様のご指摘で安堵!(狩野亨吉、菅虎雄が、誤植になっていました。)

以上お礼まで。

内田拝



2007/07/32 11:25   内田道雄様

下記のURLで拝読が叶いました。プリントアウトいたしまして外出先で熟読いたします。どうもありがとうございました。内田拝

http://www.news.janjan.jp/column/tsubaki/list.php



2007/07/31 09:51   伊豆 利彦様

椿 伊津子さま

漱石と京都というテーマは大事なテーマだと思います。「門」を京都との関連で考えることはしていませんでした。

「門」は私も好きな作品です。これは漱石文学の転換点となったと思います。
今後ともよろしくお願いします。

伊豆 利彦



2007/07/27 08:12   伊豆 利彦様

椿 伊津子様

興味深く読ませていただきました。
半えりのことはいままで気づきませんでした。このことから、漱石のことがあたらしく見えてくるように思えます。

ところで、「虞美人草」には衣装のことなど細かく書いているようですが、「三四郎」ではそんなことには無頓着な三四郎の眼で書かれているし、これ以後もあまりそうしたことは書かれていないのではないでしょうか。

「明暗」はどうだろうか。お延の衣装のことなど書かれていたような気がしますが、どうでしょうか。

ご活躍をおよろこびします。
今後ともよろしくお願いします。

           伊豆利彦



鯰様 (ジャーナリスト)

わびすけ 様

魚が水を得たというのはこんなことをいうのでしょうか。
漱石と古都と半襟 この取り合わせの妙を明快に
ときほぐすさま これはやはり わびすけさんの独壇場ですね。

おもしろく 読ませていただいております。正直なところ
わたしたちが期待していたのも こんな話だったのです。
こころ 豊かに読ませていただいております。





私はこちらの方々とは何度か実際にお会いして、お人柄は充分存じ上げております。

大正時代の香りが残るお方もいらっしゃいますし、昭和ヒトケタの男性は忍耐強いといわれておりますが、やはり現代の若い男性より男性っぽい印象を受けますがいかがでしょう?

いえいえ、ちゃんと現代に生きて活躍されている方々でいらっしゃいます。

学ばせていただくご縁を心より感謝申し上げます。










by tsubakiwabisuke | 2007-08-01 16:51 | 夏目漱石