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2007年 07月 30日

えり善で、漱石が半襟を選んだのは妻の為だったことが判明

今日のIT新聞に、拙記事が掲載されています。先に書きました襟善の半襟の続編にあたるものです。きのう、参議院選挙の投票に行ったあとで、最終原稿を入稿したのでした。

7月30日 tsubakiコラム 京都の取材から書かれた漱石の『虞美人草』と『門』


なにか適当な画像はないかと探しましたが、どうもみつからないのです。

今は記事のお知らせのみでございます。







by tsubakiwabisuke | 2007-07-30 13:09 | 夏目漱石
2007年 07月 26日

生涯ただひとりの妻を守った漱石の節操

今日、インターネット新聞のトップページ記事の一つに掲載されたのが、

コラム古都つれづれ 07/26 漱石が京都で買い求めた高価な半襟

こちらに書いたものに、新しく『虞美人草』の資料なども入れて加筆いたしました。

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更紗もようの唐紙、漱石の書斎にあったものを漱石が絵に描いています。

漱石は取材した後に、実際にその品物を買い求め、家族に着けさせているのですね。

先ほど、えり善の部長さんからお電話をいただきました。

私は、現在刺繍入りの半襟を扱っていらっしゃるかとお聞きしましたら、次のようにお答えが返ってまいりました。

「せんだって、お嬢さん用にと親御さまから特注がありました時は、手縫いの刺繍入りの半襟が30万円でございました。ただ、あまり値が張りますので大抵はミシン刺繍にする場合が多いのでございます」

そうでしたか。やはり…。

ところで、漱石は奥さんだけでなくお嬢さんにも買ったということが考えられるのです。

「じつは、明治45年から大正にかけて売れ残った半襟が150点ばかり保存しております。当時、残った品の値段ですが、一枚5円が最高のようです。」

なるほど、では、漱石が買ったのは半襟2・3枚と帯揚げだったのかもしれませんね。

まあ、勝手な推測をしてしまいました。

漱石先生、かんにんしておくれやす~~。


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漱石山房と更紗の唐紙
http://homepage1.nifty.com/xkyou/akutagawa.sosekisanbo.html






by tsubakiwabisuke | 2007-07-26 15:00 | 夏目漱石
2007年 07月 24日

えり善 漱石が京都で買い求めた半襟

店舗新装につき大売出し 半襟で有名なあの店どっせ
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祇園祭には ヒオウギがつきもの。
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今度は5階建てのビルになりますよって、この看板は見納めに。
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夏目漱石先生て、明治42(1909)年10月、漱石は2日間だけ大阪から京都に立ち寄った際、わざわざ四条の襟善に買い物に行っているのです。 それも案内なしでひとり当初から予定していたフシがあります。

半襟と帯揚げを買って18円払っています。日記には「十八円程とられる。」と書いていますから内心は値の高さにおどろいたようです。

さらに更紗の布を物色します。漱石は更紗を好んでおり、漱石山房にも更紗を壁かけにしていたのを見てもその好みが伺えます。

けれども、買い物はここまで。漱石は「女房が気に食はんのでやめた。」ということになったのです。女房が気に食わんといっていることがひっかるじゃぁありませんか。奥さんの土産に高い半襟と帯揚げを買い求めたのはいいとしてもですよ。

私は、祇園祭に出かけたついでに四条のえり善本店へ寄ってみました。私もある品を物色していましたので専務のNさんがやって来ていろいろ話されます。

「あの~~、明治42年頃のことはおわかりではございませんよね?」

「手前どもの店のことでしたなら」

「ええ、その頃お店の奥さんが店に出てらしたとか、今で云う店員さんで女性の方は出てはりましたか?」

「手前どもの店は番頭がでておりまして、女性が出ることはありませんです。何かありましたか」

「じつは、女房が気に食はんのでやめた、と日記に書いている文豪がいるものですから」

「はははは、漱石さんのことですな。あれは漱石の奥さんのことですわ」

「あら、そうでしたか」

なるほど。昔の大だなには番頭がいて主人の奥さんが出る幕はなかったようですね。

いや、もしかしたら鏡子夫人のことではないかもしれない、なんて思った私がおかしいのでしょう(笑)。

夫人のことについて現代人のような愛情表現をしない明治の男だった漱石は、愛人のいない文士としても珍しい存在でした。気鬱の病のためにある時は離婚を言い渡したり、さんざん当たり散らすことはあっても、生涯ひとりだけの妻を守った節操のある夫だったと私は思います。

それでは当時の18円というものがどれほどの貨幣価値があるかを、明治40年代の物価をもとに見てみましょうか。
適当なのがみつかりませんが、約10年後の授業料なら以下の通りです。




東京理科大

◇1919年(大正8年)
 *授業料月額3円50銭に改定
  授業料を月額3円50銭に改定。前年、米価が暴騰して各地で米騒動が起きるなど物価は不安定になっていた。これより前の12年、東京大学の授業料は年額35円、早大年額50円。慶大年額48円(いずれも文系)だった。

☆ 明治40年に逆算して、東京大学の授業料は月額約3円。早大月額約4円。慶大月額4円。


漱石が買った半襟と帯揚げは、たしかに高価ではありましたねえ。
きっと刺繍入りの立派なものだったに違いありません。

帝大出の漱石の給料も書いておきましょう。

明治28年 松山中学英語教師 月給80円。(校長は50円でしたから破格の高給でした) 

明治40年 朝日新聞社入社 月給200円。



店のPR

「京都の「ゑり善」は、半襟の専門店として、400年以上も昔の天正12年に創業。次第に高級呉服、和装小物も扱い、上流階級婦人方に愛される店として地位を築く。京都本店のほか、銀座、名古屋の計3店舗。名古屋店も。」





by tsubakiwabisuke | 2007-07-24 14:31 | 夏目漱石
2007年 07月 17日

祇園さんの献茶式 裏千家家元ご奉仕

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七月十六日の八坂神社の献茶式は、隔年ごとに表千家と裏千家が交代でご奉仕されています。ことしは坐忘斎・今日庵家元のお献茶の年ですので前から心待ちにしておりました。

茶券と普通はいいますところ、ここは神撰料と印刷されています。その券は九席あって一万円。お裏と表。親戚付き合いの協力と申しましょうか。

一力、中村楼、美濃幸、と老舗の料亭が茶席会場になるという贅沢さに、コンチキチンの音色が
いやが上にも胸の高なりを誘うのです。全国から祇園祭の献茶式に参集した方々その数800人。

ことしは値上がりしたというものの、昨年までは大変お求め安い神撰料でした。ただし点心はありません。和菓子とお茶でまんぷくになりまっしゃろ~~。お値打ちの大茶会だったと思います。

ちなみに詳細を書いておきますと以下のようになります。

○拝服席     今日庵担当(常磐新殿2階)
○副席       三互会担当(常磐殿)、幽静会担当(中村楼)、大中会担当(美濃幸)
○協賛席     今日庵担当(瑶池軒)、淡交会京都支部担当(中村楼階下)、清園会担当(清々館)、菓匠会担当(常磐新殿階下)、而妙会担当(万亭)


なにしろ800人もの客数なんですよ。今日庵席のお世話役の方にそっとお伺いしましたら、約20回とのことでした。大広間ですから40人として一日に20回別の客におもてなしをすることになりますね。

午前9時からの献茶式は、会場外の型テレビにて多くの参拝客はお家元の点前に見入っておりました。後でほんとうに美しい手だったと、お点前のことを囁きあっている声が耳に入りました。


今日庵席に行列で入りますと、業躰さんが私を引き止め、煙草盆の前に連れて行かれました。年の順番かなと諦めてましたら、茶道口からお家元がにこやかにお出ましになりました。

「正客のTさんはじめ、皆さん…」と、席主としての丁重なご挨拶。ソフトなお声は声帯を痛めていらっしゃるように先日お聞きしたばかり。でも、もうそんなに良くなられたとは…。

「新潟では、震度6強という大地震があったと今、聴きました。ご家族の方か知り合いの方がおられる方はどんなにかご心配のことと思います。」

冒頭にこのお言葉がありました。こういう気配りをなさるのがお家元なのですね。いつもそうした心を感得させていただきます。その次に祇園祭の天候から席の道具組みなど平易な語り…。

「今日の軸はあまり出していない玄々斎です。玄々斎は字がうまいですなぁ~。」

「楽事万々歳」 五字一行。じつに雄大な墨痕淋漓とした書体でした。

待合に宗旦の消息。「読めぬ宗旦」通りの難解な文字でした。ただ、六月二日の日付の字はハッキリ読み取れましたが。これの日付には深いわけがあるのです。旧暦の六月二日を新暦に読めば祇園社の祭礼の初日になるとお聞きいたしました。ゆっくり時間をかけて解読したいものです。

私はすばらしいと思いました。ことしもこれらのお道具にまたお目にかかることが叶いました、と参拝客は一瞬、生きた歴代の方々をまのあたりにするのでしょう。これぞ、茶会の醍醐味と申しましょうか。

メインの今日庵席で、正客の座に引っ張っていかれたのは、こんなはずじゃなかったです~~。お家元のご挨拶でTさんとよびかけられたヒトは、平生の行いはあんまり褒められたモノデナイ。痛み入りました。

お家元との会話。
「今日の菓子は行者餅です。疫病除けにどうぞ召し上がってください。」

「ありがとうございます。でも折角のお守りですからこれはお土産に持って帰ります。」

「そういうこともあるかと思って、紙はそのまま外さないでおきました。」

菓子鉢に透明なセロハン紙に巻かれたままの行者餅。
こうした心くばりのあることをあらためて嬉しく教えていただきました。


その他の席は、中村楼の幽静会・淡交会京都支部。
みなさん、お世話さまでございました。いずれのお席もお茶をいただき、ほっこりと一息つきました。

一力の大書院では、表千家の茶席。ここでも何かのせいで上に追いやられ、長板二つ置きのお点前を半畳隔ててまん前に坐って拝見。舞妓さんの可愛いお運びでお茶をいただきました。

男性の半東さんと少しお話いたしました。

「夏目漱石が明治40年と大正4年にこの一力の「大石忌」に来ています。
舞妓やお茶などに接してたいへん驚いたように書かれてますね。」

「そうでしたか。舞妓の出る部屋はこの部屋だけなのです。」

それではこの広間で漱石が居て、ものごとを見聞したということになります。なるほど。
なお、屋号の万亭が一力と呼ばれるのは万の字が一と力で出来ているという所以です。


帰る道順は万亭の土蔵を前にして、庭の緑がさわやかな廻り縁を歩いて例の大きい暖簾「一力」をくぐって外界へ出ました。財政難から今の所有者は、新興の回転寿し屋になっているという説あり。とにかく真偽のほどはわかりませんが、これだけの伝統ある構えを維持するのは大変なようです。


もう一席は、美濃幸で行われておりました。やはり広間二間続きで点前座は長板の二つ板置き。どちらも平水指が夏の風情ですね。半東は男性。点前は女性。正客に勧めてなって頂いた方は淡交会青年部で大活躍の太田さん。男性ですが麻の縦じまの和服を着用しておられました。なかなかいいものでした。

涼やかな菓子なども嬉しいもてなしですが、客の着物も夏らしく奄美大島の香りがただよう「草のきもの」で、一座の雰囲気をごいっしょに楽しんだひとときでした。




この日記は17日に非公開でUPしていたものですが、PCの不調でそのままになっていました。

祇園祭は過去ログにも載せておりますのでそちらもどうぞ!

http://rendezvou.exblog.jp/3855066

http://rendezvou.exblog.jp/3813812

http://rendezvou.exblog.jp/3790780

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/heiwa.html

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/zaihu.html

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/gionmaturi2003.html






by tsubakiwabisuke | 2007-07-17 23:07 | 京都
2007年 07月 14日

公式サイト掲載記事へ 諸先輩の方々からご感想をいただいて

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祇園新橋の多佳女をしのぶ歌碑

昨日、IT新聞のコラムが更新され、拙記事が掲載されました。

夏目漱石の縁(えにし)祇園と多佳女

私には尊敬する大先輩ともいうべき漱石研究家の方々と、もう長らくお付き合いをいただいております。みなさま碩学でいらしってこの方面の大家でいらっしゃいます。いつも過分のお励ましをいただく身には、勿体ないと恐縮することが多いいのです。

その中から差しさわりのないものをご披露させていただきましょう。
そのいくつかは、掲示板の書き込みになるコメントもございます。



new 2007/07/15 06:56 内田道雄様 (学芸大学名誉教授・漱石研究家)

 椿様。

 早々のお知らせにもかかわらずご返信遅くなりました。全集読み直す必要を感じまして時間が掛かった次第です。この標題での椿様のご見解は誠に穏当・妥当と感じました。やはり京都にお住まいでいらっしゃってその土地柄や人柄を知悉していらっしゃる事から自ずと滲み出る説得力があって読者を魅了します。病身で神経質・気位ばかりは一人前という漱石を、その作品への傾倒ゆえに大らかに受け止めて何と!「大友」での看病をも喜んで引き受ける36歳の多佳女。西川一草亭・津田清楓兄弟や鏡子夫人らの依頼があったにせよ、、これは稀有の美談でもあります。ここを椿さんは「終始同じ人間として」の「親しみ」という平易なことばで捉えています。
 これは後の漱石の二通の手紙でも訴えられている「切望」でもありました。(私はこの二通の多佳さん宛漱石書簡には歳若の弟めいた「甘え」を感じてしまいます。)
 椿さんの独壇場は漱石の「春の川」の句の解釈です。旧来の二方向の解釈をいずれも包容しながら「多佳さんに、感謝のきもち」を込めて書いた、と、これは正確なご指摘でもあります。句の成立を追って作品のふくらみを明かすここの一段はご文章につやがあって素晴らしい、と思いました。
 吉井勇の歌碑と対応させて美麗な写真を並べて下さっておられます。京都の町々(今日は嵐ですが・・・)を思い描きながら、鴨川の向こう側を思いやるように漱石句碑の呟きを私なりに心中で辿ってみようと思います。
 唐突のようですが「男と女のあいだには深い川がある」(野坂昭如)のあの歌も連想されますね!

内田拝




名前:namazu 2007年07月12日(木) 00:01 なまず様 (元新聞記者)

「夏目漱石の縁 祇園と多佳女」わびすけさんならではの話題ですね。わかりやすく、おもしろく読ませていただきました。漱石のとまどい顔が透けてみえます。ほんとうのところ漱石は京都が好きだったんですね。




by 鯰 at 2007-07-11 23:30 x

 飾り気なくしんが強くてしなやか。多佳女さんの話 興味深く読ませていただきました。読んでいくうちに「京女」とはこんな女性のことを言うのだろう、と変に納得しました。
 東男の漱石が魅せられたのもむべなるかな、とも思いました。 京歩きでの楽しみがまた ひとつ増えました。 ありがとうございました。




2007/7.14 03:50 松岡陽子マックレイン様 (オレゴン大学名誉教授)

伊津子様

 『漱石の縁、祇園と多佳女」お送り下さり有り難うございました。丁度今自宅の庭で紫陽花が咲き始めたので、多佳さんを偲び、面白く読ませて頂きました。京都の友人が、かなり前ですが、自宅に来られた時、アメリカは何でも巨大だけれども、紫陽花だけは日本のものの方が、ずっと大きくて立派だと言ったことが記憶に残っていますが、本当にこちらの紫陽花は日本のほど立派ではありません。多佳女が愛したのは、その大きくて立派な紫陽花ですね。いくら肥料をやっても自宅の紫陽花は大きくなりません。きっとこの花は多佳さんと同じように、しとしと降る雨、湿気を好むのでしょう。この辺りでは紫陽花は六月から七月にかけて咲きますが、空気が乾燥しているため、大きくならないのかもしれません。紫陽花で詩を詠むということもあまり聞きません。

 また数年前に京都に伺い、祇園祭りを見せていただいたことも懐かしく思い出しました。「京都漱石の会」が発足、京都と漱石について、ぜひもっとお書き下さい。「坊ちゃん」から漱石を江戸っ子としか考えない読者が多いと思いますが、彼が京都の静かな町を愛したことが、この伊津子様の文でもよく分ります。

陽子



2007/07/06 05:59 ヨーコ マックレイン (漱石のお孫さま)

伊津子様

 精中忌での、美しい紫のお召し物でのお手前のお写真有り難く拝見させて頂きました。お家元の前で次席として堂々となさっているところ、いつものことながら本当に感心してしまいます。また歌もお詠みになるのですね。まったく伊津子様には、いつも感嘆させられることばかりです。

 私は自分が無調法者で、雅やかというのでしょうか、風流というのでしょうか、ともかく、そういうことに、まったく疎いので、そのようなことの他にも、最も近代的なコンピューターの知識も深い、つまり古今の業(わざ)に通じていらっしゃる伊津子様を尊敬申し上げるのです。

陽子


2007/06/21 01:25

伊津子様

 京都の風流を愛した漱石
 早速読ませて頂きました。とても素晴らしいです。それですぐ「この記事が気に入ったら…」というところを押しました。私も漱石は京都を愛したのだと思います。京都と漱石について書けとおっしゃいましたが、伊津子様がもうすべてお書きになりました。ですから、書く時が来たら何か他のことを書かせて下さいませ。

 参考になさった小林孚俊樣には私もお会いしました。とても良い方で、1985年でしたか86年だったかよく覚えていませんが、私がこちらの学生を連れて早稲田大学に二年ほど行っていた時、四月二十九日の「鎌倉漱石の会」に連れて行って下さいました。講師は女流作家でした。その頃もうかなりのお年だったので、蔵書を古本屋に二束三文で売りたくないとおっしゃり、ご親切に皆私に下さったのです。それで私は丸通を雇い、幾つかの大きな箱に入れてアメリカに送り、大変有り難く長年重宝させて頂きました。

 そうそう、アメリカに住むので、私はいつも滿で数えて,漱石は四十九歳で他界したと言います。荒正人氏の年表は数え年なので、いつも滿に直します。日本はまだ数え年を使いますでしょうか。

 あっ、今、庭の掃除をしてくれる若い人が来ましたので、ここで失礼致しします。それではまた。

陽子




伊豆利彦様 (横浜市立大学名誉教授)

2007/07/13 10:43
椿 わびすけ様

 エッセイ拝見しました。漱石と多佳女ん対する愛情がこもった文章だと思います。
 私は漱石の手紙で知っているだけでどんな女性かと思っていました。
 あなたのエッセイで二人の関係がわかり、あの手紙の意味もいろいろ考える手がかりをあたえられました。ありがとうございます。

 京都漱石の会発足の由、活発なご活動には深い敬意を表します。
 ご成功を祈ります。
 ただ、このごろは、脳力極度に衰え、文章がかけるかどうかわかりません。
 
 ホームページも多彩なものになり、ご努力に感銘しています。
 今後のご発展をお祈りします。

      伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/


◇◇◇◇◇

ブログのコメント欄にご投稿くださっております皆さまにも、心より御礼申し上げます。
ありがとうございます。







by tsubakiwabisuke | 2007-07-14 14:50 | 夏目漱石
2007年 07月 11日

夏目漱石の縁(えにし) 祇園と多佳女

元大手の新聞記者でいらしたYさんからお便りがまいりました。

「多佳女さんのこと初めてうかがいました。北野の観梅に誘った祇園の女性に断られて落ち込んだ漱石の話はどこかで読みました。「虞美人草」をもう一度読み返してみます。」

 Yさんはこのtsubakiコラム、先の拙稿をご覧の上ご感想をお寄せくださったようでした。漱石と祇園ということは、担当でない分野であまり知られていない内容であったのかもしれません。

 多佳女と漱石についてはかなり多くの論評がなされています。
「漱石は花街に無理解な人間だ。」「漱石という人間は京都にしっくり来ない。」「お茶屋・廓と漱石とはイメージが合わない。」

 さあ、真実はどうなのでしょうか。漱石が祇園を訪れたのは何時だったか?多佳女を知り付き合うようになったそもそものいきさつは?
 漱石が多佳の「梅見」の件で立腹したこと、その時代背景も考えながら私は漱石が多佳に何を語ろうとしたかに触れたいと思います。

祇園・一力の大石忌

 漱石がはじめて祇園にきたのは明治四十年。兄事する狩野亨吉の住む下鴨の家へ逗留した漱石のもとへ、高浜虚子がやってきて祇園に誘い出したのでした。

 万亭(一力)の大石(内蔵助)忌が行われている時で、漱石は13、4歳の二人の舞妓とひと時を過ごしています。虚子の文によれば漱石は父親のような眼差しで接したようです。

 大正四年春、今度は西川一草亭の案内で再び漱石は祇園を訪れます。やはり一力の大石忌です。一草亭はその時の漱石を次のように述べています。

「祇園の一力に大石忌があったので、それを見に行った。古風な座敷に並べた遺墨を見て、舞子の運んでくるお茶をよばれたり、庭で蕎麦をよばれたりした。帰りに「こんな茶を」よんだり、そばを食はせたり、懸物を見せて入場料を取らないのかね。京都といふ処は実に不思議な土地だ」といって驚いて居られた。」

 東京では到底あり得ないことが京都では行われている…。漱石にはなんとも不思議な光景に映ったと見えます。けれどもこうしたもてなしが受けられたのは、訳がありました。一力の女将はお茶屋「大友(だいとも)」の姉娘であり、そうしてその妹娘であったのがお多佳さんだったのです。

 津田青楓画伯の実兄・西川一草亭という案内人によって、漱石は賀茂川べりの旅館・北大嘉に滞在し、川向こうのお茶屋「 大友」の女将である多佳女と付き合うことになります。

漱石が多佳女に出会う

 漱石が多佳女に出会った時、漱石は48歳。多佳は36歳でした。しかし、これより約10年前に多佳は芸妓を止め、浅井忠から依頼されて、浅井の経営する陶器店「九雲堂」を手伝っていた時代があります。多佳はその店で自ら絵付けをして出来た湯飲みを漱石へ人づてに贈っているのですが、漱石のほうでは自分の愛読者たちが当時から京都にいることを日記に書いています。

 浅井忠は漱石の英国留学時代に付き合いのあった洋画家であり、多佳と漱石とは全くの無縁の間柄ではなかったといえましょう。そのえにしが急に接近したのはこの大正4年の京都旅行でした。旅のきっかけは、鏡子夫人が津田青楓へ漱石を保養がてらに連れ出してほしいとこっそり依頼したのでしたが。

 鏡子夫人は、夫の持病であった胃病の好転をねがって、ゆったりとした京都旅行をして来てほしいと津田に話したことを、漱石はもとより知る由もありませんでした。
 
 漱石が日本画を描くに当たってよい相談相手になり、漱石の心酔者であった津田青楓が故郷である京都に住居を移したこともあって、漱石の保養を兼ねた旅が実現しました。

 この当時は、多佳は母の経営するお茶屋「大友」を継ぎ女将となっていました。かねてからひそかに尊敬し愛読していた文豪の上洛です。津田の仲介により漱石が宿にしていた北大嘉で、多佳へ声がかかった幸運を多佳は感激したのです。

 そもそもの出会いがいわゆる遊里の芸妓と旦那客といった関係でなく、漱石は終始おなじ人間として親しみ深い態度で接しています。その後。漱石はひどく体調を崩し大友に二晩も寝込む事態になります。多佳がかいがいしく看病し、病気が落ち着くのを待って漱石は京都を離れました。都合29日間の京都旅行でした。

多佳女に与えた俳句

 大正4年3月下旬、祇園のお茶屋「大友」の磯田多佳女に与えた色紙。

「  木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに

   春の川を隔てて男女哉   漱石    」

 この句には、なにか天の川を隔てて男が女を想うロマンがあると見る向きもあるようです。たしかにどこか甘美なひびきがありましょう。また一方、漱石は男と女の間にある隔て、心理的な溝の存在を示唆しているのだとする見方もあります。

 そのどちらの見方も真実と思います。漱石の作品は読者がそれぞれに受け取ることを想定して書かれており、作者の主張を一色に表現していないからです。後者の見解は、この句が書かれた時、漱石は多佳女が梅見の約束を守らなかった時に作った句であるがゆえに、その心の間隙を詠んだものと見るのです。

 私は、漱石が立腹したことがあったにせよ、ここ京都の地で親身になって世話をしてくれた祇園の女将であるお多佳さんに、感謝のきもちでこの句を書いて与えたのだと強く感じるのです。そこに文豪・漱石の真面目(しんめんぼく)を見る思いです。

風流・閑適を愛した漱石

「明窓浄机、これが私の趣味であろう、閑適を愛するのである」
大正3年3月、朝日新聞『文士の生活』の一節。

 
「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、
人の心を豊かにするが故に尊い。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、
有難い世界をありのままに写すのが詩である、画である。」
『草枕』

 漱石のこの京都旅行について、鏡子夫人は『漱石の思ひ出』にこう述べています。漱石が寝込む前のことです。
「今まで西川さんや何かに何くれととなく御厄介になった、そのお礼心にどこかで一夕お招きしたいといふので、お多佳さんのお家で舞妓の踊りでもといふ段取りをつけて、それには金が少し足りそうにないので、すぐ百円ばかり送ってくれろと申して来ましたのでそれを送りました。」

 鏡子夫人は、漱石亡き後も京都にくれば必ずお多佳さんを訪ね、付き合いは長く続いたようでした。

画像はこちらに

磯田多佳のこと

 祇園は京都では独特な読み方で花街(かがい)という古風な地域です。伝統の礼儀正しいしきたりが今も守り続けられているのは、五花街の中でも祇園甲部が一番といわれています。
 
 都をどりは祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞(まい)の会です。明治5年(1872年)に京都博覧会の際に創演され、時の京都府槇村知事が歌の作詞を書き、井上流家元、井上八千代が振付した京都をあげての町興しでした。東京遷都のショックから立直るための大イベントだったのかもしれません。

 今なお、都の誇りを掲げる伝承がここに生きている祇園町。その祇園甲部にあって文芸芸妓とうたわれ、著名な文人たちの集う文芸サロンとなっていたお茶屋「大友(だいとも)」の女将であった多佳女…。

 磯村たかは、明治十二年(1879)、 祇園新橋のお茶屋の二女として出生。父親は下級武士の出で、芸妓であった母親の名はとも。その名前をとって屋号が出来たようです。茶屋といっても暗い環境ではなく平穏な家庭に育っています。美しい芸妓の姉は万亭(一力)に嫁ぎましたが、多佳は三味線の弾き手となり、和歌や絵を熱心に学びました。

 蓮月尼の門人であった歌の師上田重子についていましたが、多佳を養女にと望まれた程、歌の才にも恵まれていたのでした。若き日にはこうつぶやいたそうです。

「一に器量、二に芸…といわはりますけど、祇園の女は器量だけやない思いますんや。」

 しかし、花街の芸妓という期間は多佳が23歳ころまでで、すぐに母の経営になる「大友」を継いで女将となっています。それゆえ自由に行動できた面があり、他の芸妓と同じには語ることは出来ないのです。

 和歌とともに、俳句も学んだ多佳はつぎの作品を遺しています。

散る花の それたにあるを 中々に ととめかねたる 人いかにせむ

梅咲くや わすれられて はや二年越し

だまさるる 身はおもしろし 宵の春

死ぬといふ 女のくせや ほととぎす

 歌にも句にもはかなさが漂い、花柳界に生きる哀愁と達観すら感じられるのではないでしょうか。着るものも地味で縦じまの紬のきものを好んでよく着ていたといいます。

 多佳は終生、雨の日と紫陽花の花を好んだといいます。巽橋のかかる白川辺の元あった「大友」の庭には紫陽花が植えられていた由。そして、昭和二十年(1945)5月に多佳は養子又一郎の家で静かにみまかったのです。

 やはりこの日も雨が降り、紫陽花の花がうつくしく咲いていたと、『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』の著者、杉田博明氏は書かれています。

 それでは、お多佳さんに贈られた文人客の手向けの歌をここに。

あじさいの 花に心を 残しけん 人のゆくへも しら川の水
・・・・谷崎潤一郎

年ごとに 君がこのめる 紫陽花の 花は咲けども 多佳女世になし
・・・・吉井 勇

参考文献
岩波『漱石全集』より『日記・断片』『書簡』『漱石言行録』。
夏目鏡子『漱石の思ひ出』。西川一草亭『瓶史』。杉田博明『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』

◇ 

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by tsubakiwabisuke | 2007-07-11 16:51 | 夏目漱石
2007年 07月 10日

松庵茶会七月例会は ぎおんまつりで

七月九日は、京都美術倶楽部・松庵茶会が開催されました。今月の担当は山本松濤庵。山本さんは美術倶楽部では比較的新しい方ですが、先代から数寄者の道具屋として知られた存在だったようです。10数年前、私がさる料亭に出稽古に行ってました時、若女将がひいきにしていたお道具やさんでした。忘れていたことをふっと思いだしました。ひょうひょうとした人柄がこの席にも感じられました。

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主のことば、 余白が多うてちょっとしか描かんでも昔はそれでよかったんでしょうかな。

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神鈴。
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唐獅子の香合。やさか神社をまもる狛犬、獅子と一対ということで今日は獅子を。

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とうろうやま カマキリ。これは名工といわれている〇〇が作っています。床脇に。

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籠行李蓋の煙草盆。青貝入りの煙管。

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南蛮の渋い水指はいい味でした。蓋裏にも工夫がみえました。

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菓子器はバカラの金縁が替えに、主の器は江戸切り子で痛いほどの良品。薄茶器の涼味ある色彩。全体は華美にならず、しっとりとして祇園祭の趣向がそこはかとなく漂う取り合わせでした。
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ここに表示されない画像2枚はココログのほうへ。







by tsubakiwabisuke | 2007-07-10 02:47 | 茶の道
2007年 07月 06日

精中忌 お参りの皆さま ありがとうございます

平成19年7月5日、裏千家今日庵・精中忌の行事には、直門の志倶会がことしも添え釜をかけさせて頂きました。紫明通りにある茶道研修ビルの2階に早朝から準備に。茶席を整え、9時前には全国から参集された同門のみなさま方をお迎えいたしました。

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ここには表示されない画像が2枚、ココログのほうにアップしております。






by tsubakiwabisuke | 2007-07-06 23:36 | 茶の道
2007年 07月 05日

今日の精中忌の画像がもう裏千家HPにUP

popyuさんという北海道の若い友人から先ほどメールが来ました。
なんと、今日の精中忌の画像が、裏千家ホームページにアップされているというお知らせです。
ええっ! なんと迅速な対応でしょうか!

http://www.urasenke.or.jp/textm/headq/soke/koyomi/seichukih19/seichukih19.html


咄々斎では、手向けの七事式(唱和之式、仙遊之式、三友之式)が行われ、参列者は順次拝見。対流軒には七夕にちなんだ乞巧奠が飾られ、法要に取り合わせられた道具が展観されました。

http://www.urasenke.or.jp/textm/headq/soke/koyomi/seichukih19/seichukih19-09.html

手向けの七事式(唱和之式)

唱和之式(しょうわのしき)は、裏千家14代無限斎(淡々斎)の制定された式です。精中忌は、精中・円能・無限忌というお三方の遠忌になるものなのです。私どもは一番先にこの唱和之式に出させていただきました。

花寄せのあと香をまわし濃茶、薄茶と点茶。その後にそれぞれ自分の入れた花を歌題にして和歌を詠み短冊にしたため、一人づつ朗詠いたしました。


お分かりになりますでしょうか?

正客、中宮寺門跡・日野西光尊さん。
次客、大年増というもはばかれる誰かさん。

亭主役、大阪のかっぷくのいい男性茶人。
他のおふたりは柱のかげに…。おきれいな方ほどひっそりと。



正客の詠草。

歌題 桔梗(ききょう)

ありがたき精中忌の会(え)に 集ひより ききょう供(そな)ふる今日ぞうれしき
    光尊 


次客

歌題 撫子(なでしこ)

巴里に住む君のつくりし 茶の庵(いほ)に くれなひにほふ なでしこのはな  
宗津


他の方々のお歌はここにしたためることが叶いません。みなさまお上手に詠まれておりました。



私どもが担当いたしました副席のもようは別に撮影しておりますので、写真を後ほどアップいたしましょう。






by tsubakiwabisuke | 2007-07-05 22:46 | 茶の道
2007年 07月 03日

桐蔭会7月 京都美術倶楽部青年会の祇園まつり

空梅雨のなか、東山七条へ。
桐蔭会7月2日、今回の当番は京都美術倶楽部青年会です。
理事長はご存知、善田昌運堂さんのご長男。誰に対しても礼儀正しく好感のもてる青年と思います。本席でご正客は釜師の宮崎寒雉さん。次客アメリカから陶芸のリチャードさん。ゆったりと坐れたいいお席でした。点心席でそっと撮らせていただいたスナップをご披露いたしましょうか。

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by tsubakiwabisuke | 2007-07-03 03:15 | 茶の道