blog 漱石サロン ランデエヴウ

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2007年 04月 23日

わが茶道のコミニュテイ メンバー数7000人を越える

ミクシイで私が管理させていただいているコミュニテイが、先ほどみましたら、メンバー数7,011人になっていました。

             

裏千家茶道に学ぶ人々と、伝統文化・茶道に関心を寄せる人々が入会しています。



トップページの一部をご披露いたしましょうか。

http://c.mixi.jp/urasenke

2004年12月28日 (運営期間 846 日)

カテゴリ 趣味  


茶道は芸術と精神修養という日本文化の一つです。

千利休(1522~1591)はお茶の理念を和敬清寂の四文字にあらわしましたが、これは全ての人において平和への理想でもあります。
抹茶を立て、飲む一連の形式化された動作は一般に『ティーセレモニー』と訳されておりますが、日本の歴史・文化的発展の基礎となる思索・芸術の形態を生み出したことを鑑みると、茶道は『the way of Tea』が適切でしょう。

現代のスピードの中で忘れられがちな人を敬う和みの世界と不動の心を育む一助となり、強いては茶室から広い世界の和を願います。

参考文献淡交社刊『茶の湯 六ヶ国語会話』序文





前の管理人はドイツ在住の日本人女性フジヤさんでした。このブログでも書いておりますのでご存じの方もありでしょう。私たちはお互いに理解し合い、共感をもつにいたりました。

昨年春ころでしたか。私は或る要請を受けたのです。その間のことを、今日トピに書き込みました。


________________________

みなさま

今日は2007年4月23日(火曜日)です。
裏千家コミュニテイのトップページを見ましたら、メンバー数7、011人になっておりました。

前管理人フジヤ様との個人的な交流があった上で、フジヤ様からたってのご依頼を受けました。それは昨年春ころだったかと思います。

諸事情から管理人を辞退したいと思っている。ついては管理を譲りたいので、どうかご一考いただきたいという内容でした。

私はそれは無理です、多くの会員が支持されている方なのでそのことをよくお考えになるように、とお返事いたしました。
その後日数が経ち、再度の要請を受けたのでした。個人的な事情がおありで苦しいお立場が伝わってきました。

昨年の8月ではなかったでしょうか。管理人を譲るというミクシイからのメッセージが承認か拒否かを求めてきました。この時点で私は承認をクリックいたしました。

前管理人様が引継ぎの挨拶をトピにされたのは、大分後の9月に入ってからでした。
当時のメンバー数は印刷して残しておりますが、4、500人前後と思って頂ければけっこうです。

フジヤ様は削除ということで悩んでおられたこともございました。放任していた為トピが乱立しコミュとして困った状態だと仰っていたのでアドバイスさせて頂いたのを覚えております。

至りませぬ私が管理を引き継ぎましてから、はや8ヶ月が経過したことになりましょうか。その間、おかげさまで会員数は増加の一途を遂げ、約2500人近い方々が入会されました。

これはひとえに裏千家茶道あってのこと、ご宗家と皆さまのおかげと心より感謝いたしております。
ミクシイの編集局のシステム改変により、副管理人制度ができ、当コミュではルソン様にお願いしております。

ご専門である某公的機関の職場に従事される方ですが、多忙ななかに管理人を助けてコミュの運営に努力してくださっております。

どうぞ、皆さま
裏千家と、日本文化である茶道のもとに集う、学びと憩いのひとときをご一緒に過ごしてまりたいものですね、
どうぞよろしくお願い申し上げます。


不肖現管理人 わびすけより







by tsubakiwabisuke | 2007-04-23 13:12 | ニュース
2007年 04月 18日

漱石の書 「一草亭之人」 西川一草亭旧居を訪ねて

夏目漱石の書 「一草亭中人」

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3月19日、京都市内 浄土寺の去風洞に、私は白檀のお線香一箱を手にして訪問いたしました。翌20日は西川一草亭の祥月命日なのでした。

去風洞は華道の家元で、現九代家元の西川一橙氏と奥様の丁重なお迎えをいただきました。
ご夫妻は私のためにこの漱石の掛け軸を広間の床に掛けてくださっておりました。

もとは扁額であったようですが、おじい様にあたる一草亭が掛け物にされたようです。
じつに高潔な気韻がただよっています。私は感動してみつめておりました。

会話のなかで、漱石のお孫さんであるマックレイン松岡陽子さんに触れました。
お父上の松岡譲氏と一草亭の間には深い交友があったからです。
それらは一草亭が刊行していた雑誌『瓶史』(へいし)の執筆において知ることができます。

写真はマックレン陽子さんが昨年アメリカ大使館で行われた講演会のスナップです。
私は特別に許可をいただいて、証明書を首にぶらさげ(皆おなじ)、参加しています。

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お隣は陽子先生の教え子である米人女性。アメリカ大使館の重要なお仕事をなさっているステキな方です。




西川一草亭は、 『風流生活』1932の中で次のように述べています。

「我々は実生活の他に芸術を求め、 趣味を求め、 芝居を見たり、 音楽をきいたり、 書を味わったりしているが、 毎日の生活をその侭芸術として味わひ楽しむことが出来たら、 どれほど人間は幸福だろう。 茶碗土瓶が芸術であり、 椅子卓子が芸術であり、 机硯が芸術であって、 行住座臥、 随時随所それぞれ鑑賞して楽しむことができたら、 それほど便利なことはない」

かれは、花の作品よりも暮らしを芸術にという思想でその時代を啓蒙したといえましょう。

本業の挿花の指導のほか、書画、庭園の設計・管理、住宅、茶室の設計を行いました。
門下には  京都帝大教授の 藤井厚二、壽子夫妻、浅井忠、高安月郊、都鳥英喜、幸田露伴など。
交流があった建築家は、 武田五一、藤井厚二、堀口捨巳、谷口吉郎、吉田鉄郎、天沼俊一、岡田孝男、本野精吾、大林夫妻など。


『 瓶史』は、 挿花、茶道、庭園、建築など日本の伝統文化研究が編集・掲載されました。





文化サロン

志賀直哉、幸田露伴、室生犀星、和辻哲郎、谷川徹三、小宮豊隆、松岡譲、阿倍能成、長谷川如是閑、板垣鷹穂、正木直彦、川喜田半泥子、北大路魯山人らが集う大サロンであったのです。

ひとえに西川一草亭の高い見識と人柄が当時の知識人を魅了したものと思われます。実弟津田青楓の縁で、夏目漱石門下の小宮豊隆、松岡譲、阿倍能成、が名を連ねていることも注目されるところです。


ここでは画像がアップされないものがございますので、よろしかったらココログのほうをご覧くださいませ。




2006年4月末UP
 
スライドショーマックレイン陽子さんと皇居庭園を歩きました








by tsubakiwabisuke | 2007-04-18 23:13 | 夏目漱石
2007年 04月 15日

ご宗家でもったいないお稽古 稀有なこと

今日の稽古は、年に一度あるかないかの稀有なものでした。
裏千家ご宗家には午前8時半に着いたのですが、出席者は2名のみ。

淡交会の地区大会が近県で開催され、皆そちらへ行ったようでした。組織の一員であれば参加するほうが真っ当でしょう。でも稽古のために指導者が来られ、水屋の用意もできていたのですからこの好機を有難くお受けいたしました。

指導は86歳になられる寺西名誉教授。先々代の淡々斎宗匠に心酔されその教えを受け継がれたお方です。時代の潮流には離れたところにいらっしゃいますが、確たる信念に基づいたご指導は貴重です。孤高の風格といえばいいでしょうか。



参照 裏千家ホームページ 今日庵 茶室・茶庭

稽古場は、由緒正しい名席・抛筌斎(ほうせんさい)です。

最初に、初炭。透木(すきぎ)釜のあつかい。

香合は稽古場に新しくおりたお道具で、黄交趾の型物香合、笠牛を使わせていただきました。
「家元が出してこられたんや。即全だ。」

一面の菜の花畑のなかに寝そべって、黄色に染まった牛のようにも見えました。やさしい目をしています。

拝見のとき、香銘を当てずっぽうに申しますとそれが正解だったようです。
「坐忘斎家元のお好みで紫宝(しほう)。 薫玉堂(くんぎょくどう)でございます。」

本願寺の前にあるお香屋さんで、どちらかといいますと仏事用のような香りです。修行の香りと言い換えてもいいかもしれません。


とかく順序を忘れている私を丁寧にわかりやすく指示を与えてくださいます。

炭点前が終わり、次は東京から来られた若手の会員さんの番です。



唐物の点前がはじまりました。

縁高にはきんとんのお菓子。
虎屋の遠桜(とおざくら)。紅白のそぼろが遠く野山のさくらを思わせるきんとん。

濃茶は私ひとり一碗を頂戴しました。練りかげんもけっこうでした。
茶銘は、雲門の昔。詰めは一保堂。


唐物茶入れの蓋について、これまで聞いたことのないご意見を伺いました。

「瓶子(へいじ)蓋は、唐物の点前には向かない。掬い蓋のほうがよい。茶杓が乗り易い。」

「へいじ蓋は盆点のように盆の上に置く茶入れの場合に使用するもの。畳の上に置く茶入れの場合は唐物でも掬い蓋がふさわしい。」

寺西先生のお話は続きました。
「唐物茶入は替え蓋がついているものがあるのは、こうした場合に使う。」


こうしたご意見は古くから伝承されたものと思われます。ただ、現在の稽古では主流となっていないようですね。でも、それはそれとして傾聴すべき貴重なお話だと私は思いました。



行の茶杓について。

竹の止め節を入念に見ると、どのようになっているかわかるでしょうか?
節には二つの山があります。その中を割って切るのが止め節の茶杓だ、とお聞きいたしました。

稽古用のものは節がそのまま残っているものでした。これは切り方が間違っていると仰っておりました。

先生は、玄々斎と淡々斎の「止め節の茶杓」を二つ所蔵されているという実績がおありなのです。淡々斎の箱書きには、「草の真削り」と書かれているというお話でした。以前、わざわざ私たちに見せていただいた記憶がございます。

行の茶杓はこんなものだと思い込んでいるのが普通です。
でも、唐物の点前を通して、道具がどのようにして使われるようになったかを考えてみることも、大事ではないかと思いました。

混乱するから点前は一つの指導でよい、という見方もございましょう。
けれども、さまざまな指導を大きく包含するのが、裏千家茶道の特質だということではないでしょうか。



先生のお勧めでもう一点前、お稽古を見ていただきました。
台天目、ミス続出でしたがお茶を点てて、客になられた東京人Kさんに飲んでいただきました。

私は今日のご指導を、心からありがたく感謝して受け取りました。

今日庵最長老の寺西宗二業躰。先生のますますのご健康をお祈り申し上げます。


◇◇◇

拙サイト
2003年UP 今日庵名誉教授の方々






by tsubakiwabisuke | 2007-04-15 02:43 | 茶の道
2007年 04月 10日

ご対面! 炉の流し点て(薄茶のみ)

今日はご宗家の槍の間でお稽古をさせていただきました。
指導は阿部業躰先生。

壁床に坐忘斎家元の横もの。「臥月眠雲」
掛け花入に利休梅。雪柳。

ここは淡々斎がいらした頃、時計の間と呼ばれていたそうです。当時古い時計が柱に掛かりそれを見物に来る人があったとか。時代とともにどの家々にも時計が普及し珍しくなくなって、その呼び名もなくなったのでしょう。

盆香合、茶碗荘(かざり)、と点前がありまして客はふたり。私は正客で濃茶をいただきました。
縁高(ふちだか)に「水かがみ」という銘のじょうよう饅頭。俵屋製。お茶は小山園。


「臥月眠雲」とは禅の言葉でしょうね。月に臥し、雲に眠る。ではそのこころは?

「野宿同然に月に照らされて臥し、夜霧に包まれて眠る」
それは、「乏しくきぴしい条件に耐えて修行にはげむ」こと。これは 芳賀幸四郎氏の解説なのですが、分かりやすいと思います。


阿部先生との会話。

「先生、このお軸ですが、お家元の眠という字のつくり。最近お書きになる花押(かおう)によく似てるような気がします。」と申しますと、「さあ、どうでしょうか。」と。

まあ、私の推測に過ぎないのですが、なにごとも出典というものがございますね。花押にもきっとあると思います。前のお花押は忍び達磨のような感じでしたが、この度のは打って変わってスマートです。

私は、眠の字に、利休さまの実子である眠翁道安(みんおうどうあん)を思い浮かべます。

閑話休題。

客が済むと、点前の順番でした。私は流し点てをお願いして客お二人。
小ぶりの瀬戸水指。休雪の萩茶碗。利休型中棗。茶杓は淡々斎の形のものを選びました。
建水に竹蓋置き。柄杓。干菓子は稚児ざくらにわらび。
水屋詰めの若手が準備してくださいました。

順序。

水指を炉の右、カン付中央にあわせるようにして置く。棗と茶碗をもって点前畳正面から居前に向きを変え、通常水指がある時と同じようにナナメに炉に流して置く。 建水をもち、炉正面に坐る。

ここが流し点ての居前とする。蓋置きは水指前に。柄杓は蓋置きにまっすぐに引く。釜に入れたら炉縁外隅ねらいで置く。
茶を入れ茶を点てる。二人の客に茶を呈し、客からお仕舞いの声がかからなかったのでもう一碗点てる。正客はお仕舞いをの挨拶をせず、主に茶をすすめるように計らう。 亭主相伴ということになり、正客は菓子器をもって水指横に置く。


主は正客の「どうぞご自服で」の挨拶に応えてから、水を一杓釜にさしておく。一呼吸。
主は客付(炉ぶち右外隅を膝中央に)に向く。菓子器を押し頂いて正客の配慮に感謝し、菓子は遠慮する。菓子器の向きを変えておく。この時は茶碗が定坐に出されている。


その茶碗をとって主は客付にて膝前に置き、茶をいただく。
この後、流し点ての場合は、主は客にまた茶をすすめ、客もそれを受けてゆったりとした時間をすごすことも可能。
拝見の声にて、両器を清め、棗を炉ぶちと水指の間、外炉ぶちと水指の間2等分した位置に置き、その下に茶杓を置く。


まとめ。

◆ 流し点ては炉で行う点前が古くから考案され、行われていた。

◆ 風炉の流し点ては炉・流し点てから円能斎があらたに考案されたもの。

◆ 点前はすべて風炉が基本で炉はのちに出来たものだが、例外はこの流し点てである。

◆ 亭主相伴は通常の場合、亭主が茶を飲むことで終了となるが、流し点てのみ、再度客にす  すめることができる。

◆ 主客が真正面から向き合うのは流し点てのみ。居前のあり方として親しみがある。

◆ これは基本が出来ている、いわば巧者の点前である。


以上、習ったことをメモしてみました。間違いを書いているかもしれません。
意のあるところを汲んでいただければ幸いです。


「このお点前は、主客が真正面から向き合う、気の合う人にはとてもいいお点前ですね。」

「うん、昔は、見合いにいいと言ってた。今は言いませんが…。」

「そうだったのですか。今ならテレビでいうみたいです。ご対面!って」


そうそう、お茶杓の問いに答えて私はこんな風に申しましたよ。

茶杓は、淡々斎の「ともどち」でございます。







by tsubakiwabisuke | 2007-04-10 00:22 | 茶の道
2007年 04月 06日

岡倉天心著 千宗室序と跋 浅野晃訳 『茶の本』 のレビューを書く


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対訳・茶の本 (ペーパーバック)
岡倉 天心 (著),  浅野 晃 (翻訳),  千 宗室 (著)


『茶の本』は、1906年(明治39年)、ニューヨークの出版社から出版された岡倉天心の英文の著書であることを、ご存知の方は多いはずです。

天心の英文の著書には、「東洋の理想」「日本のめざめ」「茶の本」と三部あり、これらはいずれも外国の読者に向けて書かれたのでした。

ヨーロッパの各国で翻訳され高い評価を受け日本へ逆輸入された天心のエッセイですが、わけても人気が高い「茶の本」は何人もの訳者によって次々に和訳されました。

しかし、名訳として知られた角川文庫版の浅野晃訳が昭和45年に絶版となり、寂しく思っていましたところへ、講談社の英断によって再び世に出たことは喜びにたえません 。(1998年3月第1刷発行)


本書は、千宗室(鵬雲斎)家元の序文・跋文をもって、原文と浅野晃訳の対訳で構成されており、岡倉天心の警醒の心を現代に伝えるに、この上ない最高の書物だということができます。

家元の序文に、天心と裏千家第11代玄々斎の共通点を解かれているのも説得力があり注目されるところです。
旧海軍の特攻隊員でもあった家元は序文の最後に次のように結語されています。

◇◇◇

 この本の終章で、天心は千利休の死について素晴らしい一節を残している。千利休は茶の湯を大成した人物であり、私は彼の残した偉業を十五代家元として今自分が受け継いでいることを誇りに思っている。死は、と天心は言う。それを単に否定的な概念と考えるべきではない。「美しいものとともに生きたものだけが、美しく死ぬことができる。」と。利休の死から400年がたち、茶の湯の歴史を振り返り、さらに21世紀へと思いを馳せる今こそ、もう一度こ『茶の本』に目を向けたいものだ。

十五世 千 宗室

     京都にて  1989年10月  


作成日時 2007年04月06日 18:54


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これはミクシイのコミュにレビューとして書いたものです。
私の管理する茶道のコミュニテイは、参加メンバーが増加して現在、6、860人になっています。
新会員が自己紹介をしてくれますが、一様に、こんな書き込みしています。

「裏千家のお茶に魅力を感じています。」
「もっともっと、知識を得たいと思います。」
「これから一生懸命」精進するつもりです。」

初心とは、本当にいいものですね。
この本のレビューが少しでもお役に立てれば望外の喜びでございます。




拙サイトに掲載している旧作に、岡倉天心について書いたものがございます。

天心が送った『猫への手紙』


天心『茶の本』について  和訳と訳注について 






by tsubakiwabisuke | 2007-04-06 20:11 |
2007年 04月 02日

花の下に逝かれた わが心の師 通夜に行きました

四月といえば桜。
東京ははや満開とか、各地の花便りがきかれます。

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この原稿を非公開で書きはじめめてから、思うところあって停止していました。藤枝駅の画像は先月末に、大叔父のお通夜に行ったときのスナップです。

主人と私にとって、心から深く尊敬するお方でしたから、本当は喪に服さなければならない日々なのです。日本全国、桜の花が咲きう、美しい国というキャッチフレーズが、花に限ってなら実感をもって肯けるのです。でも、私たちはそうした思いには遠く、3月末に京都を発ち大叔父の在所にまいりました。

藤枝駅といえば、東海道藤枝宿の宿場町でした。藤枝宿(ふじえだじゅく)とは、東海道五十三次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場となっています。1601年:東海道の宿場町として藤枝宿が置かれます。最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えたようです。

この土地はひなびた感じが今も残る土地柄ですが、当時の住民の考えがはっきりとしていました。住民は、明治に入り東海道本線が建設される際、蒸気機関車の煙や火の粉を心配して、線路の建設を拒んだといいます。そのため藤枝駅は町から3キロほども離れて設けられ発展できなかったという見方があります。

住民の声が届いた行政ということ。今では日本の夢物語のように思われますね。



私的には大叔父さまですが、本来の出家には血縁関係はない筈です。
私は老師さまとお呼びしておりました。

けれども、主人と私の結婚に際して結納の席にもわざわざ京都までお出ましいただきました。
ほんとうにご恩になったお方でした。

曹洞宗の禅堂の指導者として、真摯な佛弟子を打ち出されました。
永平寺の西堂にいったん就任されながら、自ら辞任なさいました。
一生涯独身、肉食をされず精進潔斎を貫かれました。
老師のそのお姿に、私はどれほど多くの教えをいただいたことでしょう!

かつて老師のご染筆を2枚裏千家ご宗家にお送りいたしましたところ、鵬雲斎大宗匠から私にお声がかかりました。

「あの書を表装させてもらいますが、ご老師に箱書きをおねがいできますか?」と。

それから、「いや、私が箱書きをすることにしますから。」とおっしゃいました。
そのことをなつかしく思い出すのです。もう5、6年前のことでした。

私は時々ふっと、あの一行物と横物の墨蹟をご宗家で一度拝見できたらなぁ、と心の中で思います。

今は黙ってご冥福をお祈りするばかりです。

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今年に入って、ご老師は遺偈(ゆいげ)をお書きになっていました。
四行のそのなかの一句は、 「九十五年」。

95歳の堂々たるご生涯でありました。

4月4日UP



大叔父 白山老師のこと。

http://tsubakiwabisuke.cocolog-nifty.com/rendezvous/2002/12/post_b120.html

by tsubakiwabisuke | 2007-04-02 09:43 | ニュース