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カテゴリ:ニュース( 51 )


2008年 01月 13日

京都、大会新で4連覇! 全国女子駅伝と初釜 

日曜日のテレビニュースがとびこんできました。 

「第26回全国都道府県対抗女子駅伝(日本陸連、京都新聞社主催、NHK共催)が13日、京都市右京区の西京極陸上競技場を発着点とし、左京区の京都国際会議場前で折り返す9区間42・195キロのコースで行われ、2区で首位に立った京都が3区以降独走し、2時間14分58秒の大会新記録で4年連続12度目の優勝を飾った。.
4連覇は6回-10回大会で京都が5連覇を飾って以来。」

じつは、昨日にご宗家の初釜式に参りました。そして今日は全国女子駅伝。

ねずみ年に京都が大会新で4連覇!

ちょうど六年前のことを思い浮かべております。

あれは、うま年でした。

2002年1月13日 初釜のことを拙サイトに書かせていただいていますが、その時もやはり全国女子駅伝は京都優勝。幸運な巡り合いなのですね。

うま年 宗家初釜 と 女子駅伝


第20回全国都道府県対抗女子駅伝で6年ぶり8度目の優勝を遂げた京都 府チーム、といいますからその後メキメキと力をあげたようです。

喜びを全身にあらわしてゴールに入った選手のたくましくも可憐なすがた。
きのうの初釜の喜びとともに、幸先のいい今日の一日でございました。





by tsubakiwabisuke | 2008-01-13 23:00 | ニュース
2007年 08月 29日

26才の青年横綱・朝青龍 心はどこに?

モンゴルから来た26才の青年の栄枯盛衰をニュースで毎日見ることになろうとは思ってもいませんでした。現代日本の若者には見られぬハングリー精神で、出世街道をひた走り押しも押されぬ横綱になったのは誰しも依存のないところです。

不振の相撲界をひとりで盛り立てて来た強さに、多くの観客は素直に拍手をし声援を送り続けました。日本人は島国根性とよくひきあいに出されますが、モンゴル相撲から日本の国技へ移行し成功した横綱・朝青龍をなんの抵抗もなく受け容れたのです。

驕る平家ではありませんが、朝青龍のおごり高ぶった態度は何度か問題になりました。
けれどもいつもうやむやになり、親方の指導力不足ということで終わったのです。

ところで親方には一体どのような強い権限があるというのでしょうか?
大出世しただけで孝行息子なんです。態度がどうであれ、小部屋の親方には朝青龍は可愛い弟子に違いないのですね。 

親方に責任を押し付けるのではなく、強大な権限を持つ相撲協会のトップが厳しい沙汰をくだすべきだったでしょう。日本の国技であることが大前提であって、心の教育は行われていたか、あらゆることが後手後手に回ったわけです。

心の病を発病したという医師の診断により、治療のためにモンゴルに帰国が決まったといいます。本来なら配偶者が迎えにくるところですが、どうも日本とは様子が違うようです。人間として横綱として余りにも未熟といえましょう。

モンゴルの大草原を流れるあのホーミーのうつくしく哀しい響き…。私は26才の青年朝青龍が故国に帰って心身を癒し、心から悔い改める日が来ることを期待しています。いかに格闘技に強くても心を喪った横綱はもう見たくはないと思っています。

まだまだ若い人です。いくらでもチャンスはありますから。3年前にも私は彼のことを書いています。他人事でない事柄もございまして。


2004年11月22日 (月) 心技体 すもうと茶人







by tsubakiwabisuke | 2007-08-29 00:16 | ニュース
2007年 04月 23日

わが茶道のコミニュテイ メンバー数7000人を越える

ミクシイで私が管理させていただいているコミュニテイが、先ほどみましたら、メンバー数7,011人になっていました。

             

裏千家茶道に学ぶ人々と、伝統文化・茶道に関心を寄せる人々が入会しています。



トップページの一部をご披露いたしましょうか。

http://c.mixi.jp/urasenke

2004年12月28日 (運営期間 846 日)

カテゴリ 趣味  


茶道は芸術と精神修養という日本文化の一つです。

千利休(1522~1591)はお茶の理念を和敬清寂の四文字にあらわしましたが、これは全ての人において平和への理想でもあります。
抹茶を立て、飲む一連の形式化された動作は一般に『ティーセレモニー』と訳されておりますが、日本の歴史・文化的発展の基礎となる思索・芸術の形態を生み出したことを鑑みると、茶道は『the way of Tea』が適切でしょう。

現代のスピードの中で忘れられがちな人を敬う和みの世界と不動の心を育む一助となり、強いては茶室から広い世界の和を願います。

参考文献淡交社刊『茶の湯 六ヶ国語会話』序文





前の管理人はドイツ在住の日本人女性フジヤさんでした。このブログでも書いておりますのでご存じの方もありでしょう。私たちはお互いに理解し合い、共感をもつにいたりました。

昨年春ころでしたか。私は或る要請を受けたのです。その間のことを、今日トピに書き込みました。


________________________

みなさま

今日は2007年4月23日(火曜日)です。
裏千家コミュニテイのトップページを見ましたら、メンバー数7、011人になっておりました。

前管理人フジヤ様との個人的な交流があった上で、フジヤ様からたってのご依頼を受けました。それは昨年春ころだったかと思います。

諸事情から管理人を辞退したいと思っている。ついては管理を譲りたいので、どうかご一考いただきたいという内容でした。

私はそれは無理です、多くの会員が支持されている方なのでそのことをよくお考えになるように、とお返事いたしました。
その後日数が経ち、再度の要請を受けたのでした。個人的な事情がおありで苦しいお立場が伝わってきました。

昨年の8月ではなかったでしょうか。管理人を譲るというミクシイからのメッセージが承認か拒否かを求めてきました。この時点で私は承認をクリックいたしました。

前管理人様が引継ぎの挨拶をトピにされたのは、大分後の9月に入ってからでした。
当時のメンバー数は印刷して残しておりますが、4、500人前後と思って頂ければけっこうです。

フジヤ様は削除ということで悩んでおられたこともございました。放任していた為トピが乱立しコミュとして困った状態だと仰っていたのでアドバイスさせて頂いたのを覚えております。

至りませぬ私が管理を引き継ぎましてから、はや8ヶ月が経過したことになりましょうか。その間、おかげさまで会員数は増加の一途を遂げ、約2500人近い方々が入会されました。

これはひとえに裏千家茶道あってのこと、ご宗家と皆さまのおかげと心より感謝いたしております。
ミクシイの編集局のシステム改変により、副管理人制度ができ、当コミュではルソン様にお願いしております。

ご専門である某公的機関の職場に従事される方ですが、多忙ななかに管理人を助けてコミュの運営に努力してくださっております。

どうぞ、皆さま
裏千家と、日本文化である茶道のもとに集う、学びと憩いのひとときをご一緒に過ごしてまりたいものですね、
どうぞよろしくお願い申し上げます。


不肖現管理人 わびすけより







by tsubakiwabisuke | 2007-04-23 13:12 | ニュース
2007年 04月 02日

花の下に逝かれた わが心の師 通夜に行きました

四月といえば桜。
東京ははや満開とか、各地の花便りがきかれます。

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この原稿を非公開で書きはじめめてから、思うところあって停止していました。藤枝駅の画像は先月末に、大叔父のお通夜に行ったときのスナップです。

主人と私にとって、心から深く尊敬するお方でしたから、本当は喪に服さなければならない日々なのです。日本全国、桜の花が咲きう、美しい国というキャッチフレーズが、花に限ってなら実感をもって肯けるのです。でも、私たちはそうした思いには遠く、3月末に京都を発ち大叔父の在所にまいりました。

藤枝駅といえば、東海道藤枝宿の宿場町でした。藤枝宿(ふじえだじゅく)とは、東海道五十三次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場となっています。1601年:東海道の宿場町として藤枝宿が置かれます。最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えたようです。

この土地はひなびた感じが今も残る土地柄ですが、当時の住民の考えがはっきりとしていました。住民は、明治に入り東海道本線が建設される際、蒸気機関車の煙や火の粉を心配して、線路の建設を拒んだといいます。そのため藤枝駅は町から3キロほども離れて設けられ発展できなかったという見方があります。

住民の声が届いた行政ということ。今では日本の夢物語のように思われますね。



私的には大叔父さまですが、本来の出家には血縁関係はない筈です。
私は老師さまとお呼びしておりました。

けれども、主人と私の結婚に際して結納の席にもわざわざ京都までお出ましいただきました。
ほんとうにご恩になったお方でした。

曹洞宗の禅堂の指導者として、真摯な佛弟子を打ち出されました。
永平寺の西堂にいったん就任されながら、自ら辞任なさいました。
一生涯独身、肉食をされず精進潔斎を貫かれました。
老師のそのお姿に、私はどれほど多くの教えをいただいたことでしょう!

かつて老師のご染筆を2枚裏千家ご宗家にお送りいたしましたところ、鵬雲斎大宗匠から私にお声がかかりました。

「あの書を表装させてもらいますが、ご老師に箱書きをおねがいできますか?」と。

それから、「いや、私が箱書きをすることにしますから。」とおっしゃいました。
そのことをなつかしく思い出すのです。もう5、6年前のことでした。

私は時々ふっと、あの一行物と横物の墨蹟をご宗家で一度拝見できたらなぁ、と心の中で思います。

今は黙ってご冥福をお祈りするばかりです。

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今年に入って、ご老師は遺偈(ゆいげ)をお書きになっていました。
四行のそのなかの一句は、 「九十五年」。

95歳の堂々たるご生涯でありました。

4月4日UP



大叔父 白山老師のこと。

http://tsubakiwabisuke.cocolog-nifty.com/rendezvous/2002/12/post_b120.html

by tsubakiwabisuke | 2007-04-02 09:43 | ニュース
2007年 03月 25日

パリ・オペラ座の「勧進帳」 市川團十郎・海老蔵親子

ハイビジョン特集「パリ・オペラ座の弁慶」
今夜午後七時からNHKBSで放映されましたね。ご覧になった方も多いことでしょう。

パリ・オペラ座で行われる史上初の歌舞伎公演。
市川團十郎・海老蔵親子が演じるのは歌舞伎十八番の「勧進帳」。

これは、3月23日の初日の模様だそうですが、いやぁ~、もう感激いたしました。

團十郎の弁慶。海老蔵の富樫。亀治郎の義経という配役。最初に役者の口上があり、なんとフランス語ではっきりとイチカワ、、、とテンポよく行われたのです。観客席は拍手喝采。


舞台の作りも本格的で、長唄の演奏がこれまた素晴らしく三味線・鼓の囃子方のかもし出す品格ある民族音楽。退屈させない劇的な流れ、まさに世界に誇れる歌劇としてこの「勧進帳」を見ました。

昔習ったことのあある長唄ですから、次にくることばも自ずと出てきますし、最高レベルの奏者たちです。やはり、伝統はそのままの形がベストだと思いました。西洋風にアレンジしていないのがよかったですね。

富樫は昔からとびきりの美男子の役です。海老蔵は適役でした。
昔みた時は、菊五郎の義経でした。今回はすこし華がなかったようにも(すみません。)

弁慶の主君を思う心を感じ取った富樫の表情。抑えたなかに男の美がありました。
勧進帳と見せかけた巻物を高らかに読み上げる場面は圧巻でしたが、富樫から振舞われた酒を豪快に飲み干し、感謝と喜びを表現する弁慶も素晴らしかったです。

團十郎は、日本文化を誇りを持って伝えたいと語っていました。テーマは日本人の「仁」「情」。

団十郎さんら初日終える パリ・オペラ座歌舞伎
朝日新聞



終了後にフランス人観客は理解できた!音楽がいい、衣装が素晴らしかった!と口々に喜びのコメントをしていました。



私は「不易流行」(ふえきりゅうこう)という言葉を考えていました。
よくいわれることばですが、生活の中に実感はなかなか湧かなかったのです。それが今日の歌舞伎を見てこれだ!と強く理解できたのです。


「不易流行」はどのようにしていわれてきたのでしょうか。それは次のようなことだったのです。

元禄2年(1689年) 芭蕉46歳のとき

12月 京都滞在中、去来に「不易流行」の理念を説いています。

「奥州行脚の前はままあり。この行脚の内に工夫し給ふと見えたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりす、といふ句あり。後に、あなの二字を捨てらる。是のみにあらず、異体の句どもはぶき捨て給ふ多し。この年の冬、初めて不易流行の教を説き給へり(去来抄)」


「不易」というのは時の流れによっても変わらないということ、そして「流行」というのは時の流れとともに変化してゆくこと。一見相反するようですがこの両方がなければならないと説いているのではないでしょうか。

周囲の変化の中で本質的な『自分』を保ち続ける。自らが変化していく過程と申しますか。「不易」と「流行」とのバランスを常に考え到達したのが芭蕉だったのではないかと思います。

今の世の中は流行が突出していますし、国の教育方針もやれゆとり教育だの変更だのころころ変わりますよね。
日本は、これから伝統の変わらない良さを守っていくことが必要ではないかと思います。

オペラといえば西洋のものと思わないことでしょうね。
こんな見事な歌劇がわが国にはあるのですから。

歌舞伎! 「勧進帳」。

白血病を克服された市川團十郎さんに、感動するばかりでした。



團十郎さんのこと。

歌舞伎の市川団十郎さんは抗がん剤の副作用とかで丸坊主であった。痛々しいという感じはなく、「病気は完治したと思っている。5月から舞台に立つ。」と力強く朗らかに言明。場内から拍手が沸いた。

 団十郎さんは、歌舞伎の中には世の理不尽なものをリアルに描くことで時代を超えて訴える力がある。また、先人から受け継いだ誇りがある。日本の伝統文化は年配者にやさしい文化だ。高齢であっても力があれば正当に評価される、と続けた。

 これらの発言は会場の視聴者に多くの感動を与えたようであった。団十郎さんはことし59歳。昨年襲名披露をした坂田籐三郎さんは昭和6年12月生まれと聞くから74歳で歌舞伎界のトップスターである。まさに世界に誇っていい日本の「やさしい文化」である。






by tsubakiwabisuke | 2007-03-25 22:15 | ニュース
2007年 03月 21日

お彼岸の中日 おしょうじん 大魚と猫

ロイヤルコペンハーゲン 北欧の名門陶器として日本人にたいへん人気があります。もとは中国の染付けを学んで製作したものですが、王国の伝統と気品をもって独自の美を創り出しました。

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タカシマヤで釘付けになったのは、大魚の作品です。色彩も形も見ていて飽きません。
折りしもお彼岸の中日です。

彼の岸まで力強く泳ぎきるかのような、北欧の大魚。
係りの方に撮影の許可を申し入れましたら、すぐ上司の方に聞きにいかれました。

笑顔で、「どうぞ、どうぞ。とっても嬉しいです。男性の方からお褒めの言葉をいただきましたが、女性の方は初めてですから。」とのこと。ありがとうございます!

猫はいない…、とつぶやきましたら、こちらにいますと、フランスのコーナーに案内してくださいました。タカシマヤのスタッフは本当に感じがいいですね。

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ラリック作

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場所を移動してもらいました。

コペンハーゲンには魚はいても猫がいない。こんな大きい魚なら猫のほうが逃げていくでしょうね。
でも、この魚はまことに由緒正しく、日本の皇室にも贈呈され大切に保管されているのでした。


宮内庁三の丸尚蔵館 ( 宮内庁ホームページより)
第36回展
展示作品リスト

平成17年1月8日(土)~2月27日(日)
January 8(sat.)-February 27(sun.), 2005


21
ジャンヌ・グリュー(原型)、
ロイヤル・コペンハーゲン磁器製作所
ブルー・フィッシュ (原題:Blue Fish-Coelacanth) 
1971年頃 
陶磁
昭和46年(1971)昭和天皇 香淳皇后ロイヤル・コペンハーゲン磁器製作所を ご訪問の折、同所より

Blue Fish
Royal Copenhagen Porcelain Manufactory,
original design by Jeanne Grut   ca.1971; porcelain
1971, gift of Royal Copenhagen Porcelain Manufactory on visit there by Emperor Showa and Empress Kojun



ロイヤルコペンハーゲン社の解説によれば次のようになります。 

『おおよそ3億5000万年前より生息していたと言われる「シーラカンス」は、化石の上のものとして、数千年前に恐竜と共に死滅したとされていました。しかし、1938年12月に南アフリカ東海岸でグーセン船長の魚網にかかった1尾がシーラカンスそのものでした。このシーラカンスは、学名を「ラティメリア・チャルムナイ・スミス」とつけられました。その名は、グーセン船長からラティマー女史、さらにスミス博士へと幻の魚を現実のものにしていった人達と捕獲場所チャルムナ河口沖に因んでいます。東アフリカ沖のコモロ諸島の人々の間では、古くからこれを「ゴンベッサ(幸運)」と呼び、幸福をもたらす縁起の良い魚だとの言い伝えがあります。彫塑家ジャンヌ・グリューは、このシーラカンスから強烈な印象を受け、青の釉(うわぐすり)を用いた陶器でこれを表現し、「ブルーフィッシュ」として発表しました。この作品は、素晴らしい未知のものに対するロマンを呼び起こします。1972年(昭和47)秋、昭和天皇・皇后陛下が訪欧された際、ロイヤル・コペンハーゲン社を見学され、記念としてこの「ブルーフィッシュ」と同じものが陛下に献上されました』。





タカシマヤ・美術コーナーには、ガラスの猫がいました。れっきとしたフランス猫!

☆ ルネ・ラリック

アール・ヌーヴォー、アール・デコの両時代にわたって活躍した作家ですからご存知の方も多いでしょう。

ルネ・ラリック

ルネ・ラリック(René Lalique、 1860年4月6日 - 1945年5月5日)は、19世紀~20世紀のフランスのガラス工芸家、宝飾(ジュエリー)デザイナー。

前半生はアール・ヌーヴォー様式の宝飾(ジュエリー)デザイナーとして活躍し、その分野で名声を得ていた。宝飾デザイナー時代から、ガラスをパーツに用いていたが、ガラス工場の経営者に転進するのは50歳を過ぎてからである。 出典: (Wikipedia)


また、ルネ・ラリック と日本との結びつきをみてみましょう。

Link 箱根ラリック美術館


「ルネ・ラリック(1860-1945、フランス)が工芸作家として様々な技術や意匠を吸収していった19世紀後半、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術の影響が、フランスをはじめとするヨーロッパ各国を席巻していました。ラリックもまたジャポニスムから多くを学び取り、日本風のモチーフを使用するだけではなく、構図・視点などにも日本美術の妙を取りいれました。」


東京都庭園美術館(朝香宮[あさかのみや]邸)

この建物は1920年代から1930年代にかけてヨーロッパの装飾美術を席巻したアール・デコ様式を 現在に伝えるものです。フランス人デザイナーが、主要部分を設計、内部装飾もフランスをはじめとする 外国から輸入されたものが多用されています。

ルネ・ラリックは、朝香宮邸においては正面玄関ガラス・レリーフ扉、大客室と大食堂のシャンデリアを制作しています。


1925年のアール・デコの博覧会において、彼は自身のパビリオンをもち、その傍らに記念碑的なガラスの噴水を制作するなど、アール・デコのガラス工芸家としても活躍したのです。




今日はお彼岸の中日、わが家ではおしょうじんの献立です。精進と漢字変換が出るまでに時間がかかりました。
だって、「和尚人」って出たのですもの。たった一日だけで和尚人になれますでしょうか???



読者のみなさまの声からブルーフィッシュの記事を追加いたしました。







by tsubakiwabisuke | 2007-03-21 12:05 | ニュース
2007年 02月 17日

無実ってなんのこと? 或る中国人女性の場合

日本の大新聞は、庶民感覚ではちょっと腑に落ちない記事がよく見受けられます。
私の読みが浅いからなんでしょうか?
まあ、次のタイトルをご覧になってください。


大阪地検、無実の中国人女性を起訴…戸籍規定見落とす

http://megalodon.jp/?url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070216i117.htm%3ffrom%3dmain1&date=20070217141426


● 大阪地検が、「女性が離婚後300日以内に出産した場合、子供は戸籍上、離婚前の夫の子供になる」と定めた民法772条の規定を見落とし、本来、罪に問えない中国人女性(28)を公正証書原本不実記載・同行使罪で起訴していたことがわかった。

● 同地検などによると、女性は1998年に来日し飲食店などで勤務。2000年7月、日本人男性と結婚したが、3か月後に別居し別の日本人男性と交際を始めた。前夫とは01年5月31日に協議離婚が成立した。

● 女性は同年10月17日、新たな交際相手との間にもうけた男児を出産。前夫に「(戸籍上の)父親になってほしい」と頼んだが断られたため、無断で大阪市内の区役所に出生届を出した。


● これを知った前夫が昨年1月、大阪府警に告発。書類送検を受け、同地検は同10月、女性が「前夫の子でないことは認識していた」と述べ、無断で前夫名義を使ったことを認めたことなどから「うその出生届を出した」と判断、在宅起訴したが、12月の初公判で弁護人からミスを指摘された。

 
●清水治・大阪地検次席検事の話「民法の規定に照らして虚偽申告といえるのかどうかに気付くべきだった。女性には申し訳なく思っている」

(2007年2月17日2時24分 読売新聞)





中国人女性は日本男性と結婚した後、3ヶ月で他の男性と親密な交際をしていました。夫と離婚した後で今の夫の子供を産みました。

「前夫に「(戸籍上の)父親になってほしい」と頼んだが断られたため、無断で大阪市内の区役所に出生届を出した。」

ここで問題が起きたのです。

これを知った前夫が昨年1月、大阪府警に告発しました。。書類送検を受け、同地検は同10月、女性から「前夫の子でないことは認識していた」という言質をとります。

そこで、女性が無断で前夫名義を使ったことを認めたことなどから「うその出生届を出した」と判断、在宅起訴したわけです。ここまでは誰が見ても前夫に同情するのではないでしょうか?


この中国人女性のした行為は、戦前の日本の法律なら「姦通罪」に当たるものです。女性のみを一方的に断罪する悪法ではありましたが。今は日本人女性の貞操観念がなくなり、こうした罪に該当する数は膨大なものになるでしょう。情け無いことと思います。


しかし、大新聞では「大阪地検、無実の中国人女性を起訴」としています。
「無実」なんですね。

えっ、無実ってなんのこと?

じゃあ、妻に裏切られた前の夫はどうなるのでしょうか?妻の不貞の結果、産まれた違う男性の子を、自分の子として戸籍に入れなければならないのです。

その上、大新聞には「無実の中国人女性」と書き立てられる。

いったいどうなっているのですかね???前夫の立場と気持ちを記者は考えたことがあるのでしょうか? 浮気での過ちであったとすれば、男性側より女性に責任が被せられる…それはいつの時代にもある不平等ですが。

しかし、記事自体に問題はありません。それは民法の不備によるものだからです。
この旧い法律に、おかしな規定が残っていたからです。




民法の「父子認定」を改正を 超党派国会議員が勉強会 - 共同通信(18時28分)

民法離婚後規定:裁判で認められても戸籍に「前夫の名」

 「離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子」とする民法772条の規定をめぐり、裁判の末にようやく今の夫の子とした場合でも、子供の戸籍に前夫の名前が記される。戸籍法が記載を義務づけているからだが、親たちは「なぜ、子供には無関係の前夫の名が付いて回るのか」と見直しを求めている。【工藤哲】


世界の中でどの国がこんなヘンテコリンな法律を作っているのでしょうか?

こちらはじつにお気の毒な女性のケースです。離婚後281日目の出産といいますが、今の夫を父親とする出生届は役所に受理されなかったのです。


「 東京都目黒区の会社員の女性(38)は02年3月13日に前夫と離婚。この年の9月30日に再婚し、12月19日に双子の女児を出産した。半月ほどの早産だったこともあり、離婚後281日目の出産で、今の夫を父親とする出生届は役所に受理されなかった。

 女性は前夫に「嫡出子否認」の手続きを取ってもらう承諾を得て、前夫と子供に親子関係がないことを証明するDNA鑑定を実施。家庭裁判所の調停を経て、約3カ月後に今の夫の子として戸籍登録した。」

ところが、戸籍は別のものになっていたのです。民法が勝手に日本国民の人権を左右していたのでした。

「 裁判結果が戸籍に記載されていると気づくのは、04年夏。海外旅行のため、1歳半になった娘2人の旅券を申請しようと取り寄せた戸籍謄本に嫡出子否認の裁判の確定とその日付、前夫の名前が記されていた。

 戸籍法の施行規則は、民法772条の規定を裁判(嫡出子否認や親子関係不存在確認)で覆した場合、その手続きと前夫の名前を記すとしている。法務省によると、本籍地を移したり、役所の電算化などで新しい戸籍になれば記載は消えるが、削除されたわけではないので戸籍をたどれば確認される。」


 一方、法務省は前夫の名前を明記するのは「前夫の子ではないことを明確に示すため」としている。

毎日新聞 2007年2月3日 15時00分


どうもわかった様なわからないようなお役所の答弁ですね。

でも、大新聞の記事にも、同じことを感じてしまうのです。。。。。






by tsubakiwabisuke | 2007-02-17 14:31 | ニュース
2007年 02月 16日

能の離見(りけん)の見 隣国の記者

世阿弥は「花鏡」に、客観ということを説いています。
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西洋哲学よりも早く、こうした思想が日本にあった事実を知っておく必要がございましょう。

「見所(観客)より見る所の風姿は、我が離見なり。 ……離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。 その時は、我が姿を見得するなり。」

「離見の見にて、見所同見となりて、不及目(ふぎょうもく)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。」(不及目(ふぎょうもく)とは、肉眼の届かないという意味)


古文はかた苦しいので苦手だと仰らないでくださいませ。簡単にいえば、能を舞うときに観客の目が自分を見ている、その客席の「見」をもって自分の姿を感得することが大切ということでしょうか。

ここにお隣の韓国で中堅の記者が、日本の能から『離見の見』というテーマで日韓の政局を記事にしています。この記者さんはいわゆる反日の記事とは違う、きわめてクールなものの見方をする方です。これまでも私は二度ほど記事を紹介しています。



韓国 朝鮮日報/


【コラム】「離見」の目に映る韓国の姿(上)

「離見の見」とは、日本の伝統芸能、「能」における演技の極みを指す。これは「心の目」によって、自身の姿を客席から眺めることを意味する言葉だ。他人の立場で他人を理解する「易地思之」よりもさらに一歩進んだ境地と言える。そこでこの「離見」の姿勢を借り、さまざまな想像をしてみれば、韓国人の自画像を描くのに大いに役に立つのではないかというのが、今回の趣旨だ。


【コラム】「離見」の目に映る韓国の姿(下)


日本では今でも4万人余りの韓国人が不法滞在を犯している。そして毎年8000人余りが収容所を経て韓国に強制送還されている。日本で、韓国は不法滞在者数の第1位(2位は中国)、強制送還処分の数でも第2位(1位は中国)だ。金を稼ぐことを目的に来日する技術者の数でも、中国、ネパール、インドに続いて第4位につけている。相変わらず多くの韓国人が日本で日本人の足をマッサージし、日本人の体を洗っている。


もし韓国人が中国人労働者を扱うような態度で、日本人が韓国人労働者を扱ったとしたら、われわれはどれほど悲しみ、怒りを覚えるだろうか。


われわれには決して、他人を見くびるような資格はない。他人を軽視すれば、それがいつどこで自分にはね返ってくるか分からない。それなのに韓国人は自分自身についてあまりにも知らなすぎる。われわれが行う言動がどんな恨みを買い、どんな結果をもたらすのか、無関心過ぎる。遠い客席から見れば、われわれの言動など大根役者の大仰な演技に過ぎないかもしれないという省察が決定的に欠けているのだ。

 「離見」の目に映る韓国の姿に、記者は次第に恐ろしさすら感じてしまった。


鮮于鉦(ソンウ・ジョン)=東京特派員

朝鮮日報/朝鮮日報JNS




日本人が見ても、この記事は説得力があるとお思いになりませんか。

私は昨今の日本のマスメデアにはもひとつといった醒めた気持ちをもっています。視聴率のみを重視し、世の中の啓蒙といった使命をどこかに置き忘れているのではないだろうか、と思うことがしばしばです。

隣国との関係は国家がからむと、私達の市民感情とは別の硬直した展開になります。
しかし、こうした良質の記事を読みますと、まだまだ未来があり、希望があるように思えてきますね。

画像を探しましたが適当なのがありませんので、旧年のスナップを一枚挿入しておきます。







by tsubakiwabisuke | 2007-02-16 01:04 | ニュース
2007年 02月 08日

Kさんより「白薔薇100本と赤ワイン」?

岡崎といいますと、徳川家康公が生誕して後の江戸幕府の礎を築いた「三河武士」発祥の地であることは、誰しも異存ないことと思います。

糟谷銑司(かすやせんじ)さんのサイトには、東海道五十三次の浮世絵・岡崎の絵がいい景色となって訪問客を迎えてくれます。

人は年輪が増えるごとに望郷の思いが強くなるといいますが、いやぁ、立派なトップページです。エッセイはなかなか読み応えのある硬派のサイトと見ました。

このたびエキサイトブログ3周年記念の一環として読者からトラックバックを募集しています。
私は糟谷銑司(かすやせんじ)さんを選びました。

エキサイトさん、3周年おめでとうございます!毎日お世話さまでございます。

ところで糟谷さん、ホストである筈のご亭主が、あ、すみません、茶道のほうでは席主をこう呼ぶものですからつい…。

ご亭主の装束がですね、ちょっと不釣合いではございませんか。ハンチングをかぶっておられるのは一向に構いませんが、洋服は浮世絵といかにも不釣合いなのでございます。

鷹匠のような堂々たる、しかも小粋な姿であってほしいと、ほんの一瞬思いました(笑)。

岡崎は、私ども茶道に携る者には忘れることの出来ない土地柄でございます。
裏千家中興の祖と尊敬されている第十一代玄々斎精中のお生まれになった由緒ある地であること。

拙サイトに少々そのことに触れている箇所がございますので、一部抜粋いたしましょう。



精中忌 たむけの七事式と けいこ場席

詳細は 僭越ながら わびすけの日記から

裏千家十一代玄々斎精中(1810~1877)は、 幕末から明治の変動の時代に、「茶道は遊芸にあらず」とし、「忠孝五道を精励し」「貴賎衆人親疎の隔てなく交会」するものとして『茶道の源意』を書いているひとであるが、今日庵のみならずひろく茶道界に偉業を成し遂げた宗匠であった。
外国人を迎えるための椅子式の茶礼を創案したのも玄々斎である。

 もとは三河領主の松平家に生まれ、10歳で裏千家十代認得斎の養子として迎えられたという。
わずか10歳で実の母とも別れ他家に入った少年の胸中はいかばかりであっただろう。
それを救ったのは養母となった認得斎夫人の愛情とすぐれた教育であった。

 漢学をはじめとしてあらゆる学問・教養を学び、身につけた玄々斎は17歳で裏千家十一代当主となる。
今では考えられないようなことではなかろうか。よき人びとの広範な輪にも恵まれた。

 尾張徳川家、なかでも十二代の斉荘(なりたか)は、この玄々斎精中宗室に茶道を学んだ。
ともに同年齢であったという。友人であり師弟でもあったふたりには茶道を媒介として深い信頼関係があったようだ。

 さて、こうした玄々斎精中という裏千家中興の祖と他の歴代宗匠をおまつりし、供養する毎歳忌が今日の精中忌なのである。
 宗家において神聖な座敷である咄々斎、その八畳の間で七事式という協働の点前をご奉仕させていただく。
 いつものことながら緊張と感激の瞬間である。(*1で短冊雑を手に朗詠しているのが私。)
                     



たった一人の当選者へのプレゼント、白薔薇100本と赤ワイン」をお考えになったのは、正解だったと思います。素材は西洋風ですが、紅白という取り合わせは日本の伝統的な年祝いにふさわしいものだからです。

ひそかに当選を期待するものでございます(^。^)。
まあ、ダメモトという気持ちでおりますのでご安心をくださいませ。





by tsubakiwabisuke | 2007-02-08 17:57 | ニュース
2007年 01月 22日

著作権を放棄したメアリーの詩 「千の風になって」

或るクラッシックの歌曲がいま国民的なヒット曲になっています。

ご存知、「千の風になって」という歌曲、秋川雅史さんが歌っています。

http://www.youtube.com/watch?v=gDMtEIse1eI&mode=related&search=

昨年暮、紅白歌合戦をたまたま見ていましたら、ありましたありました!
う~~ん、よかったですねえ。聞き惚れましたよ。
秋川さんの風姿も、すばらしい歌声とあいまってとても爽やかです。

この曲はNHKの番組では作者不詳となっていましたが、それは事実ではありませんでした。

東京新聞の放送芸能 のカテゴリにもこうした記事が掲載されています。

英語原詩で作者不詳『千の風になって』 喪失の悲しみ癒やす

記者の山田晴子さんは記事を次のような言葉で結んでいます。

「原詩も、世界中で読み継がれてきた。米中枢同時テロで亡くなった十一歳の少女の一周忌で朗読され、IRA(アイルランド共和軍)のテロで命を落とした二十四歳の青年が「私が死んだときに開封してください」と両親に託した手紙の中にも、この詩が入っていた。

 昨年十一月にはNHKの衛星ハイビジョンで、詩が広く知れ渡った軌跡などをたどる「千の風になって」の特集が放送された(12月にNHK総合でも放送)。番組では、女優の木村多江をナビゲーターに、世界中の人々が「千の風になって」を通じて、身近な人の死をどう受け止めてきたのかを、詩の朗読や曲を合間に流しながら紹介。電話などで寄せられた感想が千件を超える反響だったという。NHKは二十五日、衛星ハイビジョンで午前十時から再放送する。

 番組担当の山本展也チーフプロデューサーは「死をどうやって受け止めたらいいのか、この歌は、その方向性を示してくれる存在。この歌を求めている人たちがまだまだたくさんいると思う」とブームのさらなる広がりを予測している。」


しかし、ネットからは更に貴重な情報を得ることができました。『千の風になって』は作者不詳ではないとの確かな記録があったのです。

「千の風になって」の詩の原作者について 執筆:オーママミア Quinn


この詩を書いたのは、メアリー・フライというアメリカ人の女性でした。
メアリーの地元ラジオ局でのインタビューより

「メアリー・フライは家庭的で、常識があり快活な94歳のようだ。

これはメアリーが自身の言葉で語った親友マーガレット・シュワルツコフ(Margaret Schwarzkopf)の事である。

時は1932年に遡る──

「そうね、マーガレット(ドイツ系ユダヤ人)はドイツから来たの。ちょうどヒットラーが政権を取ってね、お母様も国外に出たかったんだけど、老齢の上、具合も悪くて来れなかったのよ。彼女はそれこそ何時もお母様の事を心配していたわ。何しろ全然手紙が来ないのよ、だから日ごとに心配を募らせていたわ。

私たち大使館を通してできる限りのことをしたわ。わかるでしょ? その手の事って。ようやく事が判明したんだけど、お母様は亡くなってたの。それで、マーガレットは実際に神経衰弱を患ってただ泣くばかり。毎日、毎日泣き暮らしていたわ。

ある日一緒に買い物に出たの、茶色の紙袋に買ったものを入れて、家のキッチンテーブルで仕分けをしていたのよ。そしたらね、何だか分からないけど、私の買ったものを見てマーガレットが泣き出したの。「それ、私の母が好きだったの。」ってね。

「マーガレット、お願いだから泣かないで。」っていったの。そうしたらマーガレットがね、「何が一番悲しいかって、私は母の墓標の前に立ってさよならを告げる事も出来ないのよ( I never had the chance to stand at my mother's grave and say goodbye.)。」涙に目をぬらしたまま、2階の自室にひきこもったわ。

(注;ドイツの情勢が反ユダヤ人に向かっており、帰れる状況ではなかった。)

その時メアリーの手には、買物を点検するためのペンが握られていた。メアリーは、引きちぎった茶色の買物袋に、一息に込み上げる詩を書き付けた。

しばらくして、落ち着きを取り戻したマーガレットが階下に下りてきたとき、メアリーはマーガレットに紙切れを差し出した。「これ、私が書いた詩なの。私の思う〝人の生と死のあり方〟なの。あなたのためになるかどうか分からないけど。」

マーガレットは詩を一読し、メアリーを抱きしめて言った。「私この詩を一生大切にするわ。」そして、もう泣く事は無かった。」



インタビューのテープの中で、何故メアリーの詩がここまで愛されるに至ったか、彼女が本当に困惑している様子が伺えます。

そして、明らかになった事実は、この詩になんら著作権が設定されていない事です。この詩が人々の共有財産であるため、彼女は一銭の報酬も受けていないのです。

この件についてメアリーは、次のように話しています。

「この詩は私だけのものじゃないの、皆のものよ。今でもそう思うの。これは、愛や安らぎについて書いたのよ、もし私がお金を受け取ったりしたら、意味が無くなるわ・・・。多分、いかれてるんでしょうね。」

ドイツからこの詩の原文を見たお友だちの方がこう述べています。

歌を聴いた時に少し感じた違和感も1932年にメアリーが書いたオリジナルバージョンを読むと、スッと気持ちの中に入ってきました。


Do not stand at my greave and weep
        Words by Mary Frye

Do not stand at my grave and weep
I am not there, I do not sleep
I am in a thousand winds that blow
I am the softly falling snow
I am the gentle showers of rain
I am the fields of ripening grain
I am in the morning hush
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight
I am the starshine of the night
I am in the flowers that bloom
I am in a quiet room
I am in the birds that sing
I am in the each lovely thing
Do not stand at my grave and cry
I am not there I do not die


千の風になって
オーママミア訳詞

私の墓標の前で泣かないで
私はそこにいないのだから 私は眠ってなんかいない
私は千の風になって渡ってゆく
私はやわらかく 舞い降りる雪
私は優しく降り注ぐ雨
私は野に実る穂
私は朝の静寂の中に
私は水辺にたなびく灯心草
空を旋回する美しい鳥たちとともに

私は夜空の星の光
私は咲き誇る花たちとともに
私は静かな部屋の中に
私は歌う鳥たちとともに
私は全ての素晴らしいものとともにあるの
だから、私の墓標の前でなかないで
私はそこにいないの 私は死んではいないのだから




オーママミア Quinn 様。
JanJanの記者をなさっていた木走(きばしり)様。
ドイツのがんばるHiromba。様。

参考にさせていただきました。ありがとうございます。


◇◇◇


反響 この記事を読んで

ミクシイで私が管理しているコミュがあります。いつの間にか6千300人近い会員数になり会員同士のコメントも活発に行われています。その一部をここでご披露いたしましょう。

☆がんばるHiromba。  2007年01月21日

わびすけさん
こちらではご無沙汰しています ドイツ在住のがんばるHiromba。です。

素晴らしい歌のご紹介ありがとうございました。

国内では分らないと思いますが、ご紹介戴いたアドレス・・・「お客様がお使いのIPアドレスは、国内のIPアドレスではございませんので、ご利用いただけません。」という表示が出てしまいますので(^_^;) 下記、ご紹介。

http://www.youtube.com/watch?v=gDMtEIse1eI&mode=related&search=

こちらは海外からでも視聴できます。

番組では作者不詳となっていますが、わびすけさんの紹介されたサイトも素晴らしいですね。

歌を聴いた時に少し感じた違和感も1932年にメアリーが書いたオリジナルバージョンを読むと、スッと気持ちの中に入ってきました。

☆ハレのはは  2007年01月22日

私もこの曲を聴いたとき少し違和感を感じました。
それは、歌手の映像と一緒にTVの画面に流れる「墓」とか「死」など目に飛び込んでくる「漢字」のせいだと今思います。

翻訳の曲を作る時、日本語の歌詞はどうしても短くそぎ落とさなければならなくなるので、しょうがないですね。
オリジナルの詩と翻訳は本当に素敵ですね。
特に英語の詩は美しく韻を踏んでいて、口に出して読むと曲がついていなくても充分美しいですね。

原文を教えていただきありがとうございました。

けれども、日本語の歌も、それはそれでメロディーも歌詞も、シンプルで美しく私は好きです。

この歌に携わった全ての方達の暖かい思いが詰まっているように思えます。

☆わびすけ 2007年01月22日

ルソンさんはお出かけのようですね。
皆さま、コメントうれしく拝見しております。

ただ今、拙ブログを更新したところです。
はい、ここでの話し合いのもようも一部入れてますけれど、著作権を厳しくいう方々ではないので安心してま~~す。

2007年1月22日 (月) 著作権を放棄したメアリーの詩 「千の風になって」
http://tsubakiwabisuke.cocolog-nifty.com/rendezvous/

http://rendezvou.exblog.jp/

いかがでしょう?


☆ルソン 01月22日

○がんばるHiromba。様へ
ドイツでこの問題は,現在もタブーになっていると思われます。が,意外と旧東ヨーロッパの人たちではユダヤ人への迫害が残ったままだったように記憶しています(1994年時点)。

大陸国家にとって民族同志の戦いは,常に大きな悲劇を生むでしょうから,いつまでたっても解決できない問題なのだと想像しています。その意味では昨今のEUの東方への拡大によって90年代の旧ユーゴスラビアの悲劇を避けることが可能になれば良いと日本から希望を持ってみています。

それにしても,故郷を追われて数千年たつユダヤ民族達がいまだに故郷を見つけられないというのは,悲劇としか言いようがありません。

○ハレのはは様へ
言葉の訳は,本当に難しいと思います。そもそも発想が違ったりするからです。その上,同じ英語でも英国の英語と米国の英語では違った使い方をし,そのまま読むと間違った解釈をしてしまったりします。これは,その国の文化や成り立ち,社会背景の違いなどが影響するからです。でもそうした文化の違いを理解してわかると新たな世界を知ることが出来るので楽しいですね。

○わびすけ様へ
だいぶ最初の問題提起からそれてしまってすみません。わびすけ様の指摘された「人の情けであり大自然の美しさ」は,どこの国に行っても私にとって大切なものです。ほとんどの場合,「再会することがまずない」という条件での交流になります。まさに,「一期一会」です。

そのことは,帰国して茶道を知ることによってより実感しました。具体的には,これまで海外で感じた「一期一会」を茶室で知ることによって,「人の情けであり大自然の美しさ」をさらに深く感じることができました。特に,昨年夏に訪れたフィリピンの調査先の皆様に"Don’t' forget me!"(私のことを忘れないで)と言われたことが懐かしいです。

とはいえ,世の中便利になり,インターネットでやりとりをしている友人達の交流も長い友人で10年以上になりました。国は違えど,同じ時代を一緒に成長するので楽しいです。







by tsubakiwabisuke | 2007-01-22 13:41 | ニュース