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2006年 10月 29日

今日庵・炉開きの日

       

数年前に撮影した画像

   
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こちらも数年前。開炉の日のご宗家・咄々斎



毎年、10月29日が今日庵では炉開きとなっています。

ことしも茶人の正月といわれるこの日に、健康な身体で参上できたことの仕合せを噛みしめているところです。

午前11時ころ、ご宗家の兜門(かぶともん)を辞去して帰宅しました。9時からのそのひと時を思い返しますと、

鵬雲斎大宗匠と坐忘斎家元とお二人が咄々斎(とつとつさい)の床を背にしてお坐りになり、ご挨拶がありました。

例年この日は宗家のお火焚きの伝統のまつりが行われますので、私どもの稽古は無く、ぜんざいと濃茶を頂戴しました。

点前は倉斗業躰。半東は長老の寺西業躰。そのお話もいつものようにひょうひょうとしたもの。

「毎年、道具は同じ。違うのは点前だけ。」

床の掛け物、 「閑適 開門多落葉」
花、 はしばみ、椿

茶入れ  淡々斎銘 「松島」  瀬戸
茶杓  昨年まではずっと一燈さんの「口切」でしたが、ことしは淡々斎「千歳」でした。


一昨年にはお家元がお出ましになっています。
そういえば、点前は毎年かわりますね。この写真はご存知、後藤業躰でした。

    
2004年宗家開炉の日に撮影。


上の写真はいつかの天龍寺献茶式(拙サイト)のなかに出てまいります。








by tsubakiwabisuke | 2006-10-29 13:35 | 京都
2006年 10月 26日

カミーユクローデルが製作した兄・ポールクローデルの胸像



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ご宗家のお稽古が終わってから左京区の日仏会館へ。

ポールクローデルとカミーユクローデルに関する本を探すためもありましたが、じつは待合わせていた人がありました。

パリから里帰りしているcoco-yukoさん。

オメデタのようですが黒いワンピースがシックでよくお似合いでした。

その画像を拙サイトの表紙に入れました。PCのルーターが故障してしばらくネットとはご無沙汰でしたが、ようやく復旧しましたので。

おけいこはのことも書くつもりでしたが、それは明日にして今夜は画像だけにしておきます。

もうご覧くださった方もおありかもしれませんが、私のスライドショーをここでもお知らせいたしますね。

スライドショー平安神宮から京大正門前 ポールクローデル
・メディアテーク小川通り本法寺 裏千家兜門






by tsubakiwabisuke | 2006-10-26 01:29 | 京都
2006年 10月 20日

平安神宮 貴賓館での今日庵席

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平安神宮といえば、時代祭りという印象が強いようです。寺院の場合は開山忌というものがあり、誰でもわかるのですが、神社の場合は???

茶道でも、その謂れを聞かれるとすんなりと応えられる人は少ないのです。昨年は桓武天皇の1200年記念大祭が京都市の一大イベントとして行われましたよね。


昨年の4月19日に私はお友達のカトリック修道女のCさんとご一緒に平安神宮へまいりました。桓武天皇の1200年記念大祭の奉納献茶式がお家元の奉仕により行われたのでした。


今でもおかしく思い出されるのは、直門の代表役員とでもいえる80歳近い方がいわれた言葉。
「桓武天皇1200年いうても誕生から数えるのか、亡くならはってからか、はっきりせんわ。」

学術経験者として自他共に認めるお方ですから皆が頷いたのはまあ自然の流れだったのです。そういえば、こちらも社寺のパンフレットをもらっても丁寧に読んだことはあまりなっかたですわ、はい。

簡単にいいますと平安神宮とは次のようでございますよ。


京都市民の氏神


○1895年(明治28年)に平安遷都1100年を記念して、平安京遷都当時の天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創建された。

○皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。

つまり、仏教寺院の本尊に当たる「祭神」は、お二方ということなのですね。


桓武天皇(かんむてんのう,737~806) 第50代。

孝明天皇(こうめいてんのう,1831~66) 第121代。(明治天皇の父)。


御 鎮 座

○桓武天皇 1895年(明治28年)3月15日御鎮座。毎年行われる例祭となる。

○皇紀2600年に当る、昭和15年10月19日 皇紀2600年を記念して孝明天皇御奉祀。


ということのようで、どうも生死に関わる日付ではなく、ご神霊が「 鎮 座」されたという神事です。分かったような分からないようなといったところが宗教なのでしょうね。1200年の数字は平安遷都にかかるので仏教寺院の開山忌とは異なりるわけです。

○また創建を記念して平安京遷都の日である10月22日に時代祭が行われるようになったのでした。


~~~~~~~~~~~~~


今回今日庵席として使用された貴賓館は、修復の工事が完成した見事な大書院でした。このような由緒あるお席へ業躰先生のどうぞ正客にとすすめられるまま、坐ってしまい勿体ないことでした。

床は不見斎の大横もの。亀鶴寿延集の語がまことに堂々としています。

香合は乾漆。唐墨を形どったもの。

花がすっきりと立つ白貴船菊。その下に小海老草

花入れは紅毛。オランダの染付けといいましても柄は中国風。
花入をはじめお家元がすべて道具組を考えられたとか。なんといっても洗練された品格があります。

花はどなたがお入れになりましたかとぶしつけに申し上げましたら、土本先生とのことでした。
つい先刻、貴賓館の待合の前に置かれた床机で、3席も客に待たせるのはどうしたことですか、と土本業躰に文句を言ったわたくしだったのに…。

「私は関与してないよ。」と笑ってそのまま去っていかれたのを思い浮かべ、可笑しくなりましたよ。まあ、いい花が入っていたのでご破算ということでしょう(笑)。

半東に出られたのは町田師。同性の方が宗家にふたりいらっしゃいましてこちらは白髪でない、お若い黒髪の方。

親しみやすい上によく勉強をされていて、声もよく通り広間の隅々まで話が聞こえたと思います。これは大切なことですね。ありがとうございました。

点前は、以前お玄関に道具係りをしていらした角(すみ)さん。武骨といったらいいでしょうか、がっしりとした体格でぼくとつな印象を受ける方。軟弱な青年があふれている昨今、漱石の三四郎を思わせる若い男性の点前は、好ましく感じました。

でも、客不足といったところが正解でしたでしょうね。ごめんなさい。


主茶碗が一燈箱、黒楽。銘「ふじ」。
もう一つは古萩で、銘「州浜(すはま)」

この取り合わせの妙。雄大な富士山。それは海のなかにある日本という国。美しい砂浜がかすかな音色を響かせる山紫水明の国でありました、、、、。

もう言葉はいりません。美味しい薄茶をいただきました。

お菓子は栗の形で老松製。銘が「秋の声」と聞きました。
ちょっとけったいやなあ、と一瞬思ったのも正直なところでした。
天の声にも時には変なのがある、とは或る政治家のはなしでしたねえ(笑)。








by tsubakiwabisuke | 2006-10-20 23:38 | 京都
2006年 10月 04日

IT新聞今日の掲載記事 紫式部と娘・大弐三位


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10・4 JanJan  怨霊 の 『源氏供養』


約2ヶ月くらいは内容の構成を考えていたもので、ブログにも少し書いておりました。

さて、スライドショーを作成したことも今回の記事にはリンクを入れています。

ここには、あらためて書いておきましょう。

10・2U スライドショー 紫式部 と 小野篁(おののたかむら)

それからもう一つ、翻訳になりますがこちらです。

new ユネスコが紹介する世界遺産 源氏物語




上の画像は紫式部と、むすめである大弐三位(だいにのさんみ)の歌が彫られている歌碑です。

母にも劣らぬ才媛であったという大弐三位について、ここに書いておきますね。


百人一首のなかの歌

ありま山 ゐなの笹原 風ふけば いでそよ人を 忘れやはする 
                                     大弐三位  

意味:
「有馬山の猪名の笹原に風が吹けば、笹の葉がそよそよと音をたてるでしょう。
それと同じで、あたり前の事を疑わないでください。
私が貴方の事を忘れるはずがないでしょう、けっして貴方以外の男を愛したりはできないのです。」
http://members.at.infoseek.co.jp/senma/uta058.htm



大弐三位(だいにのさんみ)、長保元年(999年)頃? -永保二年(1082年)頃?)は、平安中期の女流歌人。藤原宣孝の女、母は紫式部。本名は藤原賢子(ふじわら の かたいこ・けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれる。


長保三年(1001年)3歳ごろ父と死別。長和六年(1017年)18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕。当時は祖父の任国の越後国と官名をとって越後弁と呼ばれた。この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったことが知られている。その後、関白藤原道兼の次男兼隆と結婚、一女をもうけた。万寿二年(1025年)、親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられた。


長暦元年(1037年)までの間に東宮権大進高階成章と再婚、同二年(1038年)為家を生む。天喜二年(1054年)後冷泉天皇の即位とともに従三位(じゅさんみ)に昇叙、夫成章も太宰大弐に就任した。大弐三位はこの官位と夫の官名に由来する。


この間、長元元年(1028年)「上東門院菊合」、永承四年(1049年)「内裏歌合」、同五年(1050年)「祐子内親王家歌合」など多くの歌合で歌を詠んでいる。承暦二年(1078年)には80歳近い高齢で「内裏後番歌合」に出席し、子為家の代詠をつとめている。


家集『大弐三位集』(一名『藤三位集』)がある。『後拾遺和歌集』に37首入集。また、「小倉百人一首」に「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ 人を忘れやはする」が採用されている。

『源氏物語』宇治十帖や『狭衣物語』の作者と掲げられることがあるが、真偽は定かではない。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



この伝記の解説によれば、一人の男の子と一人の女の子を産んでいます。
その後その子たちはどうなったのでしょうか?


この二日が、桐蔭会10月例会で行ってまいりました。
その茶会記のことなどもブログに書きかけたまま中断してしまいました。

なにやかや次から次へと用事をしなければなりません。中宮寺のダクちゃんからもたくさん写真がきておりますし、そのうちと思っていますから今しばらくお待ちくださいませ。






by tsubakiwabisuke | 2006-10-04 14:39 | 京都
2006年 10月 01日

怨霊の『源氏供養』 ムラサキシキブの揺れる墓所 




京都市内堀川通りをまっすぐ北へ上がると鞍馬口辺りに島津製作所があります。その一角に目立たない小さな石碑と標識があるのを、道ゆく人々は案外気付かずに通りすぎて行きます。


いにしえの京の埋葬の地

『拾遺都名所図会』という文献には、此処がいにしえの埋葬地であったことが書かれています。

「大宮〔紫野北にあり、祭る所神秘なり、加茂に属す。大宮森、同所神木をいふ〕小野の篁たかむらの塚〔紫野雲林院卯辰の方二町ばかり畠のあひだにあり〕紫式部の塚〔篁塚の西なり、上に榎あり〕○花鳥余情曰、紫式部墓所は、雲林院の末院白毫院南、小野のたかむらが墓の西にあり。」

 また、式部の信仰についても興味深い記載があるのです。

「式部は檀那院僧正の許可を蒙りて、天台一心三観の血脈に入れり、兼てより雲林院の幽閉をしめけるも旁ゆへあるにや。」

はるか平安時代に思いを馳せながら、舗道から小さな墓所の入り口の前に立ちました。


 紫式部墓所、そう自然石に横に彫られた記念碑。小野篁卿墓と刻まれた縦長の石の標識。墓所へ通じる路も殺風景ではありますが清掃されており、奥まった場所にはなぜか尋常ではない雰囲気が漂っています。

「むらさきしきぶ」と「おののたかむら」の二つの墳墓が目に入ります。元のすがたを写したと思われる土の小山が離れ離れにあり、その頂上に五輪塔のごく小さな墓が見えます。墓標である供養塔が二つ西に紫式部、東に小野篁と並んでいるのです。

 私はしゃがむようにして礼拝。掌を合わせました。そしてふと、この両者にどのような繋がりがあるのだろか?と感じました。不審に思われる方はきっと少なくないことでしょう。

 もしかして秘めた恋人だったのでは?でも、そうした話はこれまで聞きませんね。はっきりしているのは、紫式部も小野篁も、藤原定家編『小倉百人一首』に、共に和歌が入選していることです。


小倉百人一首のなかに


「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」
                       
                    紫式部

                       
「わたの原八十島かけて漕き出でぬと 人には告げよあまのつりぶね」

                    参議篁

小野篁の歌について。
 「詞書「隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける」 承和五年(838年)、隠岐国流罪のときの歌。」


 流罪になったのは遣唐使制度を批判し、嵯峨天皇の逆鱗に触れてのことでしたが、まもなく許されて京に戻り従三位参議となります。

 小野篁一族は、よくミステリアスな家系だといわれています。たかむらは遣隋使を務めた小野妹子の子孫。孫には三筆の一人小野道風がいますし、小野小町も孫になるとか…。

 百人一首のなかで小野小町が9番目に、参議篁(小野篁)は11番目にあります 。参議篁という名で書かれているのは参議の位というより紛らわしさを避ける意味があったと思われます。ちなみに紫式部 は57番になっています。


 しかし、紫式部があのように自由な筆致で物語を著したことで、当時の日本の社会がすんなり受け容れたのでしょうか?現代でさえ数々のタブーがあり、ありとあらゆる批判が捲き起こるのです。そのことをかねてより疑問に思っていたのでした。


『源氏物語』の作者紫式部への批判と擁護


 しかし、私はこの墓所に接してはじめてその事情を知らされました。紫式部は大罪人だという批判があり、地獄に墜ちた人間だとされたのです。王朝貴族の時代、式部が生きていた間はそうでもなかったようですが、平安時代が終り武士の世の中となった鎌倉初期にはガラリと変わります。
 
 紫式部が狂言綺語の罪、愛欲を描いた咎でで地獄に落ちたという説が広まりました。鎌倉時代『往生要集』の影響が考えられるところです。
 ただ、日本の社会のいいところは、捨てる神あれば拾う神あり。紫式部の救済のためにいわゆる「源氏供養」が行われたのです。

 
 その『源氏供養』は謡曲に描かれています。夢幻能。世阿弥作。一説に金春禅竹作。ストーリーを簡単にいえば次のようになります。

 「安居院(あごい)の法師が石山寺へ行く途中、里女に呼びとめられ「源氏物語」について問答しのあと、 光源氏の供養を頼み消え失せる。法師は女が紫式部の霊だと悟り、光源氏と式部の供養をしていると、 式部の霊が現われ舞を舞い、「源氏物語」の巻の題を織り込みながら、世の無常と弥陀の導きを願い 願文を渡して光源氏の回向を共にする。」

 そうして最後の場面は一転して、式部がじつは観音の化身であるという救済の結末になっています。まさに心ときめくクライマックスですね。

「やがて法師は式部が石山観音の化身であることを悟り、 「源氏物語」もこの世が夢であることを知らしめるためのものであったと知る。」

http://www.noh-kyogen.com/story/ka/genjikuyou.html


小野篁の神通力

 能楽の脚色では地獄から救われたものの、それで万事収まったわけではありません。人をたぶらかす悪行がもの書きの肩書きのように規定されていたのですから、式部が地獄に落とされたという噂はまことしやかに伝播されたのです。

 そこで地獄の閻魔大王の補佐官といわれる小野篁の登場となるのです。地獄で苦しんでいる式部を救出できるのは、閻魔に顔がきく彼を措いてはあり得ないというわけです。
 
 野相公(やそうしょう)、野宰相(やさいしょう)と もよばれた彼は六尺二寸(188センチ)の長身。文人貴族の偉丈夫であり反骨の政治家であったのです。彼にまつわる奇怪な伝説は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたというもの。まるでアニメを見ている心地ですね。

 京都市内の六道珍皇寺ろくどうちんこうじ境内の閻魔堂には、閻魔大王と篁の木像が並んでいるとか、私はまだ見ていませんが(笑)。
 寺の裏には篁が冥界へ通ったという井戸。この井戸から毎晩閻魔の庁へ出かけ、裁判を手伝っていたそうです。そして、嵯峨の清涼寺横の薬師寺境内の井戸(生の六道)から、この世に戻って来たといいます。

 歴史上の数々の文献が残っていますが、いやぁ~、よく考えたものです。実際、千本閻魔堂の開基は小野篁なのです。本尊が閻魔大王ときていますから、もう~感心するばかりですね。





by tsubakiwabisuke | 2006-10-01 19:55 | 京都
2006年 09月 13日

秋風 袴のほころび Gパンの破れ


秋風に ほころびぬらし 藤袴(ふじばかま)
                           つづりさせてふ きりぎりす鳴く

                                    在原 棟梁(むねやな)

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Photo by.Atsushi Yamamoto


秋風に藤袴の花がほころびたようだ。

こほろぎは「つづりさせ、つづりさせ」と鳴いている。


◇◇◇

この歌を、岩波の『日本古典文学体系』のなかから探したのは、もう随分前のことです。

淡々斎の茶杓で 歌銘 秋風 というものがありました。

写真をお見せできなくて残念ですが、淡々斎の流麗なかな文字も竹の質もいい品。 

 箱には、 「古歌に」 という但し書きがあり、筒に上の和歌が書かれているのです。

もちろん 作者名は書かれていません。

作者を知りたいと思った私は、古今集に在原の棟梁(むねやな)という作者の名をみつけ、安堵したのを覚えています。

「在原むねやな・・・在原棟梁。業平の子。清和・陽成・光孝・宇多・醍醐の五代に仕え東宮舎人から十五位上筑前守にいたる。三十六歌仙の一人。古今には4首入集。」


◇◇◇

きりぎりすは今のこうろぎのことです。

「つづりさせてふ」、というのはこうろぎの鳴き方ですが、縫いがほころんだ袴にかけて歌うところがなかなか面白いのです。

秋の七草のひとつである藤袴の花。ほころんだというのは花がひらく形容であるとともに、ほころんだ袴を連想しているように私には思えるのです。

当時、貴族の男性が、ほころんだ袴を連想してそのほころびを縫うことを歌にするのも一興。

ツヅリサセ、ツヅリサセ、とこうろぎが鳴いているよと、女性の仕事を男性がとってかわって、裁縫を虫の音にかけて詠っているところ、今ならなんでもないでしょうが新しい男性像を思い浮かべます。

現代なら袴ではなく、さしずめGパンですかね。
ところがそれを身につける今の男性は、ほころび、破れたのを喜んでいるようですよ。
デパートにもわざわざ破れて、穴の開いたGパンがたくさん売られています。それがオシャレなんだそうですね。

もう、こうろぎがツヅリサセ、ツヅリサセ、といって鳴いても風雅な歌にはなりません。
秋風、という茶杓の「歌銘」に、ふとそんなことを思ってしまいました。


有名な「きっこ」さんのブログで虫の音が紹介されています。
こちらです。

 ★コオロギの鳴き声★





by tsubakiwabisuke | 2006-09-13 03:21 | 京都
2006年 09月 09日

ニュース性はないのでしょうか うるわしい相聞歌 

 
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和歌の宗家・冷泉家 (京都市上京区今出川通)  筆者撮影


http://www.janjan.jp/column/tsubaki/list.php

記事を投稿したのは6日の夜。それが編集部でUPされたのがなんと9日です。女系天皇論議で一時賑わっていたJanJanでしたから、こうした保守派の記事は横においておこう、となったのでしょうかね?

いや、拙稿がイマイチだったからにほかなりません。
それにしてもニュース性がまったく生かされせんわ(#^.^#)。


JanJan tsubakiコラム  古都つれづれ


今日(6日)のビッグニュースは、秋篠宮家に男児誕生。親王さまというのが正式なのでしょうが、やはり「赤ちゃん」がいいですね。ご夫妻がいみじくもお揃いで詠まれた、あの「こふのとり」のお歌を思い起こしました。


◇平成18年歌会始お題「笑み」
出典 宮内庁ホームページ
http://www.kunaicho.go.jp/utakai/utakai-h18-01.html


秋篠宮家文仁親王殿下お歌

 人々が笑みを湛へて見送りしこふのとり 今空に羽ばたく


秋篠宮家文仁親王妃紀子殿下お歌

 飛びたちて大空にまふこふのとり 仰ぎてをれば笑み栄えくる


 なんという不思議でしょうか。まさに、今日、この日本中に満ちた慶祝の「笑み」。

 「こふのとり」が、赤ちゃんを運んでくれるというユートピアの実現!


 紀子さまのしとやかな容姿をテレビで拝見しつつ、私は先のお歌を相聞歌のように声に出してうたってみました。



◇◇◇◇◇



 この間、冷泉家の七夕祭りの催しで、和歌の道を、まのあたりにした私でした。


◇ 星祭「乞巧奠」(きっこうてん)。
牽牛と織女に和歌を手向ける乞巧奠の披講(ひこう)というものが雅楽が奏でられるなかで行われました。庭からはすず虫の音。

 8月27日午後6時から始まった祭りですが、この日はちょうど陰暦のうるう年。7月4日に当たるとか。たなばたは本来秋の祭りなのだと実感しました。

 約100畳はあろうかと思える仕切りを開け放った座敷。上の間では、男女が天の川に見立てた白布を隔てて互いに向き合い、歌を詠みます。

 5組くらいのカップルの方々が男性は狩衣(かりぎぬ)姿、女性は袿袴(けいこ)姿でそれぞれ相聞歌をつくって、朗詠されておりました。


主催 財団法人冷泉家時雨亭文庫。

 冷泉家第25代目の当主である冷泉為人さんと、時雨亭文庫理事長である貴美子夫人。

 そのお二方のお歌をここに、しるします。


七夕舟(しっせきのふね)

七夕舟(兼題)

待ち待ちて一年経ちぬこの夕へ
         月の御舟よいさ急きゆけ   冷泉 為人


明けゆけば別れ悲しき帰り舟
         涙の淵を急く楫の音      冷泉 貴美子


 冷泉家は、平安時代より和歌を家業として宮廷に仕えた藤原俊成・定家の父子を祖とするお家柄です。皇室の慶事にはからずも和歌の宗家を訪ねていたことを書くことになろうとは……。
 画像を提供された松本洋さんにも感謝いたします。(写真2・3)




*****  *****


ご参考までに。
親王ご誕生の6日の夕刊 トップニュース

【夕刊JanJan】親王誕生と医師不足  2006/09/06






by tsubakiwabisuke | 2006-09-09 22:12 | 京都
2006年 08月 31日

冷泉家(れいぜいけ)の 夕べ


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座敷 上の間の床 秋草の掛け軸。


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歌びとの 横に。 右端の女性は、写真を撮られた松本洋さんの夫人。


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織姫につながる 五色の糸。



説明文は明日にでも。

…とこう書いたままで尻切れトンボになってしまいました。

冷泉家といいますと、藤原俊成・定家という鎌倉時代の歌人のご子孫。わかりやすく書きますと、漢語ではない和様の文学を創始した歌道の宗家、となりますがいかがでしょう。

中国からの輸入ものではない日本人のアイデンテテイを、たち上げた大いなる宗家…。
それはもう、たいへんな文化改革であったと思います。

冷泉家は歌学をもって朝廷に仕えましたが、維新後、明治政府からは伯爵の位を得ています。

その住宅は天明の大火後の寛政2年(1790)の建築です。
冷泉貴美子夫人にお聞きしたところでは、いまの敷地は約750坪とのことでした。


七夕の乞巧奠(きつこうてん)が行われた座敷は、上の間。私たちが見学しているところは、下の間。開け放った座敷全部は100畳はあるのではないかと私は思いました。

じつは、上の写真、訳アリなんです。
冷泉邸でごいっしょさせていただきました或るご夫妻は、東京からいらしてまして、
冷泉家第25代目のご当主冷泉為人さんと大学が同窓とか仰っておりました。

私はカメラ撮影はご遠慮してカメラそのものを持参しておりませんでした。
でも、隣席にいらした松本さんご夫妻のご好意で、乞巧奠の儀式が終了した後で、写真を撮っていただいたのです。


松本さんからのメール

「おかげさまで冷泉家で思い出に残る一日を過ごさせていただきました。数百年前にタイムスリップして高尚なお歌遊びを興味深く拝見させていただき、“雅の世界”に感嘆した次第でございます。伝統を継承するのは本当に大変なことでしょうね。やっと写真ができましたのでお送りさせていただきます。遅くなりまして申し訳ございません。
京都は大好きなまちですし、亡父のふるさとでもあります。」


松本さん有難うございました。

書き足りないことがたんとありますので、またこの続きは先にのばしますね。


参考
室町史蹟案内 冷泉家住宅
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/muromachi-s/index.html





by tsubakiwabisuke | 2006-08-31 22:45 | 京都
2006年 08月 28日

恋をうたう 冷泉家 七夕舟(しちせきのふね)

冷泉家から「乞巧奠」(きっこうてん)へのお招きをいただいてから、待ちに待った今日。午後5時半開場ということでしたが、夕立激しい雨です。  
  

藤原定家を先祖とする冷泉家、、、

非公開でここまで書きかけたまま、この日記は中断しました。とにかく冷泉家での平安時代の再現に感動いたしました。このことはあらためて記事にしたいと思います。

時間が足りませんというより、私の処理能力の欠如が原因なんです。皆さまから嬉しいコメントを頂戴してますのにそのレスも失礼したままです。
あ~~、お前さんは、まったくどうしようもないおひとや。





by tsubakiwabisuke | 2006-08-28 00:15 | 京都
2006年 08月 25日

IT新聞への掲載記事は 51回目に

JanJanに今日の掲載記事として拙稿が出ておりますのでお知らせいたします。

松山中学の勇気ある生徒たちと漱石作詩の「童謡」


今のところ、8月の掲載記事はこの程度です。
「首塚」と隣り合わせる茶席東陽坊


紫式部には家庭がありました 慮山寺(ろさんじ)源氏庭の桔梗



じつは、私が日本インターネット新聞に記事を投稿するようになったのが昨年の10月。掲載された記事を数えますと、51回目になります。

先日の「首塚」と隣り合わせる茶席東陽坊」が丁度50回目のものでした。
親しい方には数人お知らせいたしましたが、そのなかから少しご披露させていただきますね。




わびすけ さま

50本 書き上げられたとか おめでとうございます。
10ヶ月で50本、週1本はプロなみのペースです。

タイトルを改めて拝見して やはり心に落ちるのは古都
の趣をテーマにした一文でした。おおかたは生き生きと
書かれていたからです。これが わびすけさんならではの
「個性」だったのだと気づかされました。

つぎは100本です。書き続けてください。    鯰




50本掲載おめでとうございます。
タイトルを見ても、わびすけ様の博学ぶりがよくわかります。
これからもますますご精進なさって、ぜひ出版記念パーティーに
お呼びくださいませ。  
                             ぞうべ




おめでとうございます。聞きかじったり誰かが言ってたことをさも自分の意見のように表す人はたくさんいますがわびすけ先生のようにご自分の言葉であいまいでなくご自分の意見をおっしゃることはうらやましくもあり、また素晴らしいことと思います。
猫のかじられた足の指のことから私ほとんどタイムリーに読ませていただいておりましたわ(笑)。

50本が100本に200本に・・・どんどんお書きになりますよう、楽しみにいたしております。
明日から出張と少しの休暇のため出かけます。母が元気でいてくれますお陰です。
残暑厳しい毎日。ご自愛なさいますよう。そしてますますのご活躍を。  匿名希望

                                            


先生のHPがつまらないなんて、とんでもない!!
むしろ、トピックスがより幅広く、より濃い中身に進化を遂げているとおもっております。
ただ余りの先生のエネルギーあふれる書き込み量に、私などは読ませていただき、ついていくのに精一杯!!
無反応な読者をお許しください。
これからは、少しでも書き込めるよう精進いたします。    匿名希望




ちなみに最初に記事を書き、掲載されたのが以下の拙稿でした。この時の読者の応援クリックは予期しない数で驚いたものです。

2005・10・13 猫にかじられて足の指を失った記事について


椿わびすけの最新情報 2005・10・19

  朝から今日庵へお稽古に行き昼近く帰宅した。食事もそこそこにPCを
開くと「メデア インターネット新聞 JANJAN」10/19号に、私の書いた記事
が掲載されていた。
報道はどのように変わったか(椿伊津子) これは18日付けで私のブログ
には下書きのつもりでアップしたものをほぼ同じ内容で投稿したものであ
る。そのことをあらかじめ編集部にご相談したところ「ぜひ掲載させて頂
きたい。」とのことで早々と今日の新聞掲載になった。

先の第一作目の猫にかじられて足の指を失った記事については、今日の
記事ランキング TOP5になっているのを発見、驚いた。その上「オスス
メです!」の欄にも入っているので恐縮してしまった。

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先週(2005/10/11~10/18)のTOP5
1 猫にかじられて足の指を失った記事について 215point
2 「のまネコ問題」から見るマスコミのイメージ操作 144point
3 エイベックス・のまネコ問題に見る、既存メディアのインターネットへの偏見 62point
4 「日本のアジア政策を考える」シンポジウムで加藤、岡田氏ら参加 57point
5 「ID理論」擁護 にせ科学で道徳を補強する産経新聞 52point



あれから約10ヶ月 を経過したのでしょうか。最近はポイント数が激減しております。魅力がないってことだろうと反省しきりです。JanJanには先輩記者のあとに続こうという気持ちでこれまできましたが、最近は新人の方々の活躍が頼もしいことです。

ともあれ、皆さまからあたたかいお励ましをいただきました。
ロムされている方々を含めて、忙しいお時間をさいて拙稿をお読みいただいていますことを、心より御礼申し上げます。

JanJan編集部の方々のご配慮にもあらためて感謝!

ほんとうに有難うございました。





by tsubakiwabisuke | 2006-08-25 13:01 | 京都