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カテゴリ:夏目漱石( 52 )


2006年 07月 20日

サンクトペテルブルク ~今むかし~ 夏目漱石

今日の更新です。

椿わびすけの家別館・夏目漱石の部屋 から

サンクトペテルブルク~今むかし~ 夏目漱石『長谷川君と余』

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G8サミット参加国
フランス アメリカ イギリス ドイツ 日 本 イタリア カナダ ロシア 。
サミット(summit)とは、「山などの頂上」 という意味なんですね。


北朝鮮がミサイルを発射した問題に端を発して、ロシアのサンクトペテルブルクで、主要国首脳会議(G8サミット)が開催されました。

議長国のロシアを中国が説得するよう、アメリカが仕向け、とにかく議案を提起した日本の顔をたてたと、まあ、こういうところだったでしょうか。

第二次世界大戦の終戦から60年間、日本は戦火もなく歴史上かつてない程の平和を維持してきました。この「安全」ということの幸福を、私は何にもまして感謝しなければと思うのです。

また、次のニュースもありました。

韓国が北朝鮮決議支持を表明 。

中国大使、決議を歓迎-各国は穏やかな行動を 。

隣国との付き合いは大切にしなければいけませんね。そうしたことも含んでインターネット新聞に書いた拙稿が一昨日でしたか、掲載されました。

こちらもよろしければどうぞご覧になってくださいませ。

高麗犬(こまいぬ)に 角はありません


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by tsubakiwabisuke | 2006-07-20 20:31 | 夏目漱石
2006年 06月 19日

松岡陽子マックレインさんの最新メール

インターネット新聞JanJanで時々私はマックレインさんのメールを公開することがある。これは二人の間の信頼関係からそうしたことが可能になっているので、心から感謝している私である。

ところが、編集部には慎重なタイプというか、これまでの事情を知らない部員の方がいて、ご意見板での私の投稿を私信公開は問題アリとしてメール部分を削除してしまった。その後、事情が解ったようで今は私のコメントは削除が取り消され、元に戻されている。

しかし、普通は削除コースがあり、そのゆき着くところは或る「お沙汰」が待っている。最初のうちは次のような説明が入るのだ。
【以下、ご意見板利用規定3に基づき削除しました(編集部)】

この削除という制度は、編集部の意向で削除回数が多くなると最終的な警告が出される。
【あなたは削除回数が多くなっています。規定により記者登録を抹消されることになります。(編集部)】 とまあ、こんな具合だ。


私の知っている限り医学博士の学位をもちロータリー会員という中年の男性Mさんが、舌禍というか物言いがきつ過ぎて追放されてしまった。大変いい記事を書く方であり、正義感の強いドクターであったので私は残念でならなかった。ものの言い方に気をつけるように私は何度も注意したのだが…。

追放された当人は、「私の不徳のいたすところです。これまでのことを感謝しています。」と書き込んで去って行ってしまった。世の中の、人間があつまるところはとかく問題が生じる。

私はささやかなりとも言動に気をつけ、公正中立の立場を守りたいと願っている。


閑話休題

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写真は、K市長と陽子さん


マックレイン陽子さんからメールが届いていた。JanJanに掲載された記事が1週間もアメリカではえつらんできないとお書きになっていたので、私は陽子さんの記事をすべてコピーしてメールでお送りしたのだった。

今日はご宗家のお稽古に行き、その後で古美術の会社に立ち寄り、先ほど帰宅したのであるが、PCを開いて嬉しくなるのは、こうした一瞬である。ことし83歳になられる陽子さんに、私はいかに多くのものを得ているだろう!


メール
6/19 4:08

伊津子様

 わざわざ私の書いたものお送り下さり有り難うございました。ちゃんと読めました。またコメントも大変面白く読ませて頂きまし。それにも拘らずお返事遅れて失礼致しました。

 今こちらは卒業式の時期、もう退職してから十二年ですが、まだよく知っている大学院生が何人かいて、そのうちのニ人が日本文学,一人が言語学で博士号をとったので、卒業式に出てきました。昨晩はそのうちの一人で結婚している学生が自分の家で大きなパーテイーをするからぜひ来てくれと呼んでくれたので、行ってきました。持ち寄りで四十人くらい集まり庭でバービキュー。学生と卒業式に他州から来た父兄達で賑やかな楽しい夕べでした。

 学部では四十人以上が日本語専攻で学士号をとっていたので、びっくりしました。私が教え始めたころの六十年代半ばは日本語専攻が数人もいたらよいほうでしたので、四十人も日本語専攻で卒業したというのは私には驚異的な進歩だと思いました。ともかくそんなことで何となく忙しくなり、ゆっくりお返事を書く時間がなく、今日まで待ってお返事することにしました。

 日本とアメリカは本当に社会制度が違いますね。小林さんという方もお書き下さったように、日本の社会制度ではいくら男性が妻を助けたくても、時間がない、会社で毎晩遅く迄働かされその後でバーでお酒を飲んでゆっくり仕事の話をしないと会社の仕事がうまくいかないというようなおかしな慣習がありました。今でもそうでしょうか。それに夫が家庭内のことをすると、今は知りませんが、昔はすぐあそこの旦那は妻の尻に敷かれているとか回りの人が悪口を言いました。子供はほとんどの家庭で母親が育てたのですから、これでは子供も父親と親しくならなかった筈です。

 私の父はもちろん会社人ではありませんでしたが、昔は男は子供の世話などしないと考えられていたので、五人兄弟の上の三人はほとんど父親とは親しくなりませんでした。下の二人は家族が新潟に疎開して父の母校に行ったので、父がもう少し彼等の勉強なども見るようになったようで、私たちより父と親しくなったようです。

 昨年前のK市の市長がいらした時、何人か市の従業員を連れて自宅にいらしたのですが,私が一人で住んでいるのを見て、今元気の間はいいけど病気になったらどうするのかと聞かれました。というのは彼のお母様が寝たきりで奥様が長年お世話されていらっしゃるからでしょう。奥様が一度前に自分のしたいことはこの数年何一つ出来ないと言っていらしたのを覚えています。ご主人は自分のお母様でもほとんど何もなさらないで自分のお仕事をされ、奥様が皆していらっしゃるのを私は大変不公平な話だと思いました。

 私は病気になったら、クリニックのついているリタイアメント・ハウスに行くか、それとも誰か雇って自宅で世話してもらう。でもできればそんな日があまり早く来ないように健康に十分気をつけて出来るだけ病気にならないようにしていると言いました。それでもそうなった場合は将来に具えて、お金だけはきちんととってあると言いました。私は真実息子夫婦と住んで世話してもらおうと考えたことはないのです。若い人たちは自分たちの子供を育て、また自分たちの仕事があります。それ以上に親(実の,または義理の)の世話をしなければならなければ,いくら親孝行な人でも多少の不平も出てくるのも当然です。

 アメリカは国柄でしょうか、年をとっても大体独立心が強い人が多く,その上よいリタイアメント・ホームもあるので、多くの人が子供に迷惑をかけないように努めてそういう所にいきます。彼等に言わせると、そういう所は同年輩の人が住んでいるから,若い人が分からないこともお互いに分かち合えていいと言います。でももちろんんぜんお金がなければよいリタイア・ホームにも入れずその独立も不可能です。だから他の事は節約しても自分の将来のためのお金だけば持っていなければなりません。というのが私の考えです。


随分おしゃべりしました。ではまた。

陽子


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by tsubakiwabisuke | 2006-06-19 16:27 | 夏目漱石
2005年 09月 26日

小泉八雲忌の今日

ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)。ドイツ風にはヘルン。

今日、9月26日は小泉八雲忌の日です。
ヘルンが愛してやまなかった節子夫人の著書『思い出の記』を開いてみましょうか。日本女性の鑑ともいうべき小泉節子。ヘルンはこの貞淑な女性によって文学者としても生かされたのでした。


ヘルンは虫の音を聞く事が好きだったと、節子夫人は書いています。

>この秋、松虫を飼っていました。九月の末の事ですから、松虫が夕方近く切れ切れに、少し声を枯らして鳴いていますのが、いつになく物哀れに感じさせました。私は『あの音を何と聞きますか』と、ヘルンに尋ねますと『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、段々寒くなって来ました。知っていますか、知っていませんか、直に死なねばならぬと云う事を。気の毒ですね、可哀相な虫』と淋しそうに申しまして『この頃の温い日に、草むらの中にそっと放してやりましょう』と私共は約束致しました。<

拙サイトの『小泉八雲と夏目漱石』 は、2003年に作成しアップしたものです。ヘルンのお孫さんである小泉時氏から頂戴したお手紙などもご披露させていただきました。少しでもお人柄を感じていただければと。
http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/koizumiyabumoto.html


引き続き、小泉節子夫人の『思い出の記』より

>うわべの一寸美しいものは大嫌い。流行にも無頓着。当世風は大嫌い。表面の親切らしいのが大嫌いでした。<

彼の目は片方が見えなかったようですが、当時目に入れ墨をしてはどうかという勧めを頑として聞き入れなかったのも、こうした気性ゆえなのですね。それに仏教の坊さんに好意をもって、キリスト教には厳しい見方をしたというのも、白人にしては珍しい方でした。

>耶蘇の坊さんには不正直なにせ者が多いと云うので嫌いました。
しかし聖書は三部も持っていまして、長男にこれはよく読まねばならぬ本だとよく申しました。<


彼が生きていたら、今のイラク戦争を見、なんと言って嘆くことでしょうか!
白人によるキリスト教支配、一神論に基ずく優越理論…。日本人がアラブに寄与できるものがあるとしたら、それは、小泉八雲のこころを生かすことではないでしょうか?

しかし、富国強兵を至上命令とした近代日本は、彼を疎外する方向に行ったのでした。そして今、この国は何に向かって走ろうとしているのかと、とまどいながら思う毎日です。

ヘルンの墓はつつましく、漱石の墓とは違っているとよく批評されますが、私はお参りしたことがございませんのでなんとも申し上げられません。

>平常から淋しい寺を好みました。垣の破れた草の生いしげった本堂の小さい寺があったら、それこそへルンの理想でございましたろうが、そんなところも急には見つかりません。
墓も小さくして外から見えぬようにしてくれと、平常申して居りましたが、遂に瘤寺で葬式をして雑司谷の墓地に葬る事になりました。<


最後まで、漱石と共通した文豪・ヘルン…。
私はこれから香炉に伽羅の香を焚き、ささやかなご供養をさせていただきましょう。




by tsubakiwabisuke | 2005-09-26 14:39 | 夏目漱石
2005年 09月 13日

土井八枝、与謝野晶子、夏目鏡子、その時石川啄木は

石川啄木の年譜より

まず第一に、土井八枝(土井晩翠夫人)のこと

>1905年(明治38) 5月20日 結婚のため帰郷の途につく。途中仙台に立ち寄り29日まで滞在。
この時、啄木は19歳。 
自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し詩人土井晩翠を訪ね歓談した。<

参考 盛岡タイムス 2002~2004連載 山下多恵子さん筆。

 >1905年(明治38)5月、啄木は自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し詩人土井晩翠を訪ね歓談した。一週間後、啄木は「田舎の母が重態だが旅費がないため帰れない」という創作の手紙を晩翠宅に持たせる。妻の八枝は27歳、真面目で勤勉な女性で手元にあった15円を持ち、人力車を走らせた。旅館に着いた彼女が見たものは、友人と酒を飲み真っ赤な顔をして談笑している啄木であった。

 厚顔無恥ともいえるふるまいは、父の住職罷免により一家の生活の責任を負ったが、その現実と向き合えずにあがいている啄木の姿だった。<


今の世で20歳といえば、成人になったばかりの青年です。その彼は、世話になった女性たちのことをこう書き綴ってています。


「二十歳の時、私の境遇には非常な変動が起つた。(略)その変動にたいして何の方針も定める事が出来なかった。」


うら若き八枝夫人の行いと夫・土井晩翠の愛情ふかい性格を、うつくしいと思わずにはおれません。


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閑話休題
画像は大鯛の蓋ものの器。楽焼系の陶器で、茶懐石に使用するものです。
蓋をあけますと、なかにはみどりの笹につつまれた笹寿司が!
京懐石の有名な店にたまたま行ってまいりました。魚はなんといっても鯛!鯛にたとえられる作家はだれ?中身はなに?
いまふうにいうならば作家のパートナーはどんなひと?夫唱婦随を守ったように見える明治の文豪の妻たち。

貧しくともよい時代だったのではなかったでしょうか?そんなことをおもいながら画像をアップさせていただきます。


第二に、与謝野晶子(与謝野鉄幹夫人)のこと。

明治41年5月  啄木の日記

「与謝野氏外出。晶子夫人と色々な事を語る。
明星は其昔寛氏が社会に向って自己を発表し、且つ社会と戦う唯一の城壁であつた。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編集長に雇はれて居るようなものだ!」


「隣りの生田長江君を庭伝いに訪ねる。
八時頃森田白楊君が来た。二週間前に平塚明子と浮名を流した人。今は夏目氏の宅に隠れて居るとの事。」

当時、啄木と与謝野夫妻、森鴎外、夏目漱石並びに漱石の門人たちとの交流。
与謝野邸を尋ねた日、鉄幹が漱石をどのように語ったかが興味深く書かれています。


明治41年5月 啄木の日記

「小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、氏は頻りに漱石を激賞して″先生″と呼んで居た。」

「「晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。」


啄木は中学時代、与謝野晶子の『みだれ髪』を愛読していたのですね。
1902年(明治35)初めて与謝野家を訪門。1908年(明治41)には与謝野家に滞在して、鉄幹が留守中、晶子と二人だけで語る機会も度々あったもようです。

>彼女は子沢山の苦しい生活の中で、夏物を持たない啄木に、単衣を縫って贈ったりしている。<


第三に、夏目鏡子(夏目漱石夫人)のこと。

明治45年1月22日 啄木の日記

「私は全く恐縮した、まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかつた事もないのである。」

>1月22日、森田草平が面識のない夏目漱石夫人の見舞金10円と征露丸150粒を持ってくる。この日の日記に“征露丸”は“日露戦争の時兵隊に持たせたもので,クレオソオトと健胃剤が入つてゐるから飲んだらよからうといふのだつた。”<


石川啄木が貧窮のなかで、病苦と闘いながら亡くなった年。
それはこの年(明治45年)の春4月でした。まだ26歳2カ月。青年のまっただ中でありました。

そしてなお、啄木の妻、節子夫人は一年後に他界するのですが、亡くなる間際に、次のような言葉を書き残したということです。

「-------森(鴎外)さん、夏目(漱石)さんによろしくお願いします」と。


いかがでしたでしょうか。
明治の文豪とその配偶者たち…。

今夜は、この心高き女性に思いをはせて、私はひとり文学の美酒を杯にそそぎたいと思います。




by tsubakiwabisuke | 2005-09-13 00:33 | 夏目漱石
2005年 08月 27日

詩人


詩人    土井晩翠


詩人よ君を譬ふれば
恋に酔ひぬるをとめごか
あらしのうちに楽を聞き
あら野のうちに花を見る。

詩人よ君を譬ふれば
世の罪しらぬをとめごか
口には神の声ひびき
目にはみそらの夢やどる。

詩人よ君を譬ふれば
八重の汐路の海原か
おもてにあるゝあらしあり
底にひそめるまたまり。

詩人よ君を譬ふれば
雲に聳ゆる火の山か
星は額にかがやきて
焔の波ぞ胸に湧く。

詩人よ君を譬ふれば
光すずしき夕月か
身を天上にとめ置きて
影を下界の塵に寄す。



詩人よ君を譬ふれば、のフレーズがとても耳にこころよいのです。
それではこれを書いた頃の晩翠のプロフィールを見てみましょうか。



e0006293_1950983.jpg出典 東北大学図書館「漱石文庫」


処女詩集『天地有情』が世に出たのは、明治32年(1899)
土井晩翠は29歳の青年であったようです。

彼は、これによって『若菜集』(1897)の詩人島崎藤村(1872-1943)と併び称される程、高い評価を受けました。

翌33年には、第二高等学校教授となります。しかし、明治34年6月、二高教授を辞職して、私費で欧州遊学の旅へ。明治34年10月から35年5月までは、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで英文学を、36年1月から4月まではパリのソルボンヌ大学で仏文学を、36年10月から37年7月までは、ドイツのライプチッヒ大学で独英文学を研究し、同年11月に帰朝した、となっています。

おもしろいことは、明治34(1901)8月、ロンドンで夏目漱石が土井晩翠をヴィクトリア駅まで迎えたという記録が残っているのですね。4歳年下の晩翠はどんなにか嬉しかったことでしょう。

漱石は晩翠にとっては尊敬の対象であった先輩だと思われます。
のちに漱石は晩翠に宛てた葉書に、自画像を描き、このように話しかけます。


自分の肖像をかいたらこんなものが出来た 何だか影が薄い肺病患者の様だ。君が僕を鼓舞してくれるから今にもつと肥つた所をかいて御目にかける 現在の顔は此位だ

(明治38年2月2日(木) 土井晩翠あて書簡)


「君が僕を鼓舞してくれるから」 の漱石の言葉。
ふたりの信頼関係を物語るのに十分ではないでしょうか。この葉書を書いたとき、漱石は帰国してから3年目、身分は東京帝国大学英文科講師であり、『我輩は猫である』も世に出し喝采を受けた時期でありました。

漱石は漢詩と俳句を書く人でありましたし、晩翠が早くから詩人として心に想う存在であったかもしれません。
晩翠のうたう「詩人」ーーそのひとりは、漱石ではなかったか、とふとそんな風に、私は感じるのでした。



by tsubakiwabisuke | 2005-08-27 17:42 | 夏目漱石
2005年 08月 25日

晩翠の詩 「希望」


『天地有情』より  土井晩翠


希望

沖の汐風吹きあれて
白波いたくほゆるとき、
夕月波にしづむとき、
黒暗(くらやみ)よもを襲うとき、
空のあなたにわが舟を
導く星の光あり。

ながき我世の夢さめて
むくろの土に返るとき、
心のなやみ終るとき、
罪のほだしの解くるとき、
墓のあなたに我が魂(たま)を
導く神の御声あり。

嘆き、わずらひ、くるしみの
海にいのちの舟うけて、
夢にも泣くか塵の子よ、
浮世の波の仇騒ぎ
雨風いかにあらぶとも、
忍べ、とこよの花にほふー

港入江の春告げて
流るゝ川に言葉(ことば)あり、
燃ゆる焔に思想(おもひ)あり、
空行く雲に啓示(さとし)あり、
夜半の嵐に諌誡(いさめ)あり、
人の心に希望(のぞみ)あり。



宮城沖地震に被災された住民の方々は、この晩翠の詩をどのようにご覧になるでしょうか。
明治・大正の人々に与えた感動と士気はもとよりのこと、このわたくしでさえも、元気をいただくような気がいたします。

平凡社刊『世界名詩集大成10 日本1』土井晩翠 『天地有情」から抜粋いたしました。




by tsubakiwabisuke | 2005-08-25 16:04 | 夏目漱石
2005年 08月 23日

土井晩翠の詩 星と花

土井晩翠の詩 星と花


同じ「自然」のおん母の
御手にそだちし姉と妹(いも)、
み空の花を星といひ
わが世の星を花といふ。

かれとこれとに隔たれど
にほひは同じ星と花。
笑みと光を宵々に
かはすもやさし花と星。

されば曙(あけぼの)雲白く
御空の花のしぼむとき、
見よ白露のひとしづく
わが世の星に涙あり。


明治三二年四月、土井林吉の第一詩集『天地有情』は、博文館から出版。
この「星と花」はその中の一篇です。
翌三三年には母校の第二高等学校の教授となりますが、三四年にはロンドンに遊学。
駅では夏目漱石の出迎えを受けています。

ところが二人とも英文学者であり、高等学校教授という身分であったことが、不審な事件に
何かと取り沙汰されることになりました。
不審な事件とは、のちに「ナツメ狂セリ」という怪電報を英国から文部省へ何者かが打電した事件のことです。

それを、岡倉天心の弟の由三郎だとする説があり、これには松岡譲が否定しています。
しかし、なんといっても傷ついたのは、漱石本人だった筈です。
漱石の死後、鏡子夫人が或る雑誌に語ったという話に、晩翠が驚き、事実はこうだと綴っている
エッセイがありました。


『漱石さんのロンドンにおけるエピソード 夏目夫人にまゐらす』 土井晩翠

英文学者であるがゆえに嫌疑をかけられた土井晩翠と岡倉由三郎!
ところが晩翠の語ったことによれば、国文学者の芳賀矢一の名が挙がり、これは漱石を貶めるものではなく、別の観点からされたと思われるように書かれています。

故芳賀矢一先生が独乙留学の期が満ちて帰朝の途中ロンドンに来られました、それで二三の同志が落合つた折、自然話は夏目さんの病気に及びました。其頃ベルリン留学生の或る真面目な方が発狂して下宿屋に放火したといふ一珍談があつたので芳賀先生は『……どうも困つたな、夏目もろくに酒も飲まず、あまり真面目に勉強するから鬱屈して、さうなつたんだらう、もう留学も満期になる頃だが、それを早めて帰朝させたい、帰朝となると多少気がはれるだらう、文部省の当局に話さうか……』――正確には記憶しませんが以上の意味の言葉があつたやうです、(姉崎正治教授がその席にお出ででなかつたか、どうか、何しろ二十五六年前のことなので記憶は朦朧たらざるを得ません)
 あとに述べる通りそれから一ヶ月以内に私は全く英国を去つてしまつたので、くはしい其後の消息はわかりませんが、帰朝の期の早まつたことは良好の結果を来した云々とパリで所謂風の便りに聞いたやうです。多分芳賀先生が文部当局と相談なされての上で無かつたでせうか? 当時文部省には芳賀先生の親友上田萬年博士が専門局長であられたと記憶します、今日の学習院長福原さん、先頃まで大阪高等学校の野田義夫さんも同省に在官であられたでせう。ともかく此件に関しては漱石さんは感謝さるべきであると信じます。


晩翠の結婚媒酌人でもある芳賀氏。漱石といっしょにプロイセン号に乗船して留学した芳賀氏。
真相はいぜんとして闇の中ですが、この晩翠の言葉は傾聴に値するのではないでしょうか。

先に私のアップした「漱石と晩翠など」の記事には、松岡陽子マックレインさんは次のように仰っています。

 お送りいただいたものすべて大変面白く読ませて頂きました。土井晩翠のこともいろいろ習いました。晩翠と言えば、アメリカに来て少ししてから一世のお医者様にお会いしましたが、彼が日本にいる時読んだ晩翠の詩が好きで忘れられないとおっしゃったので、私自身も当時食うや食わずの貧乏学生でしたが、アルバイトから稼いだお金で次のクリスマスに日本から全集を取り寄せて差し上げ大変喜んで頂いた事を思いだしました。その先生は若い頃瀬戸内海の小さい島で育ち、家庭が大変貧乏でお父様とアメリカに出稼ぎにいらしたそうですが、働きながら医学部に行かれ医者として成功され、後年は美術館などに寄付され医業の他にもいろいろ尽くされました。私のことも長年助けて下さり昨年ほとんど百歳で亡くなりました。いつも思うのはどんな職業の方でもそうやって自分の専門の職業の他に文学または美術に興味を持つ方はその視野が広くてよろしいですね。



by tsubakiwabisuke | 2005-08-23 17:00 | 夏目漱石
2005年 08月 17日

 晩翠通り 晩翠草堂 土井晩翠

最初の画像は、仙台市博物館の庭園。みどりの杜のネーミングにふさわしいところです。


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仙台の旅から京都に帰ってからまだ一週間です。
それが今日8月16日、宮城県沖地震のニュースに愕然としてしまいました。

お世話になった阿部かまの会社へ、地震見舞いのメールを出しましたところ即座にお返事がかえってきました。メールは早くてこうした時にはありがたいものです。

「こちら11時56分頃宮城県沖地震が発生、津波注意報も出ましたが、大事に到らず仙台市内、当ビルも数秒おおきくゆれました。当社には一応被害は出ませんので、従業員等も全員無事でご安心下さい。取り急ぎお知らせいたします。」

ああ、よかった。人々の無事が何よりです。でも、また心配なのは、晩翠通りと名づけられた大通りに建っている、あの土井晩翠の旧宅・晩翠草堂のことです。

晩翠の弟子達が戦後、恩師のために建てた木造平屋住宅で、地震の影響がなければいいがと…。

この度は東北大学付属図書館『漱石文庫』を閲覧するのが目的だったのですが、なんと、阿部かまの本社とちょうど後ろ合わせに建っているのが、晩翠草堂だったのです。

『仙台・東北大学をたずねて 漱石と土井晩翠のことなど』

先にアップした、このふたりの文豪についてのエピソードは、漱石夫人と晩翠の発言が残されたことで今後、例の「怪電報」がなんであったか解き明かされることでありましょう。


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晩翠の履いていた下駄も保存されておりました。家屋敷が仙台市に譲渡され、今は市の管理になって無料で拝見することができました。

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『オヂュッセーア』1万2千余行の韻文訳の出版、晩翠のライフワークは翻訳でもありました。80歳の昭和25年、第8回文化勲章を受章。詩人として文化勲章を受章したのは晩翠が最初であったそうです。

オヂュッセーアは浅野晃訳の詩集を持っていますが、晩翠の訳は存じないままでした。いずれ是非読みたいと思います。


河北新報によれば、この地震の影響は次のようになっています。
宮城南部震度6弱 けが59人 新幹線116本運休
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 宮城県沖を震源に16日発生した「8.16宮城地震」は、宮城県川崎町で震度6弱を観測したのをはじめ、仙台市宮城野区と泉区などで震度5強を記録した。揺れは北海道から近畿地方までの広い範囲に及び、震源地に近かった東北地方を中心に被害が広がった。政府が首相官邸に設置した官邸対策室などによると、地震によるけが人は宮城県を中心に5都県で計59人に上った。仙台市泉区では複合健康施設で屋内プールの天井パネルが落下し、26人が軽傷を負った。福島市、北上市、気仙沼市などでもけが人が出た。住宅の全壊や一部損壊も各地で相次いだ。東北新幹線は架線の断線で約10時間、運転が完全にストップし、全面復旧は17日未明となった。JR東日本は上下116本が運休し、影響は約10万3000人に及んだと発表した。一時運行を見合わせた仙台市地下鉄は約3時間後に復旧したが、高速道路など交通機関の混乱は夜まで続いた。気象庁によると、地震は16日午前11時46分ごろ、牡鹿半島の東南東80キロ付近を震源に発生。震源の深さは約42キロで、地震の規模はマグニチュード(M)7.2と推定される。気象庁は「今後、最大震度5強程度の余震の可能性がある」と警戒を呼び掛けている。(8/17 01:25)>>>詳細



by tsubakiwabisuke | 2005-08-17 10:14 | 夏目漱石
2005年 08月 12日

みちのくの七夕まつり

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みちのくの旅は雨にたたられました。
仙台の東北大学をたずねてみたいと、いう思いは漱石ファンなら誰しも心あたりがあるのではないでしょううか。

漱石の直筆原稿や蔵書など、『漱石文庫』は宝庫なのです。仙台も空襲で多くが消失したそうですけれども、この文庫はよくも生き残ったと思います。

空路での仙台行きは、2度にわたって変更を余儀なくされました。なにしろ台風が直撃するコースだったからです。

7月が8月になり、それもご親切な仙台の友人のアドバイスで、七夕まつりのころに、ということになりました。

図書館のほうは、先ほどサイトのほうへ記事をUPいたしました。ここでは、七夕のことだけ触れてみましょう。

じつは、最終日の8日に市中は大雨となったのです。目抜きの商店街アーケードなら歩きながら見ることも出来たのですが、体力も根気もない私はすぐ諦めました。

翌日、仙台市博物館へ。それから土井晩翠旧居のまうしろに位置する、「あべかま」本店。そこでも七夕飾りにはからずも逢うことができました。

仙台の七夕まつりは戦後に復興したものとか。京都の笹に短冊の、あの飾りとはだんぶん印象が異なります。ただ、子どものきものを形どった紙細工が添えられていたのは、とても可愛らしかったですね。

昔は布で手作りをしたものだと、そう「あべかま」の奥様は仰っておりました。

画像は上から博物館エントランスホール。笹かまぼこの「あべかま」本店の庭。食事どころも料理に七夕かざり。

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最後は、もりの都・仙台にふさわしい、東北大学付属図書館の前庭です。
 
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by tsubakiwabisuke | 2005-08-12 23:11 | 夏目漱石
2005年 07月 02日

雑司が谷に漱石の墓所をたずねお参りした日のこと

雑司が谷に夏目漱石の墓所をたずね私が最初にお参りした日は、2001年秋。
あれからもう4年近い歳月が流れました。松岡譲氏『夏目漱石』の解説によってこのお墓について教えられたことを思い起こします。

<十二月}二十八日に雑司が谷の墓地に愛子ひな子の遺骨にとなりして埋葬された。
一周期の時新しく広い墓地にかへ、墓を建てて改葬された。
墓は未亡人の妹婿鈴木禎次の設計になり、新様式の石塔である。
字は漱石の親友菅虎雄の筆になった。この墓地も落合火葬場とともに彼の作品の中に
描かれた有縁の地であるのである。墓地は『こころ』に、火葬場は『彼岸過迄』に。>

安楽椅子の形をデザインした石塔には、ご遺族のお気持ちが痛いように感じられました。病苦から開放され永久に安らいでほしいとの願いを…。ただ、スケールがあまりに大きいので当時から世間の評判はいろいろあったようでした。
傍らに夏目房之介さんがおつくりになった新しい小さなお墓があり、つつましい感じで私はお人柄を想いました。ふたつのお墓に私は持参したささやかな花を供えしたのでした…。

ことし5月松岡譲氏二女・松岡陽子マックレインさんが来日。故夏目純一氏夫人嘉米子さんの3回忌に出席されたとのこと。この雑司が谷霊園にもお参りされ、ふとこんな感想を述べられたのです。

「漱石の墓は、彼の好みじゃないわ。祖母はなんでも大きいのが好きな人だったですからね。でも、私はあれはあれでいいと思ってます。」

江戸っ子漱石をほうふつとする孫の陽子先生。旅行中でも毎日70回縄跳びをされ、ウオーキングが健康の元だと信じて実践される若々しさ。学究の生真面目さと、妻であり母である主婦のやわらかさが感じられて、傍にいるだけでたのしい方です。

今日はこのブログに、元新聞記者のなまずさんと掲示板でやりとりしたことどもを、なまずさんのご了解のもとに転載させていただきます。

椿わびすけ さま
いつも 励ましていただきありがとうございます。
掲示板の転載のこと どうぞ 気がねなく 転載してください。
暑くなってきました。健康にはご留意ください。 なまず。

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(172) 時代を感じました 名前 : namazu 2005年07月01日(金) 17:15
 松岡陽子マックレインさんのこと 頷きながら読ませていただきました。
 以前、訪れた雑司ヶ谷の漱石先生の墓。その墓石の大きさに驚かされたものです。お孫さんの死生観に時代を感じます。


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(171) 自然のなかに お墓に代わるもの 名前 : 椿 わびすけ 2005年06月30日(木) 09:42
くりママさんと鯰さんのお気持ち、よくわかります。お墓というものは先祖供養と結びついて日本人の生活にはなじんでいますが、最近はアメリカでも宗教を離れた自由な考え方が増えているようです。漱石のお孫さんのマックレイン陽子さんからお聞きした実話をつたないブログに書きました。
http://rendezvou.exblog.jp/


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(170) 頓田川のほとり 名前 : namazu 2005年06月29日(水) 12:09
 クリママさん 岡山のクリちゃん元気かな、いつもWeb上でたしかめ、ほっとしています。
 吉田さんとは同郷だったのですね。驚きました。「頓田川河口」が、どのあたりかな と気にはなっていました。
 どこかシャイな人でしたが、やはり生まれ故郷に思いをのこしていたのですね。あらためて あの人柄がしのばれます。
 クリママさんのHP http://www11.plala.or.jp/nayama/


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(169) 病床での書き置きを読んで 名前 : kurimama 2005年06月28日(火) 00:30
ご無沙汰しております。岡山のくりママです。
回りでお葬式が続く年頃になり、派手なお葬式に参列したり、身内だけのお葬式の話を聞いたりしている昨今なので、逝った方からの「ごあいさつ」を直ぐに「見聞録」で読みました。
思いがけないことに、その映像作家さんは私の同郷の方でした。70歳過ぎの姉が頓田川河口近くに住んでいるので電話で聞いてみると、知人の同級生だとのこと。
世界を飛び歩き、心残りのない生き方ができたから、自分のやり方で旅立つことを選んだのでしょうね。共感を覚えました。


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鯰のひとりごと
ある映像作家の死 by namazu
吉田元さん。自然と共生しながら生きてきたカメラマンでした。4月25日にガンで亡くなりました。遺言とうりに知らせることなく、家族とごく親しい仲間だけで秘蔵の酒を酌み交わして送ったようです。この人らしい「あいさつ」を再録しました。(05.06.22)

 私・吉田 元は平成17年4月25日 くたばりました。4月28日、自宅でごく近親者のみに送り出されました。通夜も坊主の読経もありません。いきなり棺に野の花を投げ込み、葬場へ直行です。今ごろは小さな骨壺の中でしょう。この上もなく暗く、いやな場所です。早々に瀬戸の来島海か頓田川河口(ふるさと)でも、あるいは八重山の海辺にでも ばらまいてもらう手はずです。地球が墓場になります。好きなときに世界中に出かけます。
 春のホオジロのさえずりに聴きいり、アルゼンチンのパンピエロ(季節風)を見たり、秋には皆さんの家の庭の片隅でコオロギを聴いているかもしれ ません、とにかく70余年の楽しい生涯でした。快い人たちーあなたのことですーに出会い、全く愉快でした。思い残すことがありません。素晴らしい一生です。ありがとう。それではー  元

by tsubakiwabisuke | 2005-07-02 22:51 | 夏目漱石