カテゴリ:夏目漱石( 52 )


2007年 08月 01日

専門家・研究家・真摯な学究の知己

専門家といいますとすぐ専門バカだとか、仰る方もございますので、れっきとした学者の先達の方々と申し上げます。

私のつたない書きものを丁寧にご覧いただき、ご感想をお寄せくださることを本当に光栄に存じます。

漱石研究家として大家でいらっしゃる方々ですから、お便りにも研究のための示唆を頂戴し、大きい励ましとなります。ありがとうございます。




2007/07/31 07:00   松岡陽子マックレイン様(オレゴン州ユージン市)

伊津子様

 御心配かけて申訳ございませんでした。元気にしておりますが、夏は、この辺りは最善の気候、湿度が低く、昼間はかなり暖かくなりますが、日が沈むとぐっと冷え、熱帯夜というものがほとんどありません。真昼でも室内で窓を閉め切って暖かい空気を入れないようにすると、エアコンがほとんど必要がない所です。日本で言えば避暑地という感じの所なので、いつも他州や日本からのお客様が多く、夏の間はつい忙しくなります。その上ゲラが戻ったりして、何となく落ち着いてお便りをする暇がありませんでした。ご無沙汰お許し下さい。新書が出るのは十月半ばだそうです。

 京都と漱石についていろいろ書かれ、どれも大変面白く読んで、習わせて頂いています。

 ちょうど今度の本の中で、祖母が「お父様はなかなかおしゃれだったんだよ」と言っていたことを思い出して書いたので、伊津子様の半襟の話のところ大変面白く読みました。漱石は自分も良い着物が好きだったし、また子供達が奇麗に着飾るのも好きだったそうです。祖母に半襟の御土産など買おうと思ったことも、彼らしいと思いました。

 『虞美人草』は漱石自身後で厭だと言っていますね。内容は別として、『虞美人草』だけがあんなにごってりしたスタイルで書かれているので、厭だったのでしょう。後期のものは飾りけなく、平坦で単刀直入な文章で書かれています。ですから、いくら漢字が多くても、それさえ字引で引けば、『心』など私の学生が上級になると、あまり苦労せず読めるようになりました。

 私も『門』は好きです。彼の作品のなかで一番暖かいものだと思います。彼が自分で一番好きだと言ったというのがよく分ります。彼の理想の夫婦仲だったのかもしれません。でも漱石の作品は一つ読むといいなと思いますが、また次のを読むと、それもいいと思い始めます。だから、今でも人にどれが一番好きかと言われると、はっきりどれと言えません。芥川は『明暗』をすごく褒めていましたが、あれは少々冷たくて、いくら文学として優れていても、私はあまり好きではありません。やはり個人の好みですね。

 今週もお客様があります。来週は、私が1964年に助手として始めて日本語を教えたときの学生たち(もう孫のいる人もいます)が10人くらい、ある者は他市(日本も入れて)に住んでいますが、皆ここに来て集ることになっています。いわば四十年以上前の学生達のクラス会とでも言うものですから、皆で昔を思い出して楽しむことでしょう。

 ではまた良いものをお書きになったときは、どうぞお知らせ下さい。いつも楽しんで読み、いろいろ新しいことを習わせて頂いています。

陽子




2007/08/01 11:40 内田 道雄様

椿様の達筆・麗筆・速筆に感心しています。折角のご文章なのに、遅くなりました。

『門』は私も、一番大好きだった作品。夫婦愛が共感深く書かれています。「上品な半襟」につきましては「襟善」についての貴重な調査踏まえて「宗助」の愛妻への心情、きめ細かな捉え方で素晴らしいと思います。

『虞美人草』の「初源性」についても同感。吉本隆明の著述等々よくマメにお読みですねえ。椿様がご指摘のこの作品での社会批判・時代意識は言うまでもなく『門』の後半部への転回にも辿れますね。前半の「夫婦愛の物語」はそれによって大きく揺るがされるのですね。

「京に着ける夕」の原体験については水川さんも良く辿ってくれていましたが、今度の椿様のご指摘で安堵!(狩野亨吉、菅虎雄が、誤植になっていました。)

以上お礼まで。

内田拝



2007/07/32 11:25   内田道雄様

下記のURLで拝読が叶いました。プリントアウトいたしまして外出先で熟読いたします。どうもありがとうございました。内田拝

http://www.news.janjan.jp/column/tsubaki/list.php



2007/07/31 09:51   伊豆 利彦様

椿 伊津子さま

漱石と京都というテーマは大事なテーマだと思います。「門」を京都との関連で考えることはしていませんでした。

「門」は私も好きな作品です。これは漱石文学の転換点となったと思います。
今後ともよろしくお願いします。

伊豆 利彦



2007/07/27 08:12   伊豆 利彦様

椿 伊津子様

興味深く読ませていただきました。
半えりのことはいままで気づきませんでした。このことから、漱石のことがあたらしく見えてくるように思えます。

ところで、「虞美人草」には衣装のことなど細かく書いているようですが、「三四郎」ではそんなことには無頓着な三四郎の眼で書かれているし、これ以後もあまりそうしたことは書かれていないのではないでしょうか。

「明暗」はどうだろうか。お延の衣装のことなど書かれていたような気がしますが、どうでしょうか。

ご活躍をおよろこびします。
今後ともよろしくお願いします。

           伊豆利彦



鯰様 (ジャーナリスト)

わびすけ 様

魚が水を得たというのはこんなことをいうのでしょうか。
漱石と古都と半襟 この取り合わせの妙を明快に
ときほぐすさま これはやはり わびすけさんの独壇場ですね。

おもしろく 読ませていただいております。正直なところ
わたしたちが期待していたのも こんな話だったのです。
こころ 豊かに読ませていただいております。





私はこちらの方々とは何度か実際にお会いして、お人柄は充分存じ上げております。

大正時代の香りが残るお方もいらっしゃいますし、昭和ヒトケタの男性は忍耐強いといわれておりますが、やはり現代の若い男性より男性っぽい印象を受けますがいかがでしょう?

いえいえ、ちゃんと現代に生きて活躍されている方々でいらっしゃいます。

学ばせていただくご縁を心より感謝申し上げます。










by tsubakiwabisuke | 2007-08-01 16:51 | 夏目漱石
2007年 07月 30日

えり善で、漱石が半襟を選んだのは妻の為だったことが判明

今日のIT新聞に、拙記事が掲載されています。先に書きました襟善の半襟の続編にあたるものです。きのう、参議院選挙の投票に行ったあとで、最終原稿を入稿したのでした。

7月30日 tsubakiコラム 京都の取材から書かれた漱石の『虞美人草』と『門』


なにか適当な画像はないかと探しましたが、どうもみつからないのです。

今は記事のお知らせのみでございます。







by tsubakiwabisuke | 2007-07-30 13:09 | 夏目漱石
2007年 07月 26日

生涯ただひとりの妻を守った漱石の節操

今日、インターネット新聞のトップページ記事の一つに掲載されたのが、

コラム古都つれづれ 07/26 漱石が京都で買い求めた高価な半襟

こちらに書いたものに、新しく『虞美人草』の資料なども入れて加筆いたしました。

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更紗もようの唐紙、漱石の書斎にあったものを漱石が絵に描いています。

漱石は取材した後に、実際にその品物を買い求め、家族に着けさせているのですね。

先ほど、えり善の部長さんからお電話をいただきました。

私は、現在刺繍入りの半襟を扱っていらっしゃるかとお聞きしましたら、次のようにお答えが返ってまいりました。

「せんだって、お嬢さん用にと親御さまから特注がありました時は、手縫いの刺繍入りの半襟が30万円でございました。ただ、あまり値が張りますので大抵はミシン刺繍にする場合が多いのでございます」

そうでしたか。やはり…。

ところで、漱石は奥さんだけでなくお嬢さんにも買ったということが考えられるのです。

「じつは、明治45年から大正にかけて売れ残った半襟が150点ばかり保存しております。当時、残った品の値段ですが、一枚5円が最高のようです。」

なるほど、では、漱石が買ったのは半襟2・3枚と帯揚げだったのかもしれませんね。

まあ、勝手な推測をしてしまいました。

漱石先生、かんにんしておくれやす~~。


皆さまにお願い!!!
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漱石山房と更紗の唐紙
http://homepage1.nifty.com/xkyou/akutagawa.sosekisanbo.html






by tsubakiwabisuke | 2007-07-26 15:00 | 夏目漱石
2007年 07月 24日

えり善 漱石が京都で買い求めた半襟

店舗新装につき大売出し 半襟で有名なあの店どっせ
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祇園祭には ヒオウギがつきもの。
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今度は5階建てのビルになりますよって、この看板は見納めに。
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夏目漱石先生て、明治42(1909)年10月、漱石は2日間だけ大阪から京都に立ち寄った際、わざわざ四条の襟善に買い物に行っているのです。 それも案内なしでひとり当初から予定していたフシがあります。

半襟と帯揚げを買って18円払っています。日記には「十八円程とられる。」と書いていますから内心は値の高さにおどろいたようです。

さらに更紗の布を物色します。漱石は更紗を好んでおり、漱石山房にも更紗を壁かけにしていたのを見てもその好みが伺えます。

けれども、買い物はここまで。漱石は「女房が気に食はんのでやめた。」ということになったのです。女房が気に食わんといっていることがひっかるじゃぁありませんか。奥さんの土産に高い半襟と帯揚げを買い求めたのはいいとしてもですよ。

私は、祇園祭に出かけたついでに四条のえり善本店へ寄ってみました。私もある品を物色していましたので専務のNさんがやって来ていろいろ話されます。

「あの~~、明治42年頃のことはおわかりではございませんよね?」

「手前どもの店のことでしたなら」

「ええ、その頃お店の奥さんが店に出てらしたとか、今で云う店員さんで女性の方は出てはりましたか?」

「手前どもの店は番頭がでておりまして、女性が出ることはありませんです。何かありましたか」

「じつは、女房が気に食はんのでやめた、と日記に書いている文豪がいるものですから」

「はははは、漱石さんのことですな。あれは漱石の奥さんのことですわ」

「あら、そうでしたか」

なるほど。昔の大だなには番頭がいて主人の奥さんが出る幕はなかったようですね。

いや、もしかしたら鏡子夫人のことではないかもしれない、なんて思った私がおかしいのでしょう(笑)。

夫人のことについて現代人のような愛情表現をしない明治の男だった漱石は、愛人のいない文士としても珍しい存在でした。気鬱の病のためにある時は離婚を言い渡したり、さんざん当たり散らすことはあっても、生涯ひとりだけの妻を守った節操のある夫だったと私は思います。

それでは当時の18円というものがどれほどの貨幣価値があるかを、明治40年代の物価をもとに見てみましょうか。
適当なのがみつかりませんが、約10年後の授業料なら以下の通りです。




東京理科大

◇1919年(大正8年)
 *授業料月額3円50銭に改定
  授業料を月額3円50銭に改定。前年、米価が暴騰して各地で米騒動が起きるなど物価は不安定になっていた。これより前の12年、東京大学の授業料は年額35円、早大年額50円。慶大年額48円(いずれも文系)だった。

☆ 明治40年に逆算して、東京大学の授業料は月額約3円。早大月額約4円。慶大月額4円。


漱石が買った半襟と帯揚げは、たしかに高価ではありましたねえ。
きっと刺繍入りの立派なものだったに違いありません。

帝大出の漱石の給料も書いておきましょう。

明治28年 松山中学英語教師 月給80円。(校長は50円でしたから破格の高給でした) 

明治40年 朝日新聞社入社 月給200円。



店のPR

「京都の「ゑり善」は、半襟の専門店として、400年以上も昔の天正12年に創業。次第に高級呉服、和装小物も扱い、上流階級婦人方に愛される店として地位を築く。京都本店のほか、銀座、名古屋の計3店舗。名古屋店も。」





by tsubakiwabisuke | 2007-07-24 14:31 | 夏目漱石
2007年 07月 14日

公式サイト掲載記事へ 諸先輩の方々からご感想をいただいて

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祇園新橋の多佳女をしのぶ歌碑

昨日、IT新聞のコラムが更新され、拙記事が掲載されました。

夏目漱石の縁(えにし)祇園と多佳女

私には尊敬する大先輩ともいうべき漱石研究家の方々と、もう長らくお付き合いをいただいております。みなさま碩学でいらしってこの方面の大家でいらっしゃいます。いつも過分のお励ましをいただく身には、勿体ないと恐縮することが多いいのです。

その中から差しさわりのないものをご披露させていただきましょう。
そのいくつかは、掲示板の書き込みになるコメントもございます。



new 2007/07/15 06:56 内田道雄様 (学芸大学名誉教授・漱石研究家)

 椿様。

 早々のお知らせにもかかわらずご返信遅くなりました。全集読み直す必要を感じまして時間が掛かった次第です。この標題での椿様のご見解は誠に穏当・妥当と感じました。やはり京都にお住まいでいらっしゃってその土地柄や人柄を知悉していらっしゃる事から自ずと滲み出る説得力があって読者を魅了します。病身で神経質・気位ばかりは一人前という漱石を、その作品への傾倒ゆえに大らかに受け止めて何と!「大友」での看病をも喜んで引き受ける36歳の多佳女。西川一草亭・津田清楓兄弟や鏡子夫人らの依頼があったにせよ、、これは稀有の美談でもあります。ここを椿さんは「終始同じ人間として」の「親しみ」という平易なことばで捉えています。
 これは後の漱石の二通の手紙でも訴えられている「切望」でもありました。(私はこの二通の多佳さん宛漱石書簡には歳若の弟めいた「甘え」を感じてしまいます。)
 椿さんの独壇場は漱石の「春の川」の句の解釈です。旧来の二方向の解釈をいずれも包容しながら「多佳さんに、感謝のきもち」を込めて書いた、と、これは正確なご指摘でもあります。句の成立を追って作品のふくらみを明かすここの一段はご文章につやがあって素晴らしい、と思いました。
 吉井勇の歌碑と対応させて美麗な写真を並べて下さっておられます。京都の町々(今日は嵐ですが・・・)を思い描きながら、鴨川の向こう側を思いやるように漱石句碑の呟きを私なりに心中で辿ってみようと思います。
 唐突のようですが「男と女のあいだには深い川がある」(野坂昭如)のあの歌も連想されますね!

内田拝




名前:namazu 2007年07月12日(木) 00:01 なまず様 (元新聞記者)

「夏目漱石の縁 祇園と多佳女」わびすけさんならではの話題ですね。わかりやすく、おもしろく読ませていただきました。漱石のとまどい顔が透けてみえます。ほんとうのところ漱石は京都が好きだったんですね。




by 鯰 at 2007-07-11 23:30 x

 飾り気なくしんが強くてしなやか。多佳女さんの話 興味深く読ませていただきました。読んでいくうちに「京女」とはこんな女性のことを言うのだろう、と変に納得しました。
 東男の漱石が魅せられたのもむべなるかな、とも思いました。 京歩きでの楽しみがまた ひとつ増えました。 ありがとうございました。




2007/7.14 03:50 松岡陽子マックレイン様 (オレゴン大学名誉教授)

伊津子様

 『漱石の縁、祇園と多佳女」お送り下さり有り難うございました。丁度今自宅の庭で紫陽花が咲き始めたので、多佳さんを偲び、面白く読ませて頂きました。京都の友人が、かなり前ですが、自宅に来られた時、アメリカは何でも巨大だけれども、紫陽花だけは日本のものの方が、ずっと大きくて立派だと言ったことが記憶に残っていますが、本当にこちらの紫陽花は日本のほど立派ではありません。多佳女が愛したのは、その大きくて立派な紫陽花ですね。いくら肥料をやっても自宅の紫陽花は大きくなりません。きっとこの花は多佳さんと同じように、しとしと降る雨、湿気を好むのでしょう。この辺りでは紫陽花は六月から七月にかけて咲きますが、空気が乾燥しているため、大きくならないのかもしれません。紫陽花で詩を詠むということもあまり聞きません。

 また数年前に京都に伺い、祇園祭りを見せていただいたことも懐かしく思い出しました。「京都漱石の会」が発足、京都と漱石について、ぜひもっとお書き下さい。「坊ちゃん」から漱石を江戸っ子としか考えない読者が多いと思いますが、彼が京都の静かな町を愛したことが、この伊津子様の文でもよく分ります。

陽子



2007/07/06 05:59 ヨーコ マックレイン (漱石のお孫さま)

伊津子様

 精中忌での、美しい紫のお召し物でのお手前のお写真有り難く拝見させて頂きました。お家元の前で次席として堂々となさっているところ、いつものことながら本当に感心してしまいます。また歌もお詠みになるのですね。まったく伊津子様には、いつも感嘆させられることばかりです。

 私は自分が無調法者で、雅やかというのでしょうか、風流というのでしょうか、ともかく、そういうことに、まったく疎いので、そのようなことの他にも、最も近代的なコンピューターの知識も深い、つまり古今の業(わざ)に通じていらっしゃる伊津子様を尊敬申し上げるのです。

陽子


2007/06/21 01:25

伊津子様

 京都の風流を愛した漱石
 早速読ませて頂きました。とても素晴らしいです。それですぐ「この記事が気に入ったら…」というところを押しました。私も漱石は京都を愛したのだと思います。京都と漱石について書けとおっしゃいましたが、伊津子様がもうすべてお書きになりました。ですから、書く時が来たら何か他のことを書かせて下さいませ。

 参考になさった小林孚俊樣には私もお会いしました。とても良い方で、1985年でしたか86年だったかよく覚えていませんが、私がこちらの学生を連れて早稲田大学に二年ほど行っていた時、四月二十九日の「鎌倉漱石の会」に連れて行って下さいました。講師は女流作家でした。その頃もうかなりのお年だったので、蔵書を古本屋に二束三文で売りたくないとおっしゃり、ご親切に皆私に下さったのです。それで私は丸通を雇い、幾つかの大きな箱に入れてアメリカに送り、大変有り難く長年重宝させて頂きました。

 そうそう、アメリカに住むので、私はいつも滿で数えて,漱石は四十九歳で他界したと言います。荒正人氏の年表は数え年なので、いつも滿に直します。日本はまだ数え年を使いますでしょうか。

 あっ、今、庭の掃除をしてくれる若い人が来ましたので、ここで失礼致しします。それではまた。

陽子




伊豆利彦様 (横浜市立大学名誉教授)

2007/07/13 10:43
椿 わびすけ様

 エッセイ拝見しました。漱石と多佳女ん対する愛情がこもった文章だと思います。
 私は漱石の手紙で知っているだけでどんな女性かと思っていました。
 あなたのエッセイで二人の関係がわかり、あの手紙の意味もいろいろ考える手がかりをあたえられました。ありがとうございます。

 京都漱石の会発足の由、活発なご活動には深い敬意を表します。
 ご成功を祈ります。
 ただ、このごろは、脳力極度に衰え、文章がかけるかどうかわかりません。
 
 ホームページも多彩なものになり、ご努力に感銘しています。
 今後のご発展をお祈りします。

      伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/


◇◇◇◇◇

ブログのコメント欄にご投稿くださっております皆さまにも、心より御礼申し上げます。
ありがとうございます。







by tsubakiwabisuke | 2007-07-14 14:50 | 夏目漱石
2007年 07月 11日

夏目漱石の縁(えにし) 祇園と多佳女

元大手の新聞記者でいらしたYさんからお便りがまいりました。

「多佳女さんのこと初めてうかがいました。北野の観梅に誘った祇園の女性に断られて落ち込んだ漱石の話はどこかで読みました。「虞美人草」をもう一度読み返してみます。」

 Yさんはこのtsubakiコラム、先の拙稿をご覧の上ご感想をお寄せくださったようでした。漱石と祇園ということは、担当でない分野であまり知られていない内容であったのかもしれません。

 多佳女と漱石についてはかなり多くの論評がなされています。
「漱石は花街に無理解な人間だ。」「漱石という人間は京都にしっくり来ない。」「お茶屋・廓と漱石とはイメージが合わない。」

 さあ、真実はどうなのでしょうか。漱石が祇園を訪れたのは何時だったか?多佳女を知り付き合うようになったそもそものいきさつは?
 漱石が多佳の「梅見」の件で立腹したこと、その時代背景も考えながら私は漱石が多佳に何を語ろうとしたかに触れたいと思います。

祇園・一力の大石忌

 漱石がはじめて祇園にきたのは明治四十年。兄事する狩野亨吉の住む下鴨の家へ逗留した漱石のもとへ、高浜虚子がやってきて祇園に誘い出したのでした。

 万亭(一力)の大石(内蔵助)忌が行われている時で、漱石は13、4歳の二人の舞妓とひと時を過ごしています。虚子の文によれば漱石は父親のような眼差しで接したようです。

 大正四年春、今度は西川一草亭の案内で再び漱石は祇園を訪れます。やはり一力の大石忌です。一草亭はその時の漱石を次のように述べています。

「祇園の一力に大石忌があったので、それを見に行った。古風な座敷に並べた遺墨を見て、舞子の運んでくるお茶をよばれたり、庭で蕎麦をよばれたりした。帰りに「こんな茶を」よんだり、そばを食はせたり、懸物を見せて入場料を取らないのかね。京都といふ処は実に不思議な土地だ」といって驚いて居られた。」

 東京では到底あり得ないことが京都では行われている…。漱石にはなんとも不思議な光景に映ったと見えます。けれどもこうしたもてなしが受けられたのは、訳がありました。一力の女将はお茶屋「大友(だいとも)」の姉娘であり、そうしてその妹娘であったのがお多佳さんだったのです。

 津田青楓画伯の実兄・西川一草亭という案内人によって、漱石は賀茂川べりの旅館・北大嘉に滞在し、川向こうのお茶屋「 大友」の女将である多佳女と付き合うことになります。

漱石が多佳女に出会う

 漱石が多佳女に出会った時、漱石は48歳。多佳は36歳でした。しかし、これより約10年前に多佳は芸妓を止め、浅井忠から依頼されて、浅井の経営する陶器店「九雲堂」を手伝っていた時代があります。多佳はその店で自ら絵付けをして出来た湯飲みを漱石へ人づてに贈っているのですが、漱石のほうでは自分の愛読者たちが当時から京都にいることを日記に書いています。

 浅井忠は漱石の英国留学時代に付き合いのあった洋画家であり、多佳と漱石とは全くの無縁の間柄ではなかったといえましょう。そのえにしが急に接近したのはこの大正4年の京都旅行でした。旅のきっかけは、鏡子夫人が津田青楓へ漱石を保養がてらに連れ出してほしいとこっそり依頼したのでしたが。

 鏡子夫人は、夫の持病であった胃病の好転をねがって、ゆったりとした京都旅行をして来てほしいと津田に話したことを、漱石はもとより知る由もありませんでした。
 
 漱石が日本画を描くに当たってよい相談相手になり、漱石の心酔者であった津田青楓が故郷である京都に住居を移したこともあって、漱石の保養を兼ねた旅が実現しました。

 この当時は、多佳は母の経営するお茶屋「大友」を継ぎ女将となっていました。かねてからひそかに尊敬し愛読していた文豪の上洛です。津田の仲介により漱石が宿にしていた北大嘉で、多佳へ声がかかった幸運を多佳は感激したのです。

 そもそもの出会いがいわゆる遊里の芸妓と旦那客といった関係でなく、漱石は終始おなじ人間として親しみ深い態度で接しています。その後。漱石はひどく体調を崩し大友に二晩も寝込む事態になります。多佳がかいがいしく看病し、病気が落ち着くのを待って漱石は京都を離れました。都合29日間の京都旅行でした。

多佳女に与えた俳句

 大正4年3月下旬、祇園のお茶屋「大友」の磯田多佳女に与えた色紙。

「  木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに

   春の川を隔てて男女哉   漱石    」

 この句には、なにか天の川を隔てて男が女を想うロマンがあると見る向きもあるようです。たしかにどこか甘美なひびきがありましょう。また一方、漱石は男と女の間にある隔て、心理的な溝の存在を示唆しているのだとする見方もあります。

 そのどちらの見方も真実と思います。漱石の作品は読者がそれぞれに受け取ることを想定して書かれており、作者の主張を一色に表現していないからです。後者の見解は、この句が書かれた時、漱石は多佳女が梅見の約束を守らなかった時に作った句であるがゆえに、その心の間隙を詠んだものと見るのです。

 私は、漱石が立腹したことがあったにせよ、ここ京都の地で親身になって世話をしてくれた祇園の女将であるお多佳さんに、感謝のきもちでこの句を書いて与えたのだと強く感じるのです。そこに文豪・漱石の真面目(しんめんぼく)を見る思いです。

風流・閑適を愛した漱石

「明窓浄机、これが私の趣味であろう、閑適を愛するのである」
大正3年3月、朝日新聞『文士の生活』の一節。

 
「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、
人の心を豊かにするが故に尊い。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、
有難い世界をありのままに写すのが詩である、画である。」
『草枕』

 漱石のこの京都旅行について、鏡子夫人は『漱石の思ひ出』にこう述べています。漱石が寝込む前のことです。
「今まで西川さんや何かに何くれととなく御厄介になった、そのお礼心にどこかで一夕お招きしたいといふので、お多佳さんのお家で舞妓の踊りでもといふ段取りをつけて、それには金が少し足りそうにないので、すぐ百円ばかり送ってくれろと申して来ましたのでそれを送りました。」

 鏡子夫人は、漱石亡き後も京都にくれば必ずお多佳さんを訪ね、付き合いは長く続いたようでした。

画像はこちらに

磯田多佳のこと

 祇園は京都では独特な読み方で花街(かがい)という古風な地域です。伝統の礼儀正しいしきたりが今も守り続けられているのは、五花街の中でも祇園甲部が一番といわれています。
 
 都をどりは祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞(まい)の会です。明治5年(1872年)に京都博覧会の際に創演され、時の京都府槇村知事が歌の作詞を書き、井上流家元、井上八千代が振付した京都をあげての町興しでした。東京遷都のショックから立直るための大イベントだったのかもしれません。

 今なお、都の誇りを掲げる伝承がここに生きている祇園町。その祇園甲部にあって文芸芸妓とうたわれ、著名な文人たちの集う文芸サロンとなっていたお茶屋「大友(だいとも)」の女将であった多佳女…。

 磯村たかは、明治十二年(1879)、 祇園新橋のお茶屋の二女として出生。父親は下級武士の出で、芸妓であった母親の名はとも。その名前をとって屋号が出来たようです。茶屋といっても暗い環境ではなく平穏な家庭に育っています。美しい芸妓の姉は万亭(一力)に嫁ぎましたが、多佳は三味線の弾き手となり、和歌や絵を熱心に学びました。

 蓮月尼の門人であった歌の師上田重子についていましたが、多佳を養女にと望まれた程、歌の才にも恵まれていたのでした。若き日にはこうつぶやいたそうです。

「一に器量、二に芸…といわはりますけど、祇園の女は器量だけやない思いますんや。」

 しかし、花街の芸妓という期間は多佳が23歳ころまでで、すぐに母の経営になる「大友」を継いで女将となっています。それゆえ自由に行動できた面があり、他の芸妓と同じには語ることは出来ないのです。

 和歌とともに、俳句も学んだ多佳はつぎの作品を遺しています。

散る花の それたにあるを 中々に ととめかねたる 人いかにせむ

梅咲くや わすれられて はや二年越し

だまさるる 身はおもしろし 宵の春

死ぬといふ 女のくせや ほととぎす

 歌にも句にもはかなさが漂い、花柳界に生きる哀愁と達観すら感じられるのではないでしょうか。着るものも地味で縦じまの紬のきものを好んでよく着ていたといいます。

 多佳は終生、雨の日と紫陽花の花を好んだといいます。巽橋のかかる白川辺の元あった「大友」の庭には紫陽花が植えられていた由。そして、昭和二十年(1945)5月に多佳は養子又一郎の家で静かにみまかったのです。

 やはりこの日も雨が降り、紫陽花の花がうつくしく咲いていたと、『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』の著者、杉田博明氏は書かれています。

 それでは、お多佳さんに贈られた文人客の手向けの歌をここに。

あじさいの 花に心を 残しけん 人のゆくへも しら川の水
・・・・谷崎潤一郎

年ごとに 君がこのめる 紫陽花の 花は咲けども 多佳女世になし
・・・・吉井 勇

参考文献
岩波『漱石全集』より『日記・断片』『書簡』『漱石言行録』。
夏目鏡子『漱石の思ひ出』。西川一草亭『瓶史』。杉田博明『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』

◇ 

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by tsubakiwabisuke | 2007-07-11 16:51 | 夏目漱石
2007年 06月 26日

あじさいの雨 多佳女のこと

生きものに感謝「放生会」 (京都市) …大橋昭博さん撮影(京都府)

京都・祗園で6月3日に行われた放生会(ほうじょうえ)。舞妓らが金魚を川に放流生きものへの感謝の心を示す。(yomiuri)
http://www.yomiuri.co.jp/vbox/index/list/toukou103.htm

リンクさせて頂きましたかつて「大友」のあった付近。白川、巽橋の動画です。感謝!

http://megalodon.jp/?url=http://www.yomiuri.co.jp/vbox/index/list/toukou103.htm&date=20070625000832

祇園は京都では独特な読み方で花街(かがい)という古風な地域です。伝統の礼儀正しいしきたりが今も守り続けられているのは、五花街の中でも祇園甲部が一番といわれています。

都をどりは祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞(まい)の会です。明治5年(1872年)に京都博覧会の際に創演され、時の京都府槇村知事が歌の作詞を書き、井上流家元、井上八千代が振付した京都をあげての町興しでした。東京遷都のショックから立直るための大イベントだったのかもしれません。

今なお、都の誇りを掲げる伝承がここに生きている祇園町。その祇園甲部にあって文芸芸妓とうたわれ、著名な文人たちの集う文芸サロンとなっていたお茶屋「大友(だいとも)」の女将であった多佳女…。

磯村たかは、明治十二年(1879)、 祇園新橋のお茶屋の二女として出生。父親は下級武士の出で、芸妓であった母親の名はとも。その名前をとって屋号が出来たようです。茶屋といっても暗い環境ではなく平穏な家庭に育っています。美しい芸妓の姉は万亭(一力)に嫁ぎましたが、多佳は三味線の弾き手となり、和歌や絵を熱心に学びました。

蓮月尼の門人であった歌の師上田重子についていましたが、多佳を養女にと望まれた程、歌の才にも恵まれていたのでした。文学と絵画に知識を深めて行ったことも文人客を喜ばせることになりました。

花柳界のなかで、器量のいい芸妓ではなかったとしても、誠実な愛をもって生きたひとりの才ある女性としていつまでも人々の心に生き続ける多佳女。若き日にこうつぶやいたそうです。

「一に器量、二に芸…といわはりますけど、祇園の女は器量だけやない思いますんや。」

私はをんなのたおやかさ、芯の強さ、清冽なものを水の音さえ聞くように感じました。

その多佳は終生、雨の日と紫陽花の花を好んだといいます。巽橋のかかる白川辺の元あった「大友」の庭には紫陽花が植えられていた由。そして、昭和二十年(1945)5月に多佳は養子又一郎の家で静かにみまかったのです。

やはりこの日も雨が降り、紫陽花の花がうつくしく咲いていたと、『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』の著者、杉田博明氏は書かれています。


それでは、お多佳さんに贈られた文人客の手向けの歌をここに。


あじさいの 花に心を 残しけん 人のゆくへも しら川の水・・・・谷崎潤一郎

年ごとに 君がこのめる 紫陽花の 花は咲けども 多佳女世になし・・・・吉井 勇


◇ 

2006/06/17 京都 東山区 祗園町 南側


IT新聞tsubakiコラムに掲載された拙記事です。






by tsubakiwabisuke | 2007-06-26 13:20 | 夏目漱石
2007年 06月 19日

京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々

画像はこちらへ。昭和41年11月9日句碑建立。除幕式は翌年の 昭和42年4月9日に。

京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々

しばらくお休みしていたIT新聞のtsubakiコラムに、今日拙文が掲載されました。



磯村多佳は、明治43年7月発行の『新小説』の「代表的婦人」という欄に、上村松園、鳩山春子、福田英子、平塚明子、などの各方面で活躍中の女性の紹介記事があり、多佳女の名前はその中に見えるのです。

新橋縄手東入妓楼「大友(だいとも)」に生まれた多佳女は、祇園一力の女将おさだの実の妹で幼少のころから読書を好み、歌と俳句を学び絵は浅井忠に師事。一時文芸芸妓の名が高かったといいいます。


すみません。この続きは夜、書くことにしますね。






by tsubakiwabisuke | 2007-06-19 19:04 | 夏目漱石
2007年 06月 16日

鴨川の畔に建つ漱石の句碑はこのようにして

漱石と京都

明治二十五年 夏

子規と京都に遊ぶ

明治四十年 春

朝日新聞社入社のため上洛 狩野亨吉邸に泊す

虚子と遊び「虞美人草」等の取材を得 後 春はものゝ句になり易し京の町 の句もあり

大正四年 春

旅亭 大嘉(この付近)に泊し 一草亭 青楓らと仕事の疲れを医す

漱石病み 祇園の磯田多佳ら看病のことあり

句碑の 春の川を隔てて男女哉 は三月 多佳におくった句である。

昭和四十二年四月九日 


以上の銘文は京都漱石句碑の会が、漱石を敬慕する有志の方々の浄財をもって建立した句碑の事由をしるしたものです。鎌倉漱石の会を創始し代表であった鎌倉在住の内田貢氏が京都にもと考えられ実現したのでした。

昭和42年2月9日(旧暦では1月5日)は、漱石生誕100年になるのでした。けれども除幕式は2ヶ月後の昭和42年4月9日、漱石生誕100年を記念碑として行われました。
京都にて漱石句碑除幕式。

(京都滞留の宿屋跡の句碑。京都市御池通東端川畔)

大正4年3月下旬、祇園のお茶屋「大友」の磯田多佳女に与えた色紙。
「     木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
    春の川を隔てて男女哉   漱石       」


発起人は漱石ファンの篤志家18名。
秋山、阿部、石村、磯田、今来、内田、金子、北山、小石、小林、高山、津田、中島、西川、三浦、山口華、山口昌、山本、の諸氏でした。

当時、高山市長のお名前もみえています。地元の京都を主として全国から集まった篤志家の寄付金で建立された比叡山の形の八瀬・真黒石の句碑。京都を代表する発起人の中島氏は祇園甲部の取締役でした。

北山氏の司会、鎌倉円覚寺帰源院富澤住職による禅式の「開碑香語」。多佳女のお孫さんの磯田日出子嬢の序幕。小林氏の「春の川」句朗読。内田氏の経過報告。京都市文化観光局長の石堂氏の祝辞もありました。


この日は春雨のなかに句碑はしっとりと、黒く自然石のかがやきをもって漱石生誕100年顕彰が行われた一日であったといいます。


その後、この句碑は京都漱石句碑の会から京都市に寄付されました。私は市の観光課に問い合わせたところ、つい先日以下の回答がありました。

「京都女子大学、堀井氏により、平成9年3月10日、京都市へ寄付の申し出があり。寄付受納、4月10日。」

ところが、当時はあった駒札も今はなく、管理も手がまわらないのでしょうか。京都市民が殆ど漱石句碑を知らない、気づかないといった現状なのです。

たいへん残念なことと思います。

これをお読みくださったみなさまは如何お感じになりますでしょうか?

なお、句碑の銘板には、書かれていないところがあります。 明治四十二年(一九〇九)十月、漱石は二日間だけ大阪から京都に立ち寄っています。

10月15日、朝鮮(満韓ところどころ取材)から船で下関港。下関発京都行きの一等寝台で大阪へ向かう。人力車で大阪朝日新聞社に行き、夕方京都へ。三条小橋西の万屋に宿泊。翌16日は嵯峨や北野天満宮などを見る。

面白いのは、電車で四条の襟善に行って買い物をしているのです。その買い物とは半襟と帯揚げなど、鏡子夫人やお嬢さんがたへのお土産だったのでしょうか。漱石のやさしさが感じられます。そしてこの夜、東京に発っています。




参考文献

小林孚俊氏の私家版『漱石と多佳女』(昭和61年4月9日)

内田貢氏の「夏目漱石と帰源院」

荒正人氏「増補改訂・漱石研究年表」







by tsubakiwabisuke | 2007-06-16 14:09 | 夏目漱石
2007年 05月 15日

台湾の漱石ファン

内田道雄氏(学芸大学名誉教授)をマックレイン陽子さんにご紹介させていただいたのは、陽子さんのお父上である松岡譲氏と内田さんのお父上様が長岡でご懇意でいらしたということもございました。

先月の末に、漱石ゆかりの東大構内、三四郎池や地下の学生用の食堂メトロにもご案内いただき、3人で親しくお話したなかに、台湾の大学で講演をされたということをお聴きいたしました。

漱石ファンがかの地で健在であるということにほっとして懐かしい気持ちになったものです。近隣諸国の反日キャンペーンをマスメデアが報じて心を痛めていたのでした。

最近、このような明るいニュースもございました。

http://megalodon.jp/?url=http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070508ij21.htm&date=20070509131753


第1回後藤新平賞に李登輝前台湾総統
 日本の近代化に尽くした政治家後藤新平(1857~1929年)にちなみ、国家や地域の発展に寄与した人に贈られる「第1回後藤新平賞」に、前台湾総統の李登輝氏(84)が決まり、8日、発表された。


 李氏は1923年生まれ。旧台湾総督府の民政局長を務めた後藤とかかわりの深い台湾で、台北市長や台湾総統として近代化に貢献した点が評価された。授賞式は6月1日午前10時、東京・六本木の国際文化会館岩崎小弥太記念ホールで行われる。同賞は、満鉄総裁、外相、東京市長などを歴任、スケールの大きな政策を構想した後藤の生誕150周年を記念して「後藤新平の会」が創設した。

(2007年5月8日22時51分 読売新聞)


近隣諸国との友好をねがう意味でも、かの地で漱石の研究も健在であることを素直に喜びました。以前、このブログで私は後藤新平について触れておりますので、ひとしお感銘を覚えたのです。


内田氏に是非、台湾でのご講演の概要なりとお知らせいただきたいと申しましたら、ご丁寧なワードを送ってくださいました。講演の内容は、春樹の小説を100冊読んで書いたとおっしゃっておりました。

皆さま、どうぞお楽しみになっていただきますよう!




『ノルウェイの森』談義――村上春樹と夏目漱石――      内田道雄
2007.3.31於高雄空中大学

1.前置き(個人的な・・・・)「蛍」のこと 
               全共闘世代・新人類世代・オウム世代 
小浜逸郎「オウムと全共闘」 
               アイルランドに居る喩智官さん!

2.「手記」という「枠組」  終末から冒頭までの「空白」
               
3.ストオリイとプロット   空間(郷里から東京へ)・時間(個人と時代)
               『三四郎』との対応
               セラピー小説か、Bildungs-romanか
               歴史的事実との対応

4.おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。(第四章)

5.直子と緑         「緑の父親」のエピソード(第七章)

6.ハツミさんで始まる物語 「反実仮想」の物語
それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた〈僕自身の一部〉であったのだ。(第八章)

7.村上春樹と夏目漱石   『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』
ぼくが『ねじまき鳥クロニクル』を書くときにふとイメージがあったのは、やはり漱石の『門』の夫婦ですね。ぼくが書いたのとはまったく違うタイプの夫婦ですが、イメージとしては頭の隅にあった。

8.世界における「村上春樹現象」とは?

9.「ノルウェイの森」Norwegian Wood(This bird has flown.)
「3.ストオリイとプロット」の1節

神戸という郷里からの上京と、学生寮での共同生活という選択は漱石の『三四郎』と同様に「自己形成」を目指す、また目指さざるを得ない青年の普遍的なありようでもあります。『三四郎』が備えたBildungs-romanの構造をこの作品も示しているのは確かです。漱石がこの作品連載の直前に発表した「予告」にあるように、色々な人との出会いの中で主人公は変化し屈折し成長を遂げるのであります。Bildungs-romanの語の代表的な訳語は「教養小説」ですが、それよりもふさわしい訳語はここでも「自己形成小説」でしょう。そして両作品に共通の浮動的な結び(いずれもが、自問自答で終わる。)について言うと、「遍歴小説」という呼び名が最も相応しいかも知れません。「遍歴」と言えば2作とも「女性遍歴」がメインのプロットです。本作の神戸の女性~直子~緑~ハツミさん~レイコさんとの交渉は(後述の「ハツミさん」を除き)セックスの関係で結ばれていますが、漱石の主人公の場合はその要素は殆ど表に出ておらず手が触れ合うくらいです(*4)。しかし九州の「お光さん」~美禰子~よし子、と役割が書き分けられているのは興味深い対照です。直子の病的な内閉性と美禰子の謎めいた挙措(露悪と偽善の二面性)、これに対して緑の天真爛漫ながら現実的智慧に裏打ちされた堅実さとよし子の母性的な雰囲気、それぞれのレベルでの対応関係が主人公の世界の必須の構成要素とされています。

『三四郎』が、日露戦争後の世情不安をバックに据えて車中の女や轢死する女を点描している点は村上春樹の作品の方で「大学紛争」を設定として持つこととの対応が直ぐに発見できるのですが、『三四郎』はさて置いて、本作の場合歴史的事実としての「大学紛争」が、それに関わる個々のモティヴェーションの差異によって、多様な後遺症を齎していることを見ておかなければなりませんね。

「7.村上春樹と夏目漱石」の1節

各所に漱石への言及は見られますが、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』には、漱石読みの河合氏の示唆もあって数多くの発言が見られます。『スプートニクの恋人』には、「夢十夜」の第一夜のイメージの活用(「ミュウの真っ黒な瞳の奥に映っている自分自身の鮮やかな姿を、すみれは目にすることができた。」3)があるその直後の章(4)に「なんだか『三四郎』の冒頭の話みたいだな・・・」という「目くばせ」めいた記述があったりする。「ノルウェイの森」に関しては、その原型をなす「蛍」と「こころ」の対比を試みた渥美秀夫の画期的な論(1992.12『愛媛国文研究』)を嚆矢として、同じく平野芳信の「話型論」からする「最初の夫の死ぬ物語」があり、更に「三四郎」を中心に漱石の時間意識との対応関係を論じた半田淳子の逸論が存在する。『翻訳文学ブックカフェ』で新元良一のインタヴューに答えて、

夏目漱石なんかは好きなんですよ。でも戦後文学みたいなのはだめ。(中略)いわゆる文芸日本語がよめないから。

もっとも大江健三郎の「死とセックス」を初期は回避してきたが、本作では活用してきた、というあたりおのずからシタタカな作家的本性を露呈している。この本で面白いのは、レイモンド・カーバー、フィッツジェラルド、チャンドラー等翻訳の対象作家を論じる中で「ドストエフスキイのカラマアゾフの兄弟はぼくの北極星」と述べている部分である。カラキョウなど言う現代風の略語を親密感込めて使う作者である。村上訳ドストエフスキイ出現の可能性が期待できるのです!





拙ブログ

中国と日本、孫文が日本へ期待したこと そしてイギリス







by tsubakiwabisuke | 2007-05-15 18:27 | 夏目漱石