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カテゴリ:夏目漱石( 52 )


2007年 12月 18日

マックレイン陽子さんが書かれたゲスト帳


漱石忌って申しますと、大正五年(1916)年十二月九日、夏目漱石が四十九歳の生涯を終えた日のことをいうようです。毎年十二月九日なのですね。
ことしの漱石忌は丁度日曜日に当たりましたので、北鎌倉の円覚寺・帰源院には全国から多くの漱石愛好者が集まりました。主催される方々のご苦労に頭がさがります。


松岡陽子マックレインさんはオレゴン州からこの日のために来日。鎌倉漱石の会が行う例会の午後の講演を担当されました。私は先生と二泊三日同じ宿舎で過ごしましたので今年の師走が特に印象深い月になったと思います。愛猫を見送ったあとの寂しい時間を遠くに置いてきたような癒される日々だったのです。


2001年秋におめもじしてから私のゲスト帳には、松岡陽子マックレインさんのことばが流麗な筆跡でしるされています。最近のページをご披露いたしましょうか。

「この度は伊津子様のご紹介で十二月九日の第九一回「鎌倉漱石の會」で 「漱石と鏡子夫人」というお話をさせて頂きました。

この会では丁度四十年前に父松岡譲もお話させて頂いたそうで大変光栄に思いました。

三百人近い聴衆が全国からおいで下さり、美しい青空と紅葉に囲まれ、なごやかな集会になったと思いました。

集会後は、朝日新聞社の三人の編集の方々と伊津子様と五人で東慶寺を訪ねました。

松岡陽子マックレイン                       」


写真も撮っておりますので後から挿入することにいたしましょう。何よりご講演の内容がスパっと切れ味がよく、表裏の無い真摯なものであったことを喜びたいと思います。これは録音しておりますのでいずれ。。。今日はとりあえず陽子さんのメッセージのみお伝えいたします。






by tsubakiwabisuke | 2007-12-18 00:14 | 夏目漱石
2007年 12月 08日

漱石忌 松岡陽子マックレイン先生来日


先般、朝日新聞社からお出しになった『漱石夫妻 その愛のかたち』の著者、松岡陽子マックレインさんの講演が行われることは、拙サイトのBBSでお知らせしておりました。

いよいよその日が明日になりました。漱石忌の12月9日、鎌倉・帰源院へ参ります。

知人の矢山さんが新著の関連記事をお書きになっていますのでここでそれをご紹介いたします。

孫娘が見た漱石と鏡子夫人

http://www.ohmynews.co.jp/news/20071022/16429






by tsubakiwabisuke | 2007-12-08 06:10 | 夏目漱石
2007年 10月 18日

漱石の悪妻説をくつがえす!新しい女性の目線で考え直す

日本経済新聞のすぐれた掲載記事をここで紹介させていただきたいと思います。

http://waga.nikkei.co.jp/hobby/study.aspx?i=20071015i1000i1

漱石の私物・メモ集めた大回顧展 

文豪・夏目漱石(1867~1916)が生誕140年、プロ作家になって100年という節目の年に、漱石を深く知るのは興が深い。東京・両国の江戸東京博物館では東北大学所蔵の手紙、蔵書などを中心に約800点を集めた特別展「文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし」が開かれている。漱石の直筆原稿の廉価版や、孫娘が書いた夫婦論も出て、「生」の漱石に触れる機会が広がっている。

<中略)

『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新聞社刊)では、孫娘に当たる比較文学研究者の松岡陽子マックレインさんが祖母や母からの聞き伝えをたどって、家庭人・漱石のイメージをつづった。孫娘しか知り得ない人物像をもとに、漱石一家の家族イメージをとらえ直している。著者の父は漱石門下の作家・松岡譲で、母は漱石の長女・筆子だ。

 鏡子には過去、「悪妻」説がつきまとってきたが、近年の研究や、家族の文章からは、こうしたそしりにはあまり根拠がないという指摘が出ている。『漱石夫妻 愛のかたち』でも著者が知る祖母の実像が紹介され、漱石作品に描かれた妻像も参考に、漱石夫婦の間柄の読み解きを試みている。

◇ ◇ ◇

税こみ 735円 の朝日新書です。

ソクラテスの妻が悪妻といわれて有名ですが、日本では漱石夫人がいろいろ噂されてきました。
しかし実際は、漱石が亡くなった時39歳であった鏡子夫人は残された6人の子供を女手ひとりで育てあげた健気な女性でした。
漱石は当時から、愛人の存在が全くない作家 だということも知られていたのですが、妻には厳しい態度をとるときにも漱石は終始妻を裏切ることがなかった男性でした。

臨終の時には、妻と6人の子供。多くの弟子たちに囲まれ見守られながら49歳で逝った文豪の最期は、若すぎて惜しみても余りあるものでしたが、人間としては幸福な最期でありました。

そうした漱石を病める時にも必死で支えた妻は、夫の亡骸(なきがら)を公共の医学研究に資するため解剖を申し出たということを考えましても、いかに女性として強靭な精神の持ち主だったかに驚きを禁じえないのです。



漱石山房のある早稲田町の祖母の旧宅で産まれた松岡陽子マックレインさん。
今では貴重な生き証人であり、祖母の思い出と漱石長女の母・筆子さんから聞いた漱石夫妻の実際のすがたが生き生きと、比較文学の研究者らしい客観的な筆致で描かれています。

悪妻説を流布させたのは多く弟子たちだったようにも聞きますし、評論家の中にはそれを元に無責任に書いた方もあったのはないでしょうか。しかし、反論すべき方は殆ど他界され公正を期すことも難くなっていくのが現状と思います。

今日あらたな目線の漱石論へと発展することも考えられる、注目すべき一冊だと読者のひとりとして感銘したことを申し添えたいと思います。







by tsubakiwabisuke | 2007-10-18 14:53 | 夏目漱石
2007年 10月 13日

愛の人・漱石の真の姿を描いた マックレイン陽子新著『漱石夫妻 愛のかたち』

松岡陽子マックレインさんのご本が発売されました。朝日新聞社「朝日新書」70回目の記念すべき本です。書き下ろしもフレッシュならラッキーセブンのナンバー70もナイス!

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内表紙の説明文はとっつきやすく、然も格調をもってこの本の内容を見事に表現しています。以下そのコピーを。画像は紀伊国屋書店サイトのものです。

漱石の夫婦愛、漱石の親子関係、漱石と家族観―

死後90年以上たっても読み継がれる文豪の素顔。
愛の人・漱石の真の姿が、孫娘の筆で、浮かび上がる。


第1章 漱石について聞いたこと、思ったこと(借家住まいの漱石;漱石生前の経済状態;おしゃれな漱石 ほか)
第2章 祖母鏡子の思い出(祖母という人;鏡子の戸籍上の名前はキヨ;気前のよかった祖母 ほか)
第3章 母筆子の思い出(母筆子と祖母鏡子;私の人生で一番影響を受けた人は母;母の愛 ほか)

☆筆者紹介

松岡陽子マックレイン[マツオカヨウコマックレイン]
1924年東京生まれ、父、作家松岡譲、母、夏目漱石の長女筆子。1945年津田塾専門学校(現在津田塾大学)卒。1952年ガリオア(現在フルブライト)資金で米国オレゴン大学に留学。当地で結婚、そのままオレゴン州ユージン市に残る(夫Robert、1990年に死去)。一男出生後、大学院に戻り比較文学専攻。1964年から1994年まで30年オレゴン大学アジア言語文学部で日本語、近代文学の教鞭をとる。現在オレゴン大学名誉教授。

主な著書に『漱石の孫のアメリカ』 『アメリカの常識 日本の常識』
『英語・日本語コトバくらべ―日本語教授30年の異文化摩擦 』
『退職後の人生を愉しむアメリカ人の知恵 』など多数。




私は一気に読ませていただきました。

『漱石夫妻 愛のかたち』

興味深い写真も多くて、内容がこれまた独自の視点で新しい展開になっていると思いました。鏡子夫人への見方もひいきの引き倒しになることと全く対極にある、公正な記述でありなんといっても学究の態度であることに、感動を覚えます。(漱石夫妻の次女の恒子様の結婚を決めたのは、母親の過干渉であったこと。その悲哀など)

20代の若手の編集者の担当とかで、若干の不安もなくはありませんでしたが、この出来上がりなら、「愛の人・漱石の真の姿が、孫娘の筆で、浮かび上がる。」の表紙裏のキャッチコーピーがそうだ!と真実味を帯びて頷けます。

もとはポーランドの大学に招聘されて行った講演を記事にされたそうですが、編集に若さのいい面が出ているようです。若さはいいものです。

読みやすくても決してミーハーの雰囲気ではなく、啓蒙的な高さが感じられます。
内容がこれまでよく見られる二番煎じや三番煎じの漱石本と違い、すべてオリジナルといってもいい新鮮な書き下ろしであることも値打ちがあるのではないでしょうか。

著者の陽子さんには祖父に当たる漱石先生は元よりですが、お父上の松岡譲先生の堅実な素質を受け継がれていることがこの本で分かるような気がいたしました。

表紙の帯も見合い写真の鏡子夫人と青年漱石。これでみますとどことなく美男美女のカップルにみえますね。マックレインさんがお祖母さまに生前、こんな会話をなさったとお書きになっています。



「漱石の昔のお弟子さんが訪ねて来たことがあった。彼が私に、「お祖母様にそっくりですね」と声をかけたら、祖母が、「私が若い時は陽子よりはずっと美人でしたよ」と言ったので、○○氏は苦笑しておられた。」

飾り気のない家系と申しますか。ほほえましい会話でした。
野上弥生子さんが生きていらしたらどんなにお喜びになられたでしょうか!







by tsubakiwabisuke | 2007-10-13 23:13 | 夏目漱石
2007年 10月 06日

見聞記 江戸博物館で特別展「文豪・夏目漱石そのこころとまなざし」


江戸、隅田川、両国、言問橋(ことといばし)とイメージが続きますと、かの有名な在原業平の和歌が浮かんでまいります。

名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

『古今和歌集』に収められ、『伊勢物語』第八段にもみられます。都鳥はいまでいうユリカモメのようですが、歌の本意は鳥にかけて京の都に残してきた想い人は、いまどうしているのだろうと、恋する男のこころを詠んだものですね。

今回の東上で、この言問橋に立って私は都鳥を見ることはありませんでしたが、関東大震災の復興事業として造られたこの橋梁の欄干と縁石が記念碑として保存されている場所に行ってまいりました。

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江戸東京博物館はこうして京都と繋がっていると思いますのも、夏目漱石特別展を開催されることに喜びを感じるゆえでございましょう。イワシの頭も信心ということとまあ、遠からず、、、でっしゃろか。

さて、IT新聞に10月6日今日の日付で拙稿が掲載されたようです。開会式。内覧会は9月25日でしたから今となってはニュース価値に乏しく、遅ればせながら文化欄の記事になりました。あちこち削られています<笑)

IT新聞 tsubakiコラム 古都つれづれ

江戸博物館で特別展「文豪・夏目漱石そのこころとまなざし」


 の記事の下に「この記事が気に入ったらクリック 」という欄がありますので、できればポチっと押してやってくださいませ。

一応、ここにも原稿を出しておきましょう。

                         ◇ ◇ ◇

椿 わびすけの 「江戸東京博物館特別展・開会式内覧会 見聞記」

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写真はいずれも筆者撮影。

東京の両国にある江戸東京博物館で特別展「文豪・夏目漱石」が開かれていますが、それに先立って開会式・内覧会が9月25日にあり、行ってまいりました。開会式で聞いた主催者側のスピーチは興味深いものでした。この特別展は11月18日〈日)までです。

 開会式というと、ある緊張と期待を呼び起こすものです。それも敬慕する漱石先生の未公開資料を含め、一挙に展示される特別展なのです。ご招待状を受け取った時には、感激に震える思いでした。

 開会式場の壇上には「東北大学100周年記念、朝日新聞入社100年、江戸東京博物館開館15周年記念」とパネルが掲げられ、その下に大きく「文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし」と印象的なサブタイトルがぐっと引き立っています。

 主催の江戸東京博物館から竹内誠館長が最初に挨拶。「東北大学は100周年、朝日新聞社入社100年、という後でわが江戸博物館は開館わずか15年ということで、どうも……」と頭をかかれるそぶりでユーモアたっぷりのスピーチでした。

 「漱石の人柄、大きさ、多くの人をひきつける魅力を見ていただきたい。実は、私は漱石については何も分かっておりません。学芸員の2人がすべてやってくれ、ここで私が偉そうにしゃべっているのは彼女たちの受け売りであります」

 そこで2人の学芸員を呼ばれ、壇上であらためて紹介されました。なんと、フレッシュな若い女性の学芸員、橋本由紀子さんと金子未佳さん。私は思わず拍手をしましたが、会場の皆さんも家庭的な空気で拍手をなさっていたようでした。物分かりのいいお父さんが娘自慢をしているような趣があってほほえましかったです。

 2番目に立たれたのは、東北大学副学長・東北大学図書館の野家啓一館長。漱石が朝日新聞入社第1作の『虞美人草』を発表した明治40年6月3日の新聞コピーを説明されました。

 「『虞美人草 一』とある記事の隣に東北帝国大学設立の辞令が掲載されていることからも、漱石と東北大学との深い因縁が……」。漱石の愛蔵した書物3000冊が東北大学にあること、漱石山脈といわれた中の小宮豊隆、阿部次郎が東北大学の教授であったこと、に続けて、漱石研究に貢献のある3人の教授を紹介されました。

 3先生が壇上にお上がりになり、深々と頭を下げられました。皆さま篤実な学究の雰囲気をお持ちでした。ただ、漱石文庫を長年丁寧に管理されてきた図書館の館員の方々にも壇上に上がって頂ければ、もっとよかったのにと思いました。

 しんがりの挨拶は、朝日新聞社の船橋洋一主筆。「生誕や死後を数える例は多いですが、入社100年というのは漱石をおいては他にいない。当時の主筆・池辺三山と漱石は非常に似通った価値観を持っていた。新聞記者となった漱石は社会的なときめきと驚きを日々読者に伝えた。三山と漱石は知的大衆をつくったということです」

簡潔で心のこもった開会式はおひらきになり、あとは特別展の内覧会に移りました。


                             ◇

 「そのこころとまなざし 」。このフレーズが生き生きと感じられるのは、文豪漱石と人間漱石の、ありのままのすがたを見ることができたからでしょう。愛用した着物や家族への書簡のほか、鏡子夫人への結納目録なども貴重でした。他人への情愛ある「父のまなざし」を受けとめることができました。

 英国への航路を図にしたパネルや購入した原書の展示もよかったです。ロンドン時代の蔵書400冊を知るにつけ、満足な食事もとらず勉学に打ち込み、病に苦悩した漱石に涙の出る思いでした。細かい書き込みがあるものは暗い照明のなかで読むのは困難でした。拡大したパネルがあれば有り難かったのにと思いました。とにかく漱石の全容を伝えるのは大事業です。

 公式ガイドの執筆もほとんど学芸員おふたりの手になるものですが、辛口の評者の「オリジナルなものでなくダイジェスト。会場の記述にも間違いがかなりあった」との声もありました。しかし、若い世代が漱石にこのような真摯な取り組みを行ったということに、私は驚きを禁じえませんでした。これだけすばらしい資料をふんだんに見せていただいた展覧会に、心から感謝したいと思います。

 老婆心から申しますと、「江戸東京博物館、東北大学編」となっている以上、もっとお互いに相談をされ、入念にことを運んでほしかったと思います。ガイドブックの「漱石略年譜」は西暦のみで和暦の併用がなく、江戸と銘うっているにしてはキリスト生誕を基にした西暦だけというのはいかがなものか、と思ったのも正直なところです。

                             ◇

拙サイト 仙台へ 東北大学『漱石文庫』を訪ねて






by tsubakiwabisuke | 2007-10-06 14:30 | 夏目漱石
2007年 09月 27日

江戸博物館創立15年記念 「文豪・夏目漱石そのこころとまなざし」

開会式・内覧会のご招待を東北大学から頂戴いたしましたのでこころ踊る思いで、東京両国へ行ってまいりました。ご招待には同伴が許されるとのことで、お知り合いの方お3人にもお声をかけいたしました。各地から駆けつけられたのは漱石先生の魅力でございましょう。この特別展の内容については後日、IT新聞のコラムに書かせて頂くつもりです。

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両国、江戸東京博物館 全景が撮影できなくてこれは入り口から

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「文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし」開会式 午後6時~

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内覧会 漱石のお孫さんの半藤末利子さんとご主人の半藤一利さんにお会いして楽しく立ち話をさせていただきました。

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言問い橋の記念の立て札。 関東大震災のあと、昭和3年に建設されたものですが、昭和20年東京大空襲の悲惨な記念碑となったものです。この地にこうした歴史があることに胸が痛みました。

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江戸博のとなり組といってもいい Dホテルに宿をとりました。そのロビーで。(この一枚だけ、ハンナさん撮影)。

きもの好きな方のために、白状しましょうか。えり善製のきもの、帯、帯上げ、帯締め、半襟。漱石展にはこの装いをと…。

ご存知と思いますが、漱石が京都へ来た折、わざわざこの店を訪ねて妻の半襟を買ったことが漱石の日記に書かれています。、




松岡陽子マックレイン様にこの展覧会の写真を2枚添付メールで送信いたしました。こうした会場内の写真を公開することはご法度になっておりますから、会場外のもののみここではアップいたしました。

2009/9/28 03:29 松岡陽子マックレイン様

伊津子様

 メールが息子の所にいってしまい、今朝彼が転送してくれました。息子健(けん)も今は大学勤め(大学のヘルスセンターの医者)なので、私と同じメールアドレスを持っています。
〈中略)
御送りいただいたメールは”y”がぬけていたので、息子のところにいってしまったということです。ともかく、すぐ息子が転送してくれよかったです。

 お写真どうも有り難うございました。とても楽しく見させて頂きました。相変わらずお美しい和服姿でいらっしゃいますね。漱石の好んだお店でお買い求めになったのですね。新聞で読んでいましたので、展覧会が私が日本へ行く前に終わってしまい、とても残念だと思っていました。妹の名前は「末利子」という字を書きます。彼女は昨年転んで足を怪我して二ヶ月も入院したと言っていましたから、少し老けたのでしょうか。私が小学校六年の時に生まれたのですから、私より一回り近く若いのです。亡くなった長女の姉と末利子は十六歳も離れていました。半藤は相変わらず大活動していますね。

 ではもう一度御写真お送り下さり有難うございました。

陽子




半藤様ご夫妻のお写真はここでは掲載できませんが、いぜん、鎌倉漱石の会で講師としてお話を伺ったとき、撮影させて頂いたことがございました。現代の論客として正論を世に送っていらっしゃいます。おふたりのお写真は、半藤家が提供された漱石の着用したきものの前で私が撮影、ステキなご夫妻です。内覧会のおかげでした。

2002年5月12日 夏目漱石展から 鎌倉漱石の会へ 








by tsubakiwabisuke | 2007-09-27 23:53 | 夏目漱石
2007年 09月 14日

日本インターネット新聞編集委員選賞を受賞しました 「古都つれづれ」

今日、1通の郵便が来てはじめて気がつきました。
私がコラムを書かせていただいています日本インターネット新聞。8月掲載記事の編集委員選賞受賞のお知らせでした。16本の記事が選ばれその中の1本が私だったというだけのこと。

編集委員4人の中のお一人、H…広岡守穂さん(中央大学法学部 教授)が拙記事を選んでくださったようです。


椿伊津子記者のコラム「古都つれづれ」は、だれかも書き込んでいたが読んでいるとこころが洗われるというか、ほっとする。このところ数本続けて漱石と京都のかかわりをとりあげている。「きっすいの京都人、津田青風・西川一草亭と漱石」(8月18日)では、津田青風・西川一草亭と夏目漱石の交際をつづっている。西川一草亭といえば、ずいぶん前にいけばなの文人生けについて書いたものを読んだことがあった。そのことをふっと思い出した。(H)

編集便り・編集委員選賞8月の受賞記事

tsubakiコラム「古都つれづれ」はことしになって半年間お休みしてましたが、漱石先生について続けて書いた拙稿でした。読者の方々のあたたかいコメントに励まされ、時間をかけて幾多の文献をひもとき、自分の思いを綴りました。

私の場合はニュース性には遠い書き物ですから編集委員の方にお認めいただけるとは思っていませんでした。
数えますと4回目の受賞にしかなりません。でも本当に嬉しいお知らせでした。

広岡さんもコラムをお書きになっています。とくに「男の言い分、女の言い分」は面白く人気があるようです。


このマスメデアは、元朝日新聞編集委員であり鎌倉市長であった竹内謙さんが社長をなさっています。それから同じ朝日関連の話題をもう一つ、書いてみますね。

松岡陽子マックレインさんの著書の出版のニュースです。
ただ、10月中旬に発売ということですから今から楽しみに心待ちにしているのです。

朝日新書の編集長さんにメールを出しましたら、丁寧にお返事がまいりました。



朝日新書 岩田
メール拝受。
松岡陽子マックレインさんの朝日新書は、
『漱石夫婦 愛のかたち』というタイトルで、10月12日発売の予定です。
よろしくお願いします。



朝日新書は読みやすく、楽しい雰囲気が感じられると友人たちから聞いておりました。
陽子先生とこの冬にまたおめもじする予定ですので、私には二重の喜びになりました。



いつも拙文をお読みいただいて有難うございます。皆さまのお励ましのコメントがどんなにか私の心の支えになっているかとしみじみ思うのです。
ココログの漱石サロンランデエヴウのほうにもさまざまな方々からお書き込みをいただきました。どうぞそちらのほうもご覧くだされば嬉しく存じます。







by tsubakiwabisuke | 2007-09-14 14:53 | 夏目漱石
2007年 08月 20日

お励ましのメールに一層の精進を自分に誓う

なんの因果か、夏目漱石に魅せられたのが運のつき。とまあ、こんな悪態を書くなんざぁ~困ったものでございます。漱石先生、ごめんやっしゃ~。

ことしから漱石について書いたエッセイが、6本ですか。まだまだものの数には入りません。日本インターネット新聞は元朝日新聞社編集委員の方が創立したマスメデアで、私は連載コラムニストの末席を汚しております。簡単な紹介が出ておりますのでこちらもご覧になっていただければ嬉しいです。

きっすいの京都人、津田青楓・西川一草亭兄弟と漱石
漱石は、京都に深いつながりを持っていた。今回は、門下となった京都出身の画家、津田青楓とその兄、西川一草亭との交流にスポットを当てた。(椿伊津子)2007/08/18

漱石の参禅体験 取り入れられた作品の数々
漱石と禅との関わりは鈴木大拙が「羅漢のような居士」として登場する小説『門』や釈宗演から「無字」の公案を与えられた事などが書かれたインタービュー記事など少なくない。(椿伊津子)2007/08/08

京都の取材から書かれた漱石の『虞美人草』と『門』
漱石は旅行をした後、必ずその見聞を作品に取り入れています。明治40(1907)年3月下旬から4月上旬、京都を旅行。漱石はその間、新聞に掲載するための記事を書いています。まさにニュースにふさわしい早業の執筆といえましょう。(椿伊津子)2007/07/30


漱石が京都で買い求めた高価な半襟
夏目漱石先生は、明治42(1909)年10月、2日間だけ大阪から京都に立ち寄った際、わざわざ四条の襟善に一人で買い物に行っているのです。 それも案内なしで当初から予定していたフシがあります。(椿伊津子)2007/07/26

夏目漱石の縁(えにし)祇園と多佳女
多佳女と漱石についてはかなり多くの論評がなされています。「漱石は花街に無理解な人間だ」「漱石という人間は京都にしっくり来ない」「お茶屋・廓と漱石とはイメージが合わない」さあ、真実はどうなのでしょうか。(椿伊津子)2007/07/13

京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々
京都は漱石にとって縁うすい都のようですが土地との繋がりというより漱石を看病した祇園のお多佳さんの様に人との深い縁があり「風流」を愛した日々のある都ではなかったのでしょうか。(椿伊津子)2007/06/19


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漱石研究に関連して、その後もお励ましのメールが届いております。一層の精進をと自分に誓うのみ…。心からのお励ましに感謝申し上げます。みなさまのご好意に甘え、一部をご披露させていただきましょう。


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2007/08/21   なまず様(ジャーナリスト)

わびすけ さま

お暑うございます。夏椿のひそやかさに涼を感じております。

「古都つれづれ」拝見しました。京都、漱石、茶道 の組み合わせ、 わびすけさん ならではの「論証」とおみうけしました。興味深く おもしろく読ませていただきました。

くすっと笑えそうになったのは 西川家の茶室訪問日記。
「布団の上にあぐらをかき壁による」「茶事をならわず勝手に食ふ」 そして底冷えの寒さに震えるー。等身大の漱石を感じました。

やはり漱石の話になるとわびすけさんの筆の運びがいっそう なめらかになってきましたね。でも このあたりで閑話休題のつもりで漱石を離れた「京のつれづれ」をはさんでいただくのはいかがでしょうか。

読者の立場では 一息いれたいところです。
続く漱石がらみのリポートにもインパクトを与えることになるのではないでしょうか。





2007/8/20 02:07 松岡陽子マックレイン様 

伊津子様

 お返事遅れまして、申し分けございません。避暑地のようなところに住んでいるため、夏は何となくお客様が多いのです。

 「きっすいの京都人。津田青楓・西川一草亭兄弟と漱石」は大変面白く、またまたいろいろ新しい事を習わせて頂きました。津田青楓、一草亭との、尊敬し合いながらの親しい交わりも、漱石らしいと思います。伊津子様ならではの、漱石の一面の貴重な記録です。このエッセイを読んで、漱石が京都で俗塵をふるい落としたと言っているのがよく分るような気がします。私自身も京都とは本当にそういうところだと、訪ねる度に思います。そしてそんな昔の面影をいつまでも留めてほしいと思っています。

 私事ですが、今住んでいる家がもう二年もすると、五十年、あちこち傷んできているので、今大工が入って直しています。そんなことも少々落ち着かない理由ですので、ご無沙汰お許し下さい。そのうち台所修理に移ると、お料理を階下の洗濯場の流しを使い、オーヴンもなく、ホットプレートでお料理をすることになり、今からその不便さを少々恐れています。

 ではまた。
 
陽子



2007/08/09 01:36  松岡陽子マックレイン様     

伊津子様

 いつもよく文献をリサーチされて書かれるので、今度のものからも習うことが多く、大変面白く読ませて頂きました。最後の「文学でも人をして感服させるようなものを書こうとするには、まず色気を去らなければならぬ。」というところは、彼の「則天去私」を思わせます。つまり「人を感服させるものを書こうと思って書くとそんなものはできない、ただ無心に書く、つまり彼のいう色気を去ればよいものが書けるということでしょうか。そこに漱石と禅のつながりがあるように私には思えます。

陽子



2007/08/20 08:28  伊豆利彦様

椿さま

いま、漱石を読む会で『虞美人草』を取り上げていて、京都と漱石についてあらためて考えています。
晩年の京都行きが『道草』を生んだと思いますが、この京都行きについて、ていねいにお書きくださりありがとうございました。
なお、孫文の言葉を紹介してくださってありがとうございます。
ただ、次のURLが開けません。

伊豆利彦



2007/08/09 16:13 伊豆利彦様

椿伊津子さま

「漱石の参禅体験」読ませていただきました。
長年の蓄積の上に書かれた論に教えられることがたくさんありました。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。

  伊豆利彦




このほか、私のお待ちする人はまだいらっしゃいますが、
どうか早くいらしていただきますよう(#^.^#)。


公式サイト掲載記事へ 諸先輩の方々からご感想をいただいて
2007-07-14

専門家・研究家・真摯な学究の知己 2007-08-01







by tsubakiwabisuke | 2007-08-20 17:51 | 夏目漱石
2007年 08月 16日

津田青楓・西川一草亭 と 漱石の交友

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漱石と京都、学問の繋がりでは松本文三郎、狩野亨吉がいずれも京都帝国大学(旧文科大学)の長であり、漱石へ教師として講座を依頼していました。明治40年4月、漱石は京都の銀閣寺北にあった松本文三郎の山房に招かれその礼状を送っています。

「拝啓 京都滞在中は尊来を辱ふせるのみならず銀閣の仙境に俗塵を振るひ落し候」
市街と離れたこの地を漱石はたいへん気に入り、東京付近ではこんな住居は求められないと賞賛しています。しかし、41年6月、書状で教師就任と講義の件は断っているのです。狩野亨吉とも同じやりとりがあったは史実に遺されている処です。

ただ、これら碩学の友人は当時京都在住ではありましたが、故郷は別にあり後に京都を去った人でした。京都に生まれ育ったきっすいの京都人で、親密な知人といえば、津田青楓と西川一草亭きょうだいを措いてはないと思われます。今回はこのふたりにスポットを当ててみることにいたしましょう。

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フランス帰りの青年画家・津田青楓

漱石門下の小宮豊隆の仲介で津田青楓が漱石に逢ったのは明治44年。京都に育ち、日露戦争が終わると官費でフランスに3年間留学した貧しい青年画家で、帰国してまもなく京都から東京に出た頃でした。本名津田亀次郎、雅号青楓。

彼は、フランスで日本人の仲間が落ち合うレストランでの思い出を述懐しています。留学生の彼らは、漱石の『坊っちゃん』や『我輩は猫である』『草枕』の掲載されている雑誌を持ち込み朗読していたそうです。

津田と共にいた安井(安井曽太郎)は新参者であり、朗読するのは古参の留学生ら。

「茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人程勿体ぶった風流人はない。広い視界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに、鞠躬如(きっきゅうじょ)として、あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である…」

『草枕』の一節を聞いては「愉快だね」と、うれしがる古参者ら。津田はそれを横目で見ながらこの時、漱石に親愛の情を感じはじめたと書いています。

けれども、彼の父親は去風洞挿花家元西川源兵衛(一葉)であり、また表千家の茶人でもあったのですから、皮肉なものです。明治44年、縁あって漱石門下に入ることになります。漱石にとっては趣味にしている描画のよき相談相手になり、心許せる門下生でありました。津田が漱石山房に出入りするようになった後、実兄の西川一草亭をまた漱石に引き合わせるのでした。

津田清楓は述べています。
「京都はいやだった。親兄弟のお付き合いばかりして、やれお花見だ、やれお茶会だ、やれなんだかんだで引っ張り出されることばかしで、仕事なんかするひまはない。京都の人間は画家は風流人で、風流人は閑人だと思っているんだ。やりきれない…」

 漱石と散歩しながらの話を彼はこんな風に書いています。

「君の親の商売は何だと云われるので、一寸嫌だったが思い切って、花屋です、店では花屋で奥では生花の先生です」といい、父は風雅な風采をして茶ばかり啜っていると云った後で、

「だから僕を学校にもやってくれないで、小学校を出ると丁稚にやらされて、それ家を飛び出して孤児のように自分でやっとここまでこぎつけたのです」

長男は特別で次男以下は同等ではなかった明治の家族制度を思いますと、こうした話も理解できるのではないでしょうか。いっぽう、兄の西川一草亭は長男として教育も受け家業を継ぎました。去風洞挿花をさらに盛り立て、『瓶史』を刊行する著名な文化人となっていました。


去風洞主人・西川一草亭

漱石は、大正4年3月21日、京都滞在中に西川一草亭の招きで彼の住居である茶室を訪れています。まず、漱石自身の筆記を見ることにいたします。

漱石全集 大正4年 日記14 (日記・断片 下)

「二一日(日)
八時起る。下女に一体何時に起ると聞けば大抵八時半か九時だといふ。夜はと聞けば二時頃と答ふ。驚くべし。」

漱石は旅館の女中の生活を聞き、労働時間が長いのに驚いています。それから宿の窓からのぞむ加茂川とかなたの東山が霞でよく見えないのに河原で合羽を干すさまを書きとめています。


漱石 去風洞・小間の茶室に入る

「東山霞んで見えず、春気曖、河原に合羽を干す。西川氏より電話可成(なるべく)早くとの注文。二人で出掛ける。去風洞といふ門をくぐる。奥まりたる小路の行き当たり、左に玄関。くつ脱ぎ。水打ちて庭樹幽すい、寒きこと夥し。」

寒がりの漱石はここでも京の底冷えの寒さに震え上がっています。数奇屋の庭はこの時期殺風景な感じもあったでしょうし、待合の座敷から暖かい陽光の遮られた暗い茶室へ入り、心寒いばかりの想いがあったのではないでしょうか。それでも漱石の観察眼はするどく克明に記憶にとどめています。

「床に方祝の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華厳世界。一草亭中人。御公卿様の手習い机。茶席へ案内、数奇屋草履。石を踏んでし尺(しせき)のうちに路を間違へる。再び本道に就けばすぐ茶亭の前に行きつまる。どこから這入るのかと聞く。戸をあけて入る。方三尺ばかり。ニジリ上り。」

ここは、露地を歩きながら茶室への方向を間違え、やっと茶室のにじり口を見つけたところです。武士も刀を外して身分の上下なく入る狭き入り口なのです。漱石はどうやら身をかがめて茶室内に入ったようです。

「更紗の布団の上にあぐらをかき壁による。つきあげ窓。それを明けると松見える。床に守信の梅、「梅の香の匂いや水屋のうち迄も」といふ月並みな俳句の賛あり。」

暗い茶室内には天井に突き上げ窓が開けられていました。ここから自然光が入る仕組みになっているのです。しかし、同時に冷気も入ったことでしょう。次に懐石料理が書かれています。この去風洞の近くに「松清」という料理屋があり、亭主は懐石をそこから取り寄せたもようです。


懐石料理の献立はどういうものだったか

「料理 鯉の名物松清。鯉こく。鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならはず勝手に食ふ。箸の置き方、それを膳の中に落とす音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。」
(後略)

 箸の置き方、それを膳の中に落とす音を聞いて主人が膳を引きにくるのだ、のくだりは、茶道で懐石の作法になっているものです。客は食事が終わった合図として、静かに箸を膳の上に落とし亭主に知らせ、主はその音を水屋で聞くとすぐに膳を引きに来るわけです。

ところで、この献立を見るかぎりでは、西川一草亭は茶事を余りしていなかったのではないかと私は思います。理論はできても茶道の基本的な稽古をしていたかどうか…。父親から手前を習ったことはあるとだけ書かれています。

茶懐石では、海の幸、山の幸を少しづつとりまぜて消化の好い調理をし、無理なく食べられる分量で客に呈すのが本筋です。料理屋にまかせず亭主自ら客のことを考え吟味しなければいけません。しかし、この献立では胃腸の重篤な病をもつ漱石に如何なものかと思われてならないのです。


漱石「腹具合あしし」

案の定、漱石は23日の日記に「腹具合あしく且つ天気あしゝ。天気晴るれど腹具合なほらず。」とあるのです。翌24日には更に、腹具合は悪化します。
多佳女が云い出して北野天神の梅見の約束をしていたにも拘わらず、断りなく多佳が遠出していたことで漱石は深く傷つくのです。

「二十四日(水)
寒、暖なれば北野の梅を見に行こうと御多佳さんがいふから電話をかける。御多佳さんは遠方に行って今晩でなければ帰らないから夕方懸けてくれといふ。夕方懸けたって仕方がない。(中略)腹具合あしし。」

この時漱石は東京に帰るべく、「晩に気分あしき故明日出立と決心す」といったんは京都を離れる決意をしたのでした。この危機的状況を救ったのがまた津田青楓その人でした。

付きっ切りで看病する津田は多佳女に懸命にとりなすように依頼し、祇園の芸妓で漱石信奉者のお君さん、金之助にも来て貰い、最悪の状態を切り抜けました。京都滞在はこの後更に続くことになります。

「二十五日
御多佳さんが来る。出立ちをのばせと云ふ。医者を呼んで見てもらえと云ふ。(中略)多佳さんと青楓君と四人で話しているうちに腹具合よくなる。」

結局、漱石は翌月の4月16日まで、都合二十九日間京都に滞在したのです。東京へ帰ってから胃腸の病は深刻になり、翌月大正5年の12月9日までその病苦は続きました。


西川一草亭に漱石は感想をのべる

「漱石と庭」と題した一草亭のエッセイに、漱石が来庵した折の事柄が興味深く書かれています。その一部分を抜粋します。

「夏目さんの来られたのは三月の末で、さう云ふ時分にこう云ふ家を見ると只陰気で不愉快なばかりだった。夏目さんはその暗い陰気な座敷の床の前に坐って、欄間に懸かっている「一草亭中之人」と云ふ夏目さん自身の字を眺めたり、床の間に生けておいた室咲きの牡丹の花を見たりして、最後に此処の家賃はいくらするかねと尋ね、「こんな家は只でも嫌だね」と云って心から嫌な顔をされた。」

まあ、客としては失礼な物言いですが、体調の悪い人への亭主の心配りも「も一つ」だったようです。

江戸っ子漱石と京都、かならずしも相性は悪くなかったのです。相性が悪かったのは、京都の寒さだけだったのかもしれません。


正直で飾り気のない交友

表裏のある狡猾な人間を嫌悪した漱石。それゆえに江戸っ子と自他ともに認めた気性でした。では、その対極にあるのが京都人だという世間の見方があるとすれば…。それは概には云えないのではないでしょうか。

 西川・津田兄弟を見ましても自分の家はもとより時代へ厳しい批判精神をもち、それを公言して憚らなかった京都人なのでした。1千年有余の歴史を有し伝統を保ちつつ、京都が革新の都といわれる所以はここにも見られると思います。


 漱石は祇園の一力で舞妓の運ぶ薄茶を喜んで喫しています。展覧会では茶道具の名品を手帳に書き付けています。そして漱石は乾山の向付けの一揃いを見つけそれを津田青楓に贈ってもいます。茶道そのものを嫌っていたのではありません。

漱石は、東京に帰ってからは「京都の閑雅をひとり懐かしんでいます、また行くつもりです」と書簡に書きながら、大正5年12月9日に、49歳の生涯を終えたのでした。

ああ、前年に京都旅行をしたあの体験がもし小説になっていたら…
不出世の文豪に時間が与えられなかったことは、惜しみても余りあるのです。



参考文献
岩波『漱石全集』。津田青楓著『漱石と十弟子』。西川一草亭著『落花帚記』 


IT新聞の連載コラムへも 掲載されています。
http://www.news.janjan.jp/column/0708/0708130733/1.php







by tsubakiwabisuke | 2007-08-16 11:48 | 夏目漱石
2007年 08月 08日

漱石の参禅体験

漱石の参禅体験 取り入れられた作品の数々 2007/08/08

今日、日本インターネット新聞のコラムに掲載されたものです。

コラム 古都つれづれ

以前からこの案は温めていましたが、資料を集め裏づけをとることなど手間がかかりました。

そもそも、鎌倉円覚寺の専門道場で、はるか昔、私が師事したT老師が修行され、古川尭道老師から印可証明を与えられた因縁があるのです。しかも、兄弟弟子ともいえる方が東慶寺の井上禅定師だったのです。そうしたことから禅定さまは私を可愛がってくださいました。

道縁のご恩を感ぜずにはおれません。古川尭道老師こそ、釈宗演老師の法を継いで円覚寺僧堂を護ってこられた大徳でありました。峻厳な禅僧としてご自分を律し他を導かれたと私はさまざまなエピソードを師匠から聞かされておりました。

私の師匠はその後、鎌倉を離れ、京都でも修行され京都五山である或る大本山で管長職を務められました。拙文を書くに当たって、思いは感無量なものがございました。

漱石に焦点をあてて書かせて頂きましたので、失礼なこともあったのではないかと思います。

最後に井上禅定様が私の要請を快くお受けくださいまして、玉稿をお送り頂きました日のことが、懐かしく思い出されてまいります。



椿わびすけの家別館 夏目漱石掲載  鈴木大拙と夏目漱石 井上禅定執筆






by tsubakiwabisuke | 2007-08-08 12:10 | 夏目漱石