2008年 03月 16日

旧西園寺公別邸 清風荘にて

京都市左京区田中関田町、百万遍のあたりは京都大学の施設が多いところです。この清風荘も京都大学の所有になる登録文化財の建物です。もとは、藤原北家につながる公家・徳大寺家の別荘を、1910年に同家二男で元首相の西園寺公望(さいおんじ きんもち)の別邸として改築。44年に京都大に寄贈されたと伝えられます。

14日(金)に西宮の友人と11時の時間をうちあわせ、清風荘へ参りました。宗家の稽古場でお世話になっています先輩の授賞祝賀茶会のお招きでした。朝から雨模様で傘があちこち開いて清風荘の門を入って行きました。

http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/profile/intro/photo/list/seihuso.htm

ここは現在、京都大学の迎賓館として使用されている非公開の場所でした。縁あってこうして門をくぐることが出来、広大な庭園を拝見しつつ数奇屋の玄関に入りました。ご亭主のおかげと思います。

待合で濃茶のお菓子をいただき、狭い階段をあがって二階の広間席へ。ここでお濃茶を。

床、お家元筆 高臥聴松濤(こうがしてしょうとうをきく)。

春牡丹が古銅の花入れによく入っていました。香合に菊御紋菓子 餡を出して上皮と下皮を二枚乾燥させ、裏に金を貼るといった工程を眼に浮かべました。中宮寺のご門跡が私の傍らで、「宮中にまいりますとお土産にいただきますのよ」とひと言。

濃茶、薄茶と2席、すべて社中の方々が協力して担当され、師匠冥利につきるといった印象を受けました。点心は辻留で椀物のあいなめのお味が結構でした。

このお部屋は西園寺さんが特にお好きでよく坐ってお庭を見られていたそうですよ、とご亭主のお話とお酌で美酒をいただきました。春雨にけむる庭園はなだらかなうす緑の線をもち悠然たる姿をあらわしています。西園寺公望が文部大臣の頃、京都帝国大学創立に尽力したといわれています。



私は以前から清風荘に関心をもっていたのです。それというのも漱石に関することで津田青楓と彼の兄、西川一草亭が、入洛した漱石について書いている中に、この清風荘がありました。

大正4年3月、当時の地名は田中村といっていた頃です。

「その頃西園寺公が田中村の清風荘に滞在して居られて、私は時々花をいけに行った。先生も一度西園寺さんに逢ったらどうですといったら、「逢ってどうするのかね、逢ったって仕様がないじゃないか。飲食相通ずる位なもんだろう」と皮肉を云って笑ってをられた。」

漱石は時の権力者から招待を受けたこともありますが、その招きを受けることはしなかった、確固たる意思をもつ文学者でありました。

また、二三日して、一草亭は清風荘で公爵から小つばめといふ公の愛鳥を貰って帰りました。
画を描くために小鳥を必要とする彼に、西園寺公は自分の愛鳥にエサをやってからその鳥を与えます。その行為を奥ゆかしいと感じた一草亭はこの鳥を大事に貰って帰りました。

帰り道にその鳥かごを提げて漱石先生の滞在している旅館北の大嘉に立ち寄ったのです。漱石との会話はここでは書きません。



しかし、夏目漱石と西園寺公といえば、より大きい話題になった時期があります。ご存知の方は多いことでしょう。漱石が西園寺公の招待を断り、そのために、ハガキに一句をしたため招待主に送った事実を。

ほととぎす 厠半ばに出かねたり

(かわや)といえば、おトイレなんですね。時の総理大臣である西園寺公爵への返事がこの俳句だったのですね。

西園寺さんも大人物だったでしょうし、別に立腹したという話も残っていないのは何よりでした。






by tsubakiwabisuke | 2008-03-16 00:47 | 夏目漱石


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