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2007年 03月 02日

西川一草亭 去風流挿花 漱石との交流


西川一草亭(一八七八~一九三八)
去風流七代目家元。昭和13年(1938)一草亭歿、61才。

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女性としてはよき家庭を築いた良妻賢母。知識人としても美術評論が抜きん出ていた白洲正子さん。彼女は生け花を習ったことはないそうですが、花について次のように言及されています。

[私はいけ花を習ったことはない。
しいて先生があるとすれば、好きで集めた器の類と。
西川一草亭の編纂による「瓶史」とよぶ冊子かもしれない。

「瓶史」から学んだのは、
いけ花は一種の総合芸術であるということだった。
花は花だけで孤立するものではなく、
周囲の環境と生活の中にとけこんで
はじめて生きるという意味である。

もうひとつの先生は器である(中略)
花は器にしたがって生けていれば自然と形になるということを自得した。」


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西川一草亭の令孫、華道去風流九代家元・西川一橙氏。
わびすけの所蔵する竹花入れ、一草亭好みの尺八に挿花をお願いいたしました。

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夏目漱石が一草亭のために書いた画賛。

  牡丹剪って一草亭を待つ日かな  漱石

●2003/04/17 Thu 21:53 津田青楓の兄 西川一草亭

この拙文を書いたとき、いつか「去風洞」家元を訪問したいものと考えておりました。4年経って漸く実現したというのは、なにごともスローモーな私めでございます。

漱石の画賛の軸の箱書きは、いうまでもなく一草亭ご本人です。すばらしい筆跡をカメラに収めることができました。
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椿のデザインは一草亭のオリジナル。来客の時だけこのテーブルセンターをお出しになるとか。
光栄です。





漱石が京都に来て、西川一草亭の自宅を訪ねた記録が残されています。

「去風洞といふ門札をくゞる。奥まりたる小路の行き当り、左に玄関。沓脱。水打ちて庭樹幽遠、寒き事移し、床に方視の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華蔵世界。一草亭中人。…… 料理 鯉の名物松清。鯉こく、鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならはず勝手に食く。箸の置き方、それを膳の中に落す音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。…」。

茶事の様式で漱石は出された懐石を口にします。はじめての体験でひどく窮屈だったようです。このあと、漱石はずいぶん失礼なことを一草亭に言うのですが、それでも二人の間には妙に惹き合うものがありました。



私は一草亭のお孫さんである一橙氏とは初対面でしたが、「去風洞」家元の佇まい、九代家元のお人柄に触れ感深く存じました。この家風は自然のすがたの花木を大切にされ、いわゆるアート的なものとは一味違うのです。

ウグイスカグラの花が小さく咲いた枝。それと本阿弥椿を一輪、お入れになりました。
それぞれが生き生きとうつくしく添い、竹花入れに調和しておりました。椿の葉のなんと見事に映えていたことか。

茶花ですと、つもって生ける。よく「つもり花」と申しますね。雰囲気は共通するものがございます。しかし、こちらは茶室に限定された部屋ではなく、書院風な感じがあり生活に自然をより美しく取り入れるといった風趣です。

風流一生涯、とは一草亭が死に際して書いた絶筆だったとお聞きいたしました。挿花を教えて月謝をいただくことすらこころよしとしなかった清貧の家風が続いていたようです。決して裕福ではなかった一草亭ですが、漱石との交流、弟である津田青楓が漱石の日本画に影響を与えたことを思うのです。

超俗のなにかがそこに生きていた、今も去風洞にはそうした伝統があるように、私は感じるのでした。






by tsubakiwabisuke | 2007-03-02 01:17 | 京都


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