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2007年 02月 03日

光悦忌 本阿彌光悦(ほんなみこうえつ)


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光悦忌
書家・工芸家の本阿彌光悦の1637(寛永14)年の忌日。


 2月3日は、本阿弥光悦(1558-1637年)の忌日です。寛永14年丁丑2月3日。壽80歳。

 洛北・鷹が峰の光悦寺は光悦の死後に建てられたものです。日蓮宗、大虚山光悦寺は、鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰、鷹峰三山の南麓にあります。

 『本阿弥行状記』によれば、光悦にこの地を与えようと考えそれを命じたのは家康でありました。

 或る時、「光悦はどうしているか」と伊賀守にお尋ねになり、存命なれど、異風者にて、京都に居あき申候間、辺土に住居仕り度よしと申上げた。

 権現様(家康)は次のように仰せられた。
「 近江丹波などより京都への道用心あしき、辻切追いはぎをする所あるべし、左様の所をひろびろと取らせ候へ、在所も取立べきもの也との上意なり」

 京の町衆であり既に卓越した作家であったものの、開拓できる別天地を求めていた光悦にとって、家康の命による鷹ヶ峰一帯の賜物は願ってもないことでありました。辻切追いはぎが出る所であろうと、彼は雄大な自然に恵まれたこの地を愛しました。

 光悦一属はここに集団移住をし、芸術村を作ったのですが、彼の才能は芸術にとどまらず、経営、経済という方面で近代化に大きく貢献したことを、私は思うのです。
 光悦の真価はここにあるような気がします。

 光悦が慈悲心厚く、正義感の強い人物であったのは、数々のエピソードからもうかがうことが出来ます。

参考
續近世畸人傳卷之二
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/str_07.htm

【凡そ藝のみにあらず、經濟の才もありて、鷹峰の邊に金掘るべき山を考へ、五ヶ所を得て、人民多くその益を蒙る。もとより心ばせ正しき人にてありし。

 その一事は、七月十四日にある町家へ行きたるに、常に同じく家職を營みてありしかば、悦あやしみて、「今日は貴賤となく金錢の出納に閙いそがしき日なり。なぞ斯く常にかはらぬぞ。」といふに、あるじ、「町家には利用を計るをむねとし候さぶらふ。

 今日與ふべきものを五日過ぎて與ふれば、何計りの利を得ることにさぶらふ故に、今日は心いそぎも侍らず。」といひしに、悦答へもせず、家の内の者共の面を一人一人にらまへて、「よき畜生めら。」と云ひ捨てゝ出で、それよりは再び來らざりしとなり。】(引用)


 光悦が激怒したのは、他の雇用主が金を惜しんで、職人たちに給与を遅らせたことでした。倫理に基づいた經濟こそ、彼の求めた世界であったのです。

 法華信徒の光悦は、理想の共同体をねがい、日夜読経三昧に入っていたと伝えられます。

 光悦村は寛政11年(1799)家数が168軒・人数383人であったと記録されているのです。


【寛永年間洛北鷹峰を悦に賜はりしより、此處をひらきて、人家を設けたるに、若狹・丹波の通路なる故に、往來しげくなり、此の邊に山賊などいふもの絶えたり。是れより先きは、かうやうの惡黨かくれ住みて、人を犯す事多かりしとぞ】(引用)




「寛永の三筆」のひとりとして名高いことはよくご存知でいらっしゃいましょう。

  元和元年(1615年)、光悦は徳川家康から鷹ヶ峯一帯の地を与えられたことを機として、光悦の一族をはじめ町衆の人々と共に移住し、芸術村を築きました。ここには長屋が立ち並び、職人たちが養成され、刀剣、陶芸・漆芸・書画・などが制作されました。

 光悦は熱烈な法華の信徒であり、真摯な行者でありました。彼の信仰は個人的な芸術を打ち立てることよりも、京都町衆、職人たちを光悦村に集め、育て、生活の糧となすよう組織を作ったことにあります。

 陶芸・漆芸・書画・和歌など、卓越した作品を多く世に遺しました。芸術文化のリーダーとしては相協力し、嵯峨本の出版事業にも寄与しました。

 「私式の信心は、只国恩を忘れず、心の正直に悪魔のささぬ様にと信心仕候」と光悦は述べています。

 国を愛し、心の正直なるをモットーとし、人に布施をなし喜捨したという光悦。彼は現代の学校経営者たちの数字に明け暮れるさまを、どのように見ることでしょうか。


昨秋、お参りした光悦の墓には、白菊の花が供えられていました。


IT新聞掲載記事

職人を育てた芸術村 本阿弥光悦







by tsubakiwabisuke | 2007-02-03 22:40 | 京都


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