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2006年 12月 09日

中国のむごい売春婦処罰 日本の遊女と白隠禅師の場合

現代ではとうてい考えられないニュースが飛び込んできました。

中国で、売春婦が黄色い囚人服を着せられ、手錠でつながれ出身地と実名を公表されたうえ、市中を引き回されたというのです。写真をみれば一目瞭然です。

その前に売春をせざるを得なかった女性たちの境遇を考えてみましょう。イザ!の記事には次のようになっています。

「中国で風俗産業に従事する女性は推計600万-1200万人とされる。多くが貧しい農村からの出稼ぎ組で故郷の親兄弟に仕送りしている。売春の元締めの黒社会からは稼ぎをピンハネされ、社会からは白い目が注がれる。しかも、本来違法であるはずの風俗産業の経営には公安当局者の後ろ盾があるケースが多い。」



「11月29日、深●(=土ヘンに川)市内で、同市公安局福田分局が売春婦40人を含む性風俗産業従事者や客ら計100人を引き回した。「公開処理大会」と銘打たれていた。女性たちは口元を隠すマスクを与えられたものの、中国では「ポルノ」を意味する黄色い服を着せられ、実名、出身地などが公開された。そのうえ、手錠でつながれ、ヤジを飛ばす沿道の市民の前を連れ回された。この様子は中国中央テレビほか各メディアで報道された。」

売春婦100人「市中引き回し」に庶民反発 中国で同情論


江戸時代であっても、火付けをしない限りはわが国でこのような罪業で辱めは受けなかったのです。寛容な国民性というものをもう一度思い起こしてはいかがでしょうか?

白隠禅師仮名法語にある実話は、感動的なエピソードです。

遊女大橋こと慧林尼のこと
財)禅文化研究所WEB 白隠禅師仮名法語・余談(6)


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 寛延3年(1750)、白隠禅師は、提唱を終えた後、京の豪商、岐阜屋こと世継八郎兵衛幸政の館で旅の疲れをいやしていました。

 『年譜』には「帰路平安城を過ぎ世継氏に館す。池大雅来参す。及び大橋女を度す」とあります。池大雅はあの著名な画家のことです。いま取り上げるのは「大橋女」という人のことです。

白隠禅師は4月には本山妙心寺の養源院で碧巌録を講じました。その法席には、宝鏡寺尼門跡、光照院尼門跡をはじめ葉室頼胤、冷泉宗家といった貴顕が連なったのです(『年譜』)。

その後、宝鏡寺、光照院からはいくたびかお召しがあり、禅門寶訓を講じており、駿河に帰ったのは7月3日のこと(『於仁安佐美』巻之下の冒頭)。つまり、白隠禅師はこのとき京都におよそ三ヶ月ほど滞在したわけで、その間、さまざまな人と出合い接化していますが、そのうちの一人が大橋女だったのです。

  大橋女はもとは江戸に住まいする旗本某甲の娘でした。父は千石余を食んでいたが、何らかの事情あって浪々の身となり、京都にやって来ました。収入がないものだから、娘は弟とともに乞食までして家計を助けたましたが、それでも赤貧のありさま。娘は一家を救うため、自分を遊女屋に身売りするよう父母に申し出ましたが、父母は、わが子を売って活きるなど畜生の業、と許すはずもない。

娘はさらに、「これというのも方便、もしお許しにならなければ、一家ともに死ぬだけです。方便は真智には及びませんが、死の難を免れるは道にかなうのですから、これも真智ではありませんか」と説得するので、父母も泣く泣くこれに同意し、遊廓に送ったのでした。

 女は、もとより教養があり、書も和歌もよくしたので、やがて島原の名妓大橋となったのです。しかし折りに触れて思うはわが身の上。もとはといえば侍の家に生まれ、深窓に養われ、女中にかしづかれる身であったのに、今はかかるうき川竹の身、何と情けないことか、と。やがてこの煩悶が積り重なって病となり、医者も手をこまねくほどになりました。

その病が機縁となって、大橋は仏教の信仰を得るのです。

 そのうちに、ある人に身請けされ、その妻となりました。やがてその夫も歿故し、その後、一素居士という者に再嫁しました。居士は大橋に誘われて、いつも白隠禅師に参じたといいます。

大橋は、後に一素居士に乞うて尼となり、慧林と名のりました。居士に先きだって死にましたが。一素居士は白隠禅師の弟子である東嶺に焼香を頼みます。東嶺が一素居士の家に行ったところ、位牌の代わりに、ただ観音像の軸が掛かっているだけです。

東嶺が「位牌はどうしました」と尋ねると、居士は「普門品には応以婦女身得度者、即現婦女身而為説法とあるが、慧林尼こそは観音の応現だ。だから観音像を掛けてあるのだ、何もおかしなことではない」と答えたそうです。東嶺もこれを聞いて黙って香を拈じたのでした。

白隠禅師仮名法語・余談(6) 芳澤 勝弘〔花園大学教授〕



以上が、白隠『年譜』および草稿に出る大橋という遊女の話ですが、いかに立派な日本人がいて、おおらかな求道心をもつていたかがわかるではありませんか!

それにひきかえ今、流行のようにいわれる「人権」という言葉、なにかむなしい響きを私は感じてしまうのですが、それは私だけなのでしょうか?






by tsubakiwabisuke | 2006-12-09 23:27 | ニュース


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