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2006年 10月 04日

IT新聞今日の掲載記事 紫式部と娘・大弐三位


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10・4 JanJan  怨霊 の 『源氏供養』


約2ヶ月くらいは内容の構成を考えていたもので、ブログにも少し書いておりました。

さて、スライドショーを作成したことも今回の記事にはリンクを入れています。

ここには、あらためて書いておきましょう。

10・2U スライドショー 紫式部 と 小野篁(おののたかむら)

それからもう一つ、翻訳になりますがこちらです。

new ユネスコが紹介する世界遺産 源氏物語




上の画像は紫式部と、むすめである大弐三位(だいにのさんみ)の歌が彫られている歌碑です。

母にも劣らぬ才媛であったという大弐三位について、ここに書いておきますね。


百人一首のなかの歌

ありま山 ゐなの笹原 風ふけば いでそよ人を 忘れやはする 
                                     大弐三位  

意味:
「有馬山の猪名の笹原に風が吹けば、笹の葉がそよそよと音をたてるでしょう。
それと同じで、あたり前の事を疑わないでください。
私が貴方の事を忘れるはずがないでしょう、けっして貴方以外の男を愛したりはできないのです。」
http://members.at.infoseek.co.jp/senma/uta058.htm



大弐三位(だいにのさんみ)、長保元年(999年)頃? -永保二年(1082年)頃?)は、平安中期の女流歌人。藤原宣孝の女、母は紫式部。本名は藤原賢子(ふじわら の かたいこ・けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれる。


長保三年(1001年)3歳ごろ父と死別。長和六年(1017年)18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕。当時は祖父の任国の越後国と官名をとって越後弁と呼ばれた。この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったことが知られている。その後、関白藤原道兼の次男兼隆と結婚、一女をもうけた。万寿二年(1025年)、親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられた。


長暦元年(1037年)までの間に東宮権大進高階成章と再婚、同二年(1038年)為家を生む。天喜二年(1054年)後冷泉天皇の即位とともに従三位(じゅさんみ)に昇叙、夫成章も太宰大弐に就任した。大弐三位はこの官位と夫の官名に由来する。


この間、長元元年(1028年)「上東門院菊合」、永承四年(1049年)「内裏歌合」、同五年(1050年)「祐子内親王家歌合」など多くの歌合で歌を詠んでいる。承暦二年(1078年)には80歳近い高齢で「内裏後番歌合」に出席し、子為家の代詠をつとめている。


家集『大弐三位集』(一名『藤三位集』)がある。『後拾遺和歌集』に37首入集。また、「小倉百人一首」に「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ 人を忘れやはする」が採用されている。

『源氏物語』宇治十帖や『狭衣物語』の作者と掲げられることがあるが、真偽は定かではない。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



この伝記の解説によれば、一人の男の子と一人の女の子を産んでいます。
その後その子たちはどうなったのでしょうか?


この二日が、桐蔭会10月例会で行ってまいりました。
その茶会記のことなどもブログに書きかけたまま中断してしまいました。

なにやかや次から次へと用事をしなければなりません。中宮寺のダクちゃんからもたくさん写真がきておりますし、そのうちと思っていますから今しばらくお待ちくださいませ。






by tsubakiwabisuke | 2006-10-04 14:39 | 京都


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