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2006年 10月 01日

怨霊の『源氏供養』 ムラサキシキブの揺れる墓所 




京都市内堀川通りをまっすぐ北へ上がると鞍馬口辺りに島津製作所があります。その一角に目立たない小さな石碑と標識があるのを、道ゆく人々は案外気付かずに通りすぎて行きます。


いにしえの京の埋葬の地

『拾遺都名所図会』という文献には、此処がいにしえの埋葬地であったことが書かれています。

「大宮〔紫野北にあり、祭る所神秘なり、加茂に属す。大宮森、同所神木をいふ〕小野の篁たかむらの塚〔紫野雲林院卯辰の方二町ばかり畠のあひだにあり〕紫式部の塚〔篁塚の西なり、上に榎あり〕○花鳥余情曰、紫式部墓所は、雲林院の末院白毫院南、小野のたかむらが墓の西にあり。」

 また、式部の信仰についても興味深い記載があるのです。

「式部は檀那院僧正の許可を蒙りて、天台一心三観の血脈に入れり、兼てより雲林院の幽閉をしめけるも旁ゆへあるにや。」

はるか平安時代に思いを馳せながら、舗道から小さな墓所の入り口の前に立ちました。


 紫式部墓所、そう自然石に横に彫られた記念碑。小野篁卿墓と刻まれた縦長の石の標識。墓所へ通じる路も殺風景ではありますが清掃されており、奥まった場所にはなぜか尋常ではない雰囲気が漂っています。

「むらさきしきぶ」と「おののたかむら」の二つの墳墓が目に入ります。元のすがたを写したと思われる土の小山が離れ離れにあり、その頂上に五輪塔のごく小さな墓が見えます。墓標である供養塔が二つ西に紫式部、東に小野篁と並んでいるのです。

 私はしゃがむようにして礼拝。掌を合わせました。そしてふと、この両者にどのような繋がりがあるのだろか?と感じました。不審に思われる方はきっと少なくないことでしょう。

 もしかして秘めた恋人だったのでは?でも、そうした話はこれまで聞きませんね。はっきりしているのは、紫式部も小野篁も、藤原定家編『小倉百人一首』に、共に和歌が入選していることです。


小倉百人一首のなかに


「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」
                       
                    紫式部

                       
「わたの原八十島かけて漕き出でぬと 人には告げよあまのつりぶね」

                    参議篁

小野篁の歌について。
 「詞書「隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける」 承和五年(838年)、隠岐国流罪のときの歌。」


 流罪になったのは遣唐使制度を批判し、嵯峨天皇の逆鱗に触れてのことでしたが、まもなく許されて京に戻り従三位参議となります。

 小野篁一族は、よくミステリアスな家系だといわれています。たかむらは遣隋使を務めた小野妹子の子孫。孫には三筆の一人小野道風がいますし、小野小町も孫になるとか…。

 百人一首のなかで小野小町が9番目に、参議篁(小野篁)は11番目にあります 。参議篁という名で書かれているのは参議の位というより紛らわしさを避ける意味があったと思われます。ちなみに紫式部 は57番になっています。


 しかし、紫式部があのように自由な筆致で物語を著したことで、当時の日本の社会がすんなり受け容れたのでしょうか?現代でさえ数々のタブーがあり、ありとあらゆる批判が捲き起こるのです。そのことをかねてより疑問に思っていたのでした。


『源氏物語』の作者紫式部への批判と擁護


 しかし、私はこの墓所に接してはじめてその事情を知らされました。紫式部は大罪人だという批判があり、地獄に墜ちた人間だとされたのです。王朝貴族の時代、式部が生きていた間はそうでもなかったようですが、平安時代が終り武士の世の中となった鎌倉初期にはガラリと変わります。
 
 紫式部が狂言綺語の罪、愛欲を描いた咎でで地獄に落ちたという説が広まりました。鎌倉時代『往生要集』の影響が考えられるところです。
 ただ、日本の社会のいいところは、捨てる神あれば拾う神あり。紫式部の救済のためにいわゆる「源氏供養」が行われたのです。

 
 その『源氏供養』は謡曲に描かれています。夢幻能。世阿弥作。一説に金春禅竹作。ストーリーを簡単にいえば次のようになります。

 「安居院(あごい)の法師が石山寺へ行く途中、里女に呼びとめられ「源氏物語」について問答しのあと、 光源氏の供養を頼み消え失せる。法師は女が紫式部の霊だと悟り、光源氏と式部の供養をしていると、 式部の霊が現われ舞を舞い、「源氏物語」の巻の題を織り込みながら、世の無常と弥陀の導きを願い 願文を渡して光源氏の回向を共にする。」

 そうして最後の場面は一転して、式部がじつは観音の化身であるという救済の結末になっています。まさに心ときめくクライマックスですね。

「やがて法師は式部が石山観音の化身であることを悟り、 「源氏物語」もこの世が夢であることを知らしめるためのものであったと知る。」

http://www.noh-kyogen.com/story/ka/genjikuyou.html


小野篁の神通力

 能楽の脚色では地獄から救われたものの、それで万事収まったわけではありません。人をたぶらかす悪行がもの書きの肩書きのように規定されていたのですから、式部が地獄に落とされたという噂はまことしやかに伝播されたのです。

 そこで地獄の閻魔大王の補佐官といわれる小野篁の登場となるのです。地獄で苦しんでいる式部を救出できるのは、閻魔に顔がきく彼を措いてはあり得ないというわけです。
 
 野相公(やそうしょう)、野宰相(やさいしょう)と もよばれた彼は六尺二寸(188センチ)の長身。文人貴族の偉丈夫であり反骨の政治家であったのです。彼にまつわる奇怪な伝説は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたというもの。まるでアニメを見ている心地ですね。

 京都市内の六道珍皇寺ろくどうちんこうじ境内の閻魔堂には、閻魔大王と篁の木像が並んでいるとか、私はまだ見ていませんが(笑)。
 寺の裏には篁が冥界へ通ったという井戸。この井戸から毎晩閻魔の庁へ出かけ、裁判を手伝っていたそうです。そして、嵯峨の清涼寺横の薬師寺境内の井戸(生の六道)から、この世に戻って来たといいます。

 歴史上の数々の文献が残っていますが、いやぁ~、よく考えたものです。実際、千本閻魔堂の開基は小野篁なのです。本尊が閻魔大王ときていますから、もう~感心するばかりですね。





by tsubakiwabisuke | 2006-10-01 19:55 | 京都


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