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2006年 08月 15日

8月15日 終戦記念日と独立記念日

終戦記念日、敗戦記念日の今日は、テレビで放映される戦没者慰霊の式典に、ただ、合掌する私でした。

敗戦とは、具体的にはこうしたことになります。

1945(昭和20)年8月14日、政府はポツダム宣言を受諾し、翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが国民に伝えられた。これにより第二次世界大戦が終結した。

内務省の発表によれば、戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人だった。

1982年4月の閣議決定により「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」となった。

Wikipedia - 終戦記念日
満洲事変記念日 9月18日
対米英開戦(太平洋戦争開戦)記念日 12月8日


しかし、日本の敗戦日は、同時に他国の独立記念日でもあったのですね。

朝鮮日報は次のように述べています。

「8月15日は1945年に日帝から解放された日であると同時に、1948年に大韓民国が成立した日だ。」


独立記念日が8月15日となった国は一つだけではありません。

光復節 (韓国)
韓国の4つの国慶日(国家の慶事を記念する日)の一つ。
1945(昭和20)年、日本の敗戦により、朝鮮が日本の統治から解放された。

解放記念日 (北朝鮮)


独立記念日 (インド)
1947(昭和22)年、前日のパキスタンに続いてインドがイギリスから独立した。


以上
私は主人からある思い出話を聞いておりました。主人が京都大学から同大学院ドクターコースを経てインド政府のスカラシップでインドへ留学していた頃のことです。

8月15日を迎えたその日、或るインド人から日本への感謝のまなざしにも似た好意を受けたことがあったそうです。

日本は戦いに敗れはしたが、独立できたアジアの国々があったという事実。厳粛な気持ちでそれをはじめて知らされたと、貧乏な一書生は内心感動したそうです。

悲惨な戦争を起こしたことは大罪です。この大戦を美化することは許されないのですが、事実の一面は、知らなければならないと私は思うのです。


きのうの日記に読者から興味深い書き込みがありました。
ぞうべさんは、近畿の或る市役所の管理職をしていらっしゃる男性です。


ぞうべさんの書き込み

「スライドショー建仁寺開山堂からを拝見、この猛暑のさなかに居ながらにして東陽坊をはじめ、祇園の花街まで見せていただき有難いことです。

その中に対馬行列輿というのがありました。私は解説を読んで雨森芳州のことを思いました。
近江雨森村の医者の家に生まれ、12歳で京都で医学を学び、18歳頃江戸の朱子学者木下順庵の門下となります。同門に新井白石がいたそうです。

その後、対馬藩宗家の対朝鮮方佐役となり、徳川将軍職の就任を祝う朝鮮通信使の往来に手腕を発揮しました。

朝鮮語や中国語に堪能で語学入門書「交隣須知」は明治まで使われたそうです。もし芳洲がいきていれば今の日韓関係や竹島(独島)問題をどう思うでしょうか。」


そこで、対馬について調べてみました。
朝鮮から侵略を受けて、対馬の住民がずいぶんひどい目に逢っているのですね。


応永の外寇
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2006/08/04 06:43)


応永の外寇(おうえいのがいこう、朝鮮では己亥東征と称す)とは、日本史の時代区分では室町時代の1419年(応永26年)におきた、李氏朝鮮軍による対馬国襲撃をさす。対馬の糠岳(ぬかだけ)で戦闘が行われた事から糠岳戦争とも。


元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代に、当時中国大陸を支配していた元によって二度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。


高麗の関与

『高麗史』によると1272年に、高麗の王世子の椹(後の忠烈王)が、元国のクビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔を発し、軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、王師を小助せん」[4]と具申したとある。

また「元史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」との記述がある。

これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。
高麗はモンゴルの侵攻前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。

それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴルの娘を王妃にしていた。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお激しい抵抗を続けていた。

これが三別抄である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。上述の三策の内、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられる。

http://www.pref.nagasaki.jp/sima/island/tsushima/history.html


ペンの部屋 評論 NHK

「対馬・壱岐の島民に対する元・高麗軍の残虐行為は史上あまりにも有名だ。男は皆殺し。女は虜として手の平に穴を穿って紐を通し、素裸で舷側に結びつけ、好むままに船上おいて凌辱強姦を恣にしつつ博多へ侵寇したのだ。この残虐は史料にも記され、博多の元寇資料館所蔵、矢田一嘯画『対馬の暴虐』の生々しく画くところにもある。」


まあ、戦争は、殺戮をするのが目的でもありますから、どの国も大体悪いことをやるわけです。
日本軍はむごいことをしました。ただ、日本人だけがやったということでもなさそうです。

そうしたことも含めて、謝罪をしなければならないことは謝罪をし、近隣諸国と折り合いをつける必要がありましょう。

モンゴルから相撲留学がさかんになり、日本の国技としてモンゴルの力士が受け容れられていることも、平和外交の成果ではないでしょうか。日本人はおおらかな心を持っています。


建仁寺に保管され展示されていた対馬行列輿から、思いがひろがって今日の日記になりました。人間の業がすこしでもよきほうに向かっていけばいいがと、そんな風に思いを馳せるのです。







by tsubakiwabisuke | 2006-08-15 16:31 | ニュース


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