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2006年 08月 05日

紫式部には家庭がありました 慮山寺(ろさんじ)源氏庭の桔梗

 
紫式部には家庭がありました 慮山寺(ろさんじ)源氏庭の桔梗 

追記
JanJanに掲載された記事には慮山寺の画像が3枚ございます。
ここにアップしようとして拒絶されたものですが、他では問題なく表示されるので、やはりこのブログに問題アリなんでしょうね。どうぞ上のURLからお入りくださいませ。

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久々に寺町通りを歩きました。御所の近くにある慮山寺(ろさんじ)に、桔梗が見ごろだろうかと思い立ったのでした。

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馬盥(ばだらい)茶碗  銘 一涼


 昼さがりの夏日がつよく照っている時間帯でしたから、撮影はしたものの写真は無残な結果となってしまいました。これが雨上がりの早朝であったならどんなによかったか。でも、ただひとつ、面白い現象がみられましたよ。


 桔梗の花々は、白砂利を敷きめた「源氏庭」のあちこちに植えられています。本堂の縁側に坐って見ますと、どの花もみんな後ろ向き。客にそっぽを向けてあちらのほうをみつめているではありませんか。ひまわりだけでなく桔梗よ、お前もかって(笑)。


 本堂には源氏物語ゆかりの展示があり、源氏物語絵巻の鮮やかな写しも見ることができました。


 ここは、紫式部の邸宅あとと謂われています。考古学者の角田文衛博士によって考証され、昭和四十年十一月、紫式部邸宅跡を記念する顕彰碑が境内に建てられているのをみても伝説とばかりはいえないでしょう。


 紫式部は、ペンネームなんですね。本名は藤原香子(たかこ)または(こうし)であったのか、定かではありません。父親が式部丞(しきぶのじょう)藤原為時。そして曽祖父が、権中納言藤原兼輔(堤中納言)といいますから、確かに氏素性ははっきりしています。

 幼くして女子であっても漢文を読みこなしたといいます。この家庭、保護者の高い教養と理解があって出来たことです。平安時代には自由と男尊女卑の思想がないまぜになっていたようですね。自由の精神、それがなければ強烈な個性をもつ女性作家が生まれることはあり得なかったでしょう。

 うら若い才媛・紫式部は、親子ほども年の差がある山城守藤原宣孝と結婚して、女の子を出産しています。けれども結婚生活は短く、夫とは死別という試練に逢いますが、これを契機として宮廷に出仕することになるのです。


 今頃はやりのシングルではなく。世帯をもって子どもも産み、人並みの女の道を歩いています。夫亡き後、期せずして職業婦人となったわけです。個性を内に秘めて他と協調し、五十四巻にわたるあの大作を書いた彼女は、男女の性差を認めつつそれを超えて、自らの実力を世界に認めさせたのです。

 宮廷生活をタブーなしに描写し、仏教思想を底辺に構築した紫式部。精神の自由をもち続けたしたたかな京おんな。女だてらにという批判の声さえ聞かれなかったのは面白いことです。


 家があり、庭がある。紫式部にはたしかに家庭があったのでした。その家は曽祖父が建てたという「紫式部邸宅跡」の慮山寺のある一帯の地なのですね。

 「慮山寺(慮山天台講寺)沿革」という立札には、次のような文言がありました。

「寛政6年(1794)、禁裏、仙洞、女院の御下賜をもって再建されたのが現今の本堂である。」

「この地全域が昭和40年、角田文衛博士によって紫式部の邸宅址であると考証発表されたのである。紫式部の曽祖父にあたる権中納言(提中納言)がこの地に邸宅を構えたのが始まりで」

 なにしろ平安時代のことですからこれが証拠だとする物証が残っていないのは、いたし方ないでしょう。ただ、御所から歩いて行ける距離。いにしえに貴族たちが行き来したであろう閑寂な地域であることは容易に推察できるのです。

 ここは、日本文学発祥の場所と言い得るのではないかと思います。「源氏物語」紫式部日記」「紫式部集」がこの地で執筆されたと考えると、源氏物語の中の花散里の章に出て来る中川辺の地名が思い起こされます。


 中川の辺、とあるのは中川のわたりと読むようです。いま慮山寺になって場所がそうなんですね。京都の風俗博物館のサイトに丁度いいページがあります。それをご覧になりながら、与謝野晶子の口語訳を併せてお楽しみください。

中川のわたり
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co200402news13-4.htm


 紫式部『源氏物語』 花散里
       
 與謝野晶子訳
http://www.aozora.gr.jp/cards/000052/files/5026_11638.html 一部引用



「二十日月が上って、大きい木の多い庭がいっそう暗い蔭(かげ)がちになって、軒に近い橘(たちばな)の木がなつかしい香を送る。女御はもうよい年配になっているのであるが、柔らかい気分の受け取れる上品な人であった。すぐれて時めくようなことはなかったが、愛すべき人として院が見ておいでになったと、源氏はまた昔の宮廷を思い出して、それから次々に昔恋しいいろいろなことを思って泣いた。杜鵑がさっき町で聞いた声で啼(な)いた。同じ鳥が追って来たように思われて源氏はおもしろく思った。「いにしへのこと語らへば杜鵑いかに知りてか」という古歌を小声で歌ってみたりもした。


「橘の香をなつかしみほととぎす花散る里を訪ねてぞとふ



この画像は、2000年の夏。しおらしい茶花のせかいへ


紫式部の都市伝説

紫式部がフランスのユネスコ本部に「世界の5大偉人」と登録されているという記載がネットで氾濫しています。しかし、出典が不明です。そのため、私はフランス在住のボイヤレ夫人に調査を依頼しました。その返答が先ほどメールで参りました。以下の通りです。


「さて、本件については、日英ユネスコのページに直接記載は見つかりませんでした。孫引きですが、以下にあげる市川図書館の情報がもっとも信頼できるように思います。


また、5大偉人(10大偉人)に言及するページは多々あれど出典を明記しているものは皆無で、「都市伝説」であろう、というページ2件が事実に近いと愚考します。
新たな情報がはいりましたら、改めまして。

取り急ぎご報告まで        ぼいやれ        」                               


以下、市川図書館のページから引用:

1965年にユネスコ世界偉人暦に紫式部が選ばれたと、ある本に書いてあったが、ユネスコ偉人暦とはなにか。 =>『朝日年鑑』昭和41年版にユネスコで作った「偉人年祭表」の1966年版に日本人として初めて紫式部が取り上げられたとの記述あり。

日本ユネスコ協会連盟=>日本ユネスコ国内委員会(文部科学省内)に問い合わせ。正しくは「偉人と重要な出来事の年祭」の年祭表という物が過去何回か出されており、現在は作られていないとのこと。

日本人として取り上げられたのは、紫式部の他夏目漱石・井原西鶴・西田幾多郎・志賀潔・聖徳太子・近松門左衛門・野口英世。


市川図書館のページ
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/shisetsu/tosyo/ref/ref0402.htm

国立国会図書館のデータベース


 

by tsubakiwabisuke | 2006-08-05 22:58 | 京都


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