2009年 01月 21日

別館夏目漱石のサイトを更新

なんと半年ぶりにエキサイトブログを書きこむことになりました。
あまりにも迷惑投稿が多いため、いつしか足が遠のいていたのです。

別館夏目漱石のサイトも久々に手を入れました。トップに重要なお知らせのページを入れました。
それから過去の漱石先生とゆかりある方々の話題を「集めました」というテーマでアップしましたので、
コンタクトのメールのページと併せて都合3ページを新たに加え更新したことになります。

http://wabisuke.la.coocan.jp/

新年の画像はなにもございません。今日庵の初釜に参上したことも胸にそっと仕舞ったまま。

そうそうスィーツという言葉が流行っているようで、そのおかしで出来た飾りを
昨年12月の東京・大丸で偶然みつけ、カメラに収めてまいりました。


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# by tsubakiwabisuke | 2009-01-21 01:50 | 夏目漱石
2008年 06月 20日

桐蔭会 6月18日 淡敬会担当

待合の床から
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本席の床

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# by tsubakiwabisuke | 2008-06-20 16:41 | 茶の道
2008年 05月 05日

和敬点ての茶箱でもてなす

広間での茶箱点前は、野点形式になります。

瓶掛けはこの場合、火鉢を使用しています。
漱石の随筆に『火鉢』という小品があるのをご存知の方もいらっしゃいましょう。
http://wabisuke.la.coocan.jp/soseki.hibati.html

漱石が書いた『火鉢』は永日小品という作品の中の随筆なのですが、私がその一篇だけ抜粋してページを作成しました。是非クリックしてこの『火鉢』を味わって頂きますよう!

当日の茶席のしつらい、点前座の道具組に、なぜ瓶懸けでなく火鉢を使用したかがお分かりになると思います。

京都漱石の會第一回例会は、日本家屋の会場で行いました。

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漱石が西川一草亭に与えた直筆の掛け軸が約束の時間に未だ到来せず。床には一草亭好みの尺八花入。黒田正玄の作で銘は若葉と彫られています。

けまん草は別名鯛つり草ともいいますが、掛け物に変わりてもの申す、、、。1時間あとに待ち人来る。一草亭のお孫さんが軸をかかえて。けれど漱石の書の写真は撮れませんでした。

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ほんとうは、「我輩」という茶杓が欲しかったのですが、手持ちがございません。
本物のわが猫はもう姿もう見えなくなりましたしそれでやむなく、だれかの名前のものを出したというわけです。拝領した品をやむなくというのはまことに失礼ですけれども。

お点前は、オレゴンから来られたまるめさんに、半東はハレのははさんでしたか?

私はお茶のほうは皆さまにおまかせで、他の雑事をねじり鉢巻でしておりました。
50名の皆さまにお茶も飲んでいただき、ほっとしたことです。

和敬点ての点前の順序は、のちほどハレのははさんが書いてくださるでしょう!



ハレのはは 述

和敬点は、もともと淡々斎さまが戦中に海軍のために考案なさったというだけあって、質実剛健、無駄のないとても合理的なお茶箱のお点前のように思えます。
(成り立ちの詳しいことは以前わびすけさまがお教えくださっておられますね)

お道具類が袋に入っていることもなく、お茶を出すのに古帛紗を使うこともなくいっぺんに2つのお茶碗を運び出せ、おまけに拝見もありません。
一碗と二碗、どちらのお茶碗でおしまいをするかで、少し手順が違うところがありますが、大まかな手順は「卯の花点」とおなじです。

(一碗目でおしまいをするときは、お茶碗を拭き、茶筅茶巾を筒に納めてから、二碗めは拭きません。二碗目でおしまいするときは、後で返ってくる一碗目を拭くまでは茶箱に戻せませんね。一碗目は濡れたままにできませんから。二碗とも拭きます。)

茶箱の中手前には、二つ重ねた茶碗、その中に古帛紗を敷いて棗を入れます。
向こう側に茶筅筒、茶巾筒、振出を入れ、茶杓を茶碗に伏せ、その上に帛紗を捌いて箱の蓋をし、蓋の上に薄板を載せて持ち出します。

建水も持ち出し、勝手付に箱をよせ、膝前に薄板、瓶掛右がわに横にした蓋、帛紗を捌いて蓋を清めたら、茶杓を蓋の右寄りに出し、振出しを客付に出します。
ここで「総礼」。(正客は振り出しを取りに行きます)

この後、重ねたままの茶碗を薄板の上に、棗を蓋の上に出し、古帛紗を薄板と箱の間に置いたら、その上に重ねたままの茶碗を置きなおし、上の茶碗だけを薄板の上に出し、茶箱、建水と奥に進めます。

後は棗、茶筅と清めていき、茶筅を茶碗に入れてお湯を入れてから、茶筅通しの前に茶巾をたたみ直して、蓋の上右上に置きます。この辺からは他の茶箱点前と変わりませんね。

書いてみるとずいぶん手数があるので、席中では、点前座にすべて広げておいて、お棗を清める所から始めました。振り出しで、お客様にお菓子を召し上がっていただきたかったのですが、順に並んで座っておられなかったこともあり、雰囲気だけ感じ取ってもらうことに。

一見簡単なかわりに一寸愛想がないかも・・と思われるお点前が、今回のお席では珍しい瓢型の茶箱のお道具達で、とても優雅に変身。グリーンのビードロの振り出しも素敵でした。

けれど、如何せん多くのお客様にいっぺんにお茶を差し上げなければならず、ゆっくりお点前やお道具を楽しんでいただけたかどうか・・はなはだ心もとなく、半東どころか、お運びすら怪しげに勤めさせていただいておりました。




お道具もお手伝いも皆さまのおかげでございます。これもお茶のご縁。。。ありがたく心から感謝申し上げます。わびすけ







# by tsubakiwabisuke | 2008-05-05 22:13 | 京都
2008年 04月 30日

漱石生誕100年記念になる年月日とは

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木屋町御池東に建つ漱石句碑の前で、京都漱石の會主催になる漱石供養の式典が去る4月12日午前10時過ぎより行われました。漱石が朝日新聞社に入社して第一作の小説となった『虞美人草』に登場する天龍寺。その天龍寺派大本山の新管長となられた佐々木容道老師が道師として漱石追善の法要を執り行われたのは、この上なくありがたいことでありました。その香語と回向文は大切に保存しております。

上の写真は、句碑の裏面にあたるところです。2月9日とはどういうわけかと申しますと漱石の誕生日が新暦の2月9日だからです。旧暦では1月5日になるのですが。

夏目漱石は1867年2月9日に出生しました。したがって漱石生誕から100年目の記念となれば、1967年2月9日であることは明白です。建立するに当たって、記念日に間に合うように前年の11月9日にしたのも、漱石忌である12月9日の前に立てておきたいという当事者のお考えがあったようです。建立時にはわずか3人のみ立ち会われたと記録されています。

当時のもようは、京都新聞が記事にされていました。昭和41年11月9日京都新聞夕刊だったと思いますが、そのコピーを京都漱石の會第一回例会に参加された皆様へ会報に添えて配布いたしました。

そこで、昭和42年2月9日の生誕百年記念日に除幕式をされるべきところ、寒中であることを勘案され春4月9日に晴れて除幕式を挙行されました。

漱石句碑の裏面には、次の文言がしるされています。

「漱石生誕百年記念 昭和四十二年二月九日 漱石会」

漱石会の最後の会の一字は土の中に隠れて見えませんが、この字は当時の『漱石会」が書家の森田子龍氏に依頼して揮毫されたものです。

私が京都漱石の會をたちあげたのは昭和四十二年(1967)除幕式から数えて40年目の昨年10月のことでした。したがってことしは41年目になる次第です。

漱石が望んだ「閑適」のこころを私どもも学び、身につけてゆきたいものと思います。

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すみれほどな 小さき人に 生まれたし 漱石

http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000140804150002

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漱石に関心ある方々に こうした有名人もいらっしゃいます。

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懇親会参加者は、すべて年齢不詳、性別明確、頭脳春日のごとく、意味不明、、失礼。

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春の川、、、 漱石が詠んだ鴨川は道路が高くてみえませんが、かなたに東山連峰がみえました。めでたし、、、ああ、私のあたまもめでたし、、、の状態でございます。




参考
京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々 2007/06/19





# by tsubakiwabisuke | 2008-04-30 23:08 | 夏目漱石
2008年 04月 29日

NHKで夏目漱石 アンコール放映

お知らせ

NHKでアンコールの放映がございますので、お時間のある方はどうぞご覧くださいませ。


知るを楽しむアンコール 私のこだわり人物伝
夏目漱石 悩む力

語り手・姜 尚中


バックナンバーページで内容を確認する


4月28日(月)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月5日(月)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第1回 現代を見抜いていた人

4月29日(火)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月6日(火)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第2回 東京の女(ひと)―『三四郎』より

4月30日(水)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月7日(水)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第3回 愛でもなく、金でもなく―『それから』より

5月1日(木)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月8日(木)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第4回 あなたは真面目ですか?―『心』より






# by tsubakiwabisuke | 2008-04-29 13:22 | 夏目漱石
2008年 04月 20日

京都漱石の會 設立と紹介記事など

四月十二日、京都市中京区木屋町御池東入る、、、今なら御池大橋西詰め南側というほうが分かりやすいでしょう。えっ、なんのこと?ですかぁ~~。まあ、これをごろうじろ。

スライドショー こま札が建つまで 京都漱石の會

京都・お池大橋 西づめ 漱石句碑の こま札が 建ちました



つぎはマスメデアの記事を。

京都新聞夕刊 4月12日
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008041200086&genre=I1&area=K00
漱石の句碑前で追善供養      
中京で文化人ら50人   



翌13日朝刊には、読売、朝日、毎日、産経の四紙が、ちがった角度から書かれた記事を掲載していました。

読売新聞朝刊

http://osaka.yomiuri.co.jp/kyoto/news/20080413kn04.htm

写真をクリックすると拡大します。読者からこの写真は評価が高いようです。遠く山のすがたも風情がありますね。

毎日新聞朝刊
http://s04.megalodon.jp/2008-0419-2327-23/mainichi.jp/area/kyoto/news/20080413ddlk26040323000c.html

朝日と産経の記事はウェブにアップされておりません。新聞紙上地域版のみとなります。また、新聞記事は2週間過ぎると消去されますので、どうかお含みくださいませ。



産経新聞 朝刊
平成20年(2008年)4月13日 日曜日

漱石の句碑の横に立てられた駒札の前で供養に臨
む 代表(右) =京都市中京区

:.……..… ……………………………▼,・………・・……………・`………
漱石句碑前に新駒札
フアンの会発足、除幕、

夏目漱石の愛好者らでつくる「京都漱石の會」の第一回例会が12日、京都市中京区の御池大橋西詰にある漱石の句碑前で開催され、漱石と京都の深いかかわりについて記した新しい駒札が除幕された。
同会は、昭和42年4月に漱石の句碑を建立した漱石ファンの会が活動を終えたため、新たな活動の場を設けようと茶道家が中心となって発足させた。
例会には丹治さんのほか、門川大作・京都市長ら約50人が出席、供養の法要も営まれた。
駒札には、漱石が「虞美人草」執筆などのため生前4度にわたって京都を訪れたことや、漱石の旬にまつわるエピソードなどが記されている。

丹治代表は「句碑が建てられた後、忘れられたように横たわっていたのを何とか知ってほしいという一念が会の発足につながった。
漱石先生、私たちはいつもあなたとともにありたい」とあいさつした。



読者と 参加された方々の感想はココログのほうが多くみられますよ。






# by tsubakiwabisuke | 2008-04-20 15:24 | 夏目漱石
2008年 03月 16日

旧西園寺公別邸 清風荘にて

京都市左京区田中関田町、百万遍のあたりは京都大学の施設が多いところです。この清風荘も京都大学の所有になる登録文化財の建物です。もとは、藤原北家につながる公家・徳大寺家の別荘を、1910年に同家二男で元首相の西園寺公望(さいおんじ きんもち)の別邸として改築。44年に京都大に寄贈されたと伝えられます。

14日(金)に西宮の友人と11時の時間をうちあわせ、清風荘へ参りました。宗家の稽古場でお世話になっています先輩の授賞祝賀茶会のお招きでした。朝から雨模様で傘があちこち開いて清風荘の門を入って行きました。

http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/profile/intro/photo/list/seihuso.htm

ここは現在、京都大学の迎賓館として使用されている非公開の場所でした。縁あってこうして門をくぐることが出来、広大な庭園を拝見しつつ数奇屋の玄関に入りました。ご亭主のおかげと思います。

待合で濃茶のお菓子をいただき、狭い階段をあがって二階の広間席へ。ここでお濃茶を。

床、お家元筆 高臥聴松濤(こうがしてしょうとうをきく)。

春牡丹が古銅の花入れによく入っていました。香合に菊御紋菓子 餡を出して上皮と下皮を二枚乾燥させ、裏に金を貼るといった工程を眼に浮かべました。中宮寺のご門跡が私の傍らで、「宮中にまいりますとお土産にいただきますのよ」とひと言。

濃茶、薄茶と2席、すべて社中の方々が協力して担当され、師匠冥利につきるといった印象を受けました。点心は辻留で椀物のあいなめのお味が結構でした。

このお部屋は西園寺さんが特にお好きでよく坐ってお庭を見られていたそうですよ、とご亭主のお話とお酌で美酒をいただきました。春雨にけむる庭園はなだらかなうす緑の線をもち悠然たる姿をあらわしています。西園寺公望が文部大臣の頃、京都帝国大学創立に尽力したといわれています。



私は以前から清風荘に関心をもっていたのです。それというのも漱石に関することで津田青楓と彼の兄、西川一草亭が、入洛した漱石について書いている中に、この清風荘がありました。

大正4年3月、当時の地名は田中村といっていた頃です。

「その頃西園寺公が田中村の清風荘に滞在して居られて、私は時々花をいけに行った。先生も一度西園寺さんに逢ったらどうですといったら、「逢ってどうするのかね、逢ったって仕様がないじゃないか。飲食相通ずる位なもんだろう」と皮肉を云って笑ってをられた。」

漱石は時の権力者から招待を受けたこともありますが、その招きを受けることはしなかった、確固たる意思をもつ文学者でありました。

また、二三日して、一草亭は清風荘で公爵から小つばめといふ公の愛鳥を貰って帰りました。
画を描くために小鳥を必要とする彼に、西園寺公は自分の愛鳥にエサをやってからその鳥を与えます。その行為を奥ゆかしいと感じた一草亭はこの鳥を大事に貰って帰りました。

帰り道にその鳥かごを提げて漱石先生の滞在している旅館北の大嘉に立ち寄ったのです。漱石との会話はここでは書きません。



しかし、夏目漱石と西園寺公といえば、より大きい話題になった時期があります。ご存知の方は多いことでしょう。漱石が西園寺公の招待を断り、そのために、ハガキに一句をしたため招待主に送った事実を。

ほととぎす 厠半ばに出かねたり

(かわや)といえば、おトイレなんですね。時の総理大臣である西園寺公爵への返事がこの俳句だったのですね。

西園寺さんも大人物だったでしょうし、別に立腹したという話も残っていないのは何よりでした。






# by tsubakiwabisuke | 2008-03-16 00:47 | 夏目漱石
2008年 03月 11日

ぎおん 新橋通り うすぐもり

昨日はひさしぶりに宗家の稽古を終えてから、松庵茶会3月例会に寄ってきました。玄々斎好みの「春秋七草茶箱」が茶会のメインの雛の節句に取り入れられ、みやびな雰囲気をただよわせていました。

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祇園新橋通りには、吉井勇歌碑があり、漱石と交流のあった磯田たかをしのぶ石碑が建っています。桜と柳の木々はまだ冬眠から覚めたばかりの新芽がのぞいているだけ。

ひとり梅ノ木が満開のすがたを情緒ゆたかにみせていました。これから漱石句碑のある御池大橋西詰めに、足を伸ばしてみたかったのですが、よわしんぼの身体ではもうあきません。

カメラもあいにく電池切れとなって、写真はこれだけでお仕舞いです。






# by tsubakiwabisuke | 2008-03-11 00:37 | 京都
2008年 02月 29日

二月二十八日 大徳寺利休忌 淡敬会席 梅と椿と

史実からみれば利休忌は二月二十八日になるのですね。毎年のように今日庵の担当となりますのでことしも、今日庵席、直門淡敬会席、淡交会京都連合会席、と三つのお釜が懸かりました。
私の所属している淡敬会は大徳寺山内の三玄院で終日参詣の方々をおもてなし致しました。

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淡敬会のトップ。元気じるしのお姉さん方

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床の間の掛け物は、一燈さんの「有梅添月色」(梅あり 月の色を添う)。

夜の中に香る白梅の古木があります、、、梅の花が彼方の月の光に静かに照らされるさま、、、眼の前にに浮かんでくるようですね。

花入 竹二重切 銘 清波 一燈在判 箱

こちらも同じ一燈の作。清々しい気があたりに満ちているような花入れでした。

カメラが手ブレしてしまい、お恥ずかしい画像ですみません。

香合 蕗の薹 了全造

あとは会記をどうぞ。そうそう、菓子はよもぎ餅。老松製。お茶は辻利園。長久の白。



皆さま、この茶杓には驚かれたのではないでしょうか?

ご存じと思いますが、玄々斎に千代松という一人の子息があり、一如斎とよばれました。
養子の玄々斎は最初、まち子という認得斎の長女と結婚、まち子さんが不運にも急逝されましたので、前妻の妹であるてる子さんを娶ったと伝えられます。

照女と書かれた染筆をご覧になったことはございませんか。
てる子さんは書も巧みな才媛で、晩年の父君と夫君を援けて箱書きをされているのを時として見ることが出来ます。

そのてる子さんと玄々斎の間に出来た一如斎は、惜しくも弱冠十七歳で夭折。少年とは思えない芸術の香りがふくいくと漂うのを感じるのです。天性の秀でた魂に心を動かされます。

茶杓の銘、玉椿

梅と椿と、しめやかに流れる時の流れ、人々の和の交わり、炉のあかき炭火にたぎる釜の煮え。会の末席を汚す自分自身を顧みて、今日一日無事に水屋の手伝いができましたことを感謝するのでした。

点前も一度いたしましたし、やはり元気のもとがお茶であることを再認識して帰路につきました。

中宮寺さま、タクシーで送っていただきありがとうございました。




大徳寺・千利休居士の毎歳忌 2006/02/28






# by tsubakiwabisuke | 2008-02-29 23:57 | 茶の道
2008年 02月 11日

新宿区立漱石公園がリニューアル完成式典


先月末から体調が最低といった状態でした。茶道の方面でもみな不義理を重ねておりましたが、八日には思い切って東上してまいりました。

じつは、新宿区の区長さんから「新宿区立漱石公園がリニューアル完成式典」のお招きを頂いていて、光栄なことと身の程も考えずに新幹線に乗って早稲田のホテルに一泊。大変寒い日でございました。翌日には十時前に漱石公園に到着。お馴染みの新宿区役所の方々がにこやかに迎えてくださり、友人の写真家の関健一さんんもいらしておりほっと致しました。

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さっそく当日のもようをIT新聞に送信しました。本日の日付で掲載されておりますのでURLを下記に。

http://www.news.janjan.jp/photo-msg/0802/0802100506/1.php

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この画像は3枚とも関健一さん撮影。ココログのほうはわびすけの撮影でプロとアマの差が歴然ですね(#^.^#)



漱石が江戸牛込に生まれ、後年、東京都新宿区となってからの居住の記録を見ると興味深いものがございます。生家で過ごした期間。養子に出されて養家先で暮した期間。それぞれ住所が異なるのです。

養家から生家へ戻った期間も、塩原家と離縁し養子縁組を解消し、晴れて夏目金之助となった時期もはっきりと記録されているようです。

生年月日: 慶応3年1月5日  没年月日: 大正5年12月9日

新宿区在住期間
牛込馬場下横町 ※同地にて出生 ※区指定史跡 慶応3年1月~明治元年11月


内藤新宿北町裏16 明治元年11月~2年3月
内藤新宿仲町 明治4年6・7月頃~6年3月

牛込馬場下町 明治9年~19年9月頃
矢来町3中ノ丸 明治36年1月~同年3月

早稲田南町7 ※同地にて死去 ※区指定史跡 明治40年9月~大正5年12月
新宿区の記録に学ばせていただきました。





# by tsubakiwabisuke | 2008-02-11 21:53 | 夏目漱石
2008年 02月 10日

歌川国芳の浮世絵に猫が主人公になる

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作者:一勇斎国芳  出版年:弘化4年~嘉永5年(1852) 
大ネズミを退治した猫が武芸者に芸の奥義を説いている図



ねこは鼠を捕ることから日本では重宝され、招き猫にみられるように人々の暮らしに必要な生き物とされてきました。浮世絵に猫がさまざまに描かれているのをみても、日本人の「その心とまなざし」が感じられます。あれ?どこからか借りてきたキャッチフレーズ。。。

さて、歌川国芳の浮世絵 「猫飼好[みようかいこう]五十三疋[びき]」は傑作といっていいでしょう。猫に対する愛情はかぎりなく深いものがあります。

東海道五十三次をもじってつけたタイトルも、江戸時代の諧謔精神でおもしろいものすね。

それでは、浮世に出てくるねこの姿をお楽しみくださいませ。

★1.猫飼好五十三疋 [みようかいこう]五十三疋[びき]」 上

http://www.cat-city.com/museum/ukiyoe/exbit/kuniyoshi01.html

☆画像はそれぞれクリックしてご覧くださいませ。拡大していっそう楽しくなります。

宿場のほかにも、「猫の妙術」は面白いです。にんげんに猫が教えるの図なんです。武芸の達人とは言いがたい殺気だった人間に対して、鼠捕りの名人(?)である猫のこのゆとりある表情!

なんといいますか、悟ったような平らかな武芸の極意を無言に語っているように見えるではありませんか。

猫がふところに大事に抱えているものが何だかお分かりになりますかしら? 

http://www.cat-city.com/museum/ukiyoe/giga11.html

★2. 猫飼好五十三疋 中
http://www.cat-city.com/museum/ukiyoe/exbit/kuniyoshi02.html 

★3. 猫飼好五十三疋 下
http://www.cat-city.com/museum/ukiyoe/exbit/kuniyoshi03.html

終点の京都がまた、いいと思います。
猫と鼠と、それを皮肉る者と、作者の面目躍如です!






# by tsubakiwabisuke | 2008-02-10 12:18 | ねこ
2008年 02月 02日

お知らせ

皆さま
先に書きましたスパムの対策をなんとかエキサイトが考えてくれたようで、コメント欄を前のままに表示することに致しました。迷惑投稿は4件のうちIDが2件で同一人物の仕業と判明。ID拒否と削除を即実行しました。やはりサーバーが本腰になってくれないと解決できません。
これで皆さまもご安心を! (2月5日追記)



前から当ブログへ迷惑投稿をする輩があり今もなお、後を絶ちません。
変質者の振りをしていますが、いわゆる愉快犯の仕業で今のところ防ぎようがありません。

エキサイトではこうした「荒らし」対策がまだ不十分のようです。従って当分の間、コメント欄を禁止の設定にさせていただきます。

まことに残念ですが、皆さまの貴重なコメントは保存してありますしいつでも元のままに復活可能です。

この点、ニフテイのココログでは迷惑投稿の防止策がなされており、比較的安全のようです。
できれば、当blogのほうは見るだけということでお願いできればと思います。

これからはニフテイの ブログ漱石サロンランデエヴウ のほうに、コメントを頂戴できれば幸甚でございます。

http://tsubakiwabisuke.cocolog-nifty.com/rendezvous/

どうぞよろしくお願い申し上げます。






# by tsubakiwabisuke | 2008-02-02 13:28 | 京都
2008年 01月 26日

公共の言論機関における誤記 広辞苑の他にも

 最近、権威ある大手出版社で誤記があることが発覚し、マスメディアで取り上げられている。50年もの間、誤記が問題になることもなくまかり通っていた訳である。それを各新聞者が同じ論調で報道しているが、もとはといえば、この誤記に気付いた人物にスポットを当てるべきではなかろうか?

 大手メディアはいずれも後追い記事である。しかも最初に報じた新聞社の名を上げていない。これを客観的に論じているのは、インターネット新聞社JANJANであった。



 「岩波書店は、誤りを【外部から指摘された】(毎日)と説明している。この問題をはじめに報じたのは全国紙ではなく、20日付の『神戸新聞』のようだ。内容も緻密で一読の価値がある。」

参照:
・「広辞苑」誤記見落とし半世紀 芦屋の解説、実は須磨(神戸新聞WEB)

 地方新聞といえども、都市新聞各社が後追い記事を出したのとでは全く値打が違うと思うのである。



 読者は権威ある広辞苑に間違いは無いと思い込んで利用して来たのだと思う。しかし、出版社の校正の仕事としてしてはチェックが甘い。外部からの声があったとしても取り上げることはしなかったのだろう。

 人間のすることである以上、すべて不完全である。ただ、その事実を謙虚に認め、いかに対処するかで展望もひらけてくるだろう。しかし残念ながら現実は、あらゆる誤記が公共の言論の場で訂正されることなく、まかり通っているのである。

 昔から「話半分」といわれているが、それは物事には懐疑的な目も必要だという知恵を教えているのである。自分で体験したことには絶対的な信頼をおいて差し支えないが、他からの伝聞には一応用心したほうがいい、ということなのだろう。



 私がかつて編集した記事のなかに、同一の問題を提起された著名人の方があった。鈴木大拙の厚い信頼を受けておられた北鎌倉、東慶寺の井上禅定師である。かの鈴木大拙でさえ、記憶違いから後世に残る誤記を、訂正の機会も無いままに残されたという内容である。

 夏目漱石が釈宗演老師の原稿の英文に朱を入れたことがあったという一事は事実ではなかったと、検証をもとに明らかにされた。

 しかし、もう後の祭りなのであった。鈴木大拙の言として『夏目漱石と帰源院』( 鎌倉漱石の会発行 )にも取り入れられ、漱石研究家の江藤淳までそれを事実として『漱石とその時代』第一部に執筆した。

さらに、その誤記の部分が世間一般に流布し既成事実となってしまっているのだ。

参照:
・歴史の町-鎌倉と川越円覚寺6

・金子務公式ページ

 禅定師は、「大拙居士の私宛の書簡に、『歴史の「事実」なるものは、、、大率あてにならぬと見ておくべきでせう』とあるのが実際である」と書かれている。まことにそれは真実であると思う。

関連リンク:
鈴木大拙と夏目漱石のこと(井上禅定、拙サイトへの特別寄稿)



拙稿は、インターネット新聞JANJANの連載コラムとして、掲載されています。
http://www.news.janjan.jp/column/0801/0801259532/1.php

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# by tsubakiwabisuke | 2008-01-26 13:26 | 夏目漱石
2008年 01月 21日

『御仏にいだかれて』 編集委員の慰労会

中宮寺門跡・日野西光尊様の喜寿記念歌集のことはこれまでもブログに載せておりますが、編集委員へ著者から謝意をこめられての慰労会が昨年暮に開催されました。

場所は京都市内のある会員制ホテル。晩餐をご馳走になり久々に編集委員のお仲間と楽しく歓談いたしました。

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北野天満宮宮司の浅井先生、冷泉様、その他なつかしいお顔が並びます。編集委員ではないのですが、お骨入り頂きました思文閣出版の長田様もほろよい機嫌のようにお見受けいたします。妙蓮さんというご門跡の愛弟子の方は野の花のように可憐なお嬢さんです。

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私がカメラを操作していますと、すごいカメラですねえ、と興味をもたれたバーテンの若い男性もつい被写体に。最初は室内光のもの。もう一枚はストロボで撮ったもの。さて、どちらが面白いでしょうか??

宮中の歌会はじめのような和歌の節回しで、ご門跡を寿ぐご自身の歌を直立不動の姿勢で、朗々とよみあげられた92歳の浅井様。しみじみと有り難い思いに浸りました。

ご門跡様からはご染筆の色紙が編集委員へ贈られました。各人の希望の語句をお書きくださったもので、私は「拈華微笑(ねんげみしょう)」をお願いしておりました。釈尊の説法といいますより、中宮寺観世音菩薩の微笑を思い浮かべてのことでございました。

よい勉強をさせていただきましたこと、ご門跡様と皆様方に感謝しております。

ありがとうございました。





# by tsubakiwabisuke | 2008-01-21 16:04 |
2008年 01月 16日

神坂雪佳の光琳風つばき

京友禅はいま難しい時代にさしかかっています。人々の和装離れと価格の高騰が悪循環のようになり、京都の町を歩くきもの姿の人々が少なくなりました。

けれども、神坂雪佳の名は画家・工芸・デザインと明治から昭和にかけて京都の華ともいうべく大きい足跡を残しました。

タカシマヤで昨年の二月、上品(じょうぼん)会の招待展示に寄せて貰いました時、雪佳さんの原画をもとに作られた訪問着はやはりよかったですね。

カメラにおさめた画像がございますので、三枚とも光琳風のつばきと梅が描かれているのがお目に入るでしょう。

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神坂雪佳、本名は神坂吉隆(1866~1942)、京都で出生。

2001年には、エルメス社が発行したカタログの表紙を飾り巻頭記事となるなど日本の画家として気を吐いています。京都・琳派の伝統に基づきながらアールヌーボーに通じるモダンな作風、いまや世界で注目をあびている多彩な人物なのです。

画家、図案家としては和装のデザイン、漆器など工芸の意匠。教育者としても京都市立美術工芸学校の教師を勤め人材の育成に寄与しました。

また、光悦会の創立にも関わったと聞けば、茶道美術にも当然造詣が深かったことが理解できるのです。
光琳派といわれている雪佳ならではと思います。



ココログのほうには、サイズの大きい画像をUPしております。






# by tsubakiwabisuke | 2008-01-16 23:14 | 京都
2008年 01月 13日

京都、大会新で4連覇! 全国女子駅伝と初釜 

日曜日のテレビニュースがとびこんできました。 

「第26回全国都道府県対抗女子駅伝(日本陸連、京都新聞社主催、NHK共催)が13日、京都市右京区の西京極陸上競技場を発着点とし、左京区の京都国際会議場前で折り返す9区間42・195キロのコースで行われ、2区で首位に立った京都が3区以降独走し、2時間14分58秒の大会新記録で4年連続12度目の優勝を飾った。.
4連覇は6回-10回大会で京都が5連覇を飾って以来。」

じつは、昨日にご宗家の初釜式に参りました。そして今日は全国女子駅伝。

ねずみ年に京都が大会新で4連覇!

ちょうど六年前のことを思い浮かべております。

あれは、うま年でした。

2002年1月13日 初釜のことを拙サイトに書かせていただいていますが、その時もやはり全国女子駅伝は京都優勝。幸運な巡り合いなのですね。

うま年 宗家初釜 と 女子駅伝


第20回全国都道府県対抗女子駅伝で6年ぶり8度目の優勝を遂げた京都 府チーム、といいますからその後メキメキと力をあげたようです。

喜びを全身にあらわしてゴールに入った選手のたくましくも可憐なすがた。
きのうの初釜の喜びとともに、幸先のいい今日の一日でございました。





# by tsubakiwabisuke | 2008-01-13 23:00 | ニュース
2008年 01月 12日

新宿区歴史博物館で 広報の方が撮影 

マックレイン陽子さんと新宿区中山区長さん。
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漱石山房の模型です。



寺田さん、有難うございました。






# by tsubakiwabisuke | 2008-01-12 00:00 | 夏目漱石
2008年 01月 09日

漱石の親友 天然居士・米山保三郎

学生時代の夏目金之助に作家になることを勧め漱石が彼の言葉に強く動かされた人物・米山保三郎のことはよく知られています。ただ、これまで研究者の中で誤解があり、漱石の語句の解釈に問題があるまま流布されたきたのが現状です。

「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」

焼き芋と鼻汁を垂らす、これは禅の歴史に実在した中国の禅僧・懶さん(王ヘンに賛)和尚の故事から来る引用なのでした。漱石は畏敬する親友の米山保三郎へ深い愛情と禅に生きる彼を讃える意味で書いたものでしょう。しかし、世間一般ではなかなか通用しない事も充分知っていました。そうであるからこそ、『猫』のなかで次のように書いているのです。

「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」

苦沙弥先生、一気呵成にこう書き流し、声を出してこれを読み、「ハハハ面白い」と笑うが、「うん。鼻汁を垂らすはさすがに酷だ、焼き芋も蛇足だ」と線を引き。結局「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」だけにしたころで、これではあまりに簡単すぎると全部ボツにして、原稿用紙の裏に「空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士、噫」

実際、漱石はこの米山の兄、熊次郎から実弟の写真へ揮毫を懇望されて、漱石は俳句を書いています。その俳句とは、

空に消ゆる鐸のひびきや春の塔 という追悼の一句です。親友の死を悼む漱石の心情があふるるばかり、見事な名句と思います。写真は400X300mm、単身像の右側にこの句があり、左にこう記されています。

空間を研究する天然居士の肖像に題す 己酉 四月 漱石

,己酉,となれば、1909年、明治四十二年です。漱石が朝日新聞社に入社して2年目の四月に詠んだものと明確に判るのが嬉しいところです。また、米山が鼻水を垂らすの表現がとかく世俗的に解釈され、漱石がいかにしてこの語句を入れたかということは研究者の間でないがしろにされて来ました。しかし、漱石がただ、ユーモラスにこんな語句を入れるはずはないのです。洟を垂らそうが自分は三昧になっているのだという仏道の修行による逸話なのです。

出典もありますから、その引用もしておきましょう。『碧巖録』第三十四則より。

「懶瓚和尚。隱居衡山石室中。唐德宗聞其名。遣使召之。使者至其室宣言。天子有詔。尊者當起謝恩。瓚方撥牛糞火。尋煨芋而食。寒涕垂頤未甞答。使者笑曰。且勸尊者拭涕。瓚曰。我豈有工夫為俗人拭涕耶。竟不起。使回奏。德宗甚欽嘆之。」

(懶瓚和尚、衡山石室の中に隱居す。唐の德、宗其の名を聞いて、使を遣して之を召す。使者、其の室に至つて宣言す。天子詔有り、尊者まさに起つて恩を謝すべし。瓚、まさに牛糞の火を撥つて、煨芋を尋ねて食す。寒涕、頤に垂れて未だ甞て答えず。使者笑つて曰く、且らく勸む、尊者、涕を拭え。瓚曰く、我れ豈に工夫の俗人の為に涕を拭くこと有らん耶といつて、竟に起たず。使、回つて奏す。德宗、甚だ之を欽嘆す。)

私は嘗て東慶寺の井上禅定和尚様から分かりやすいお話を聞いておりました。

昔、中国の偉い坊さんがあって皇帝が先生になってくれって勅使を迎えに遣るんだ。当時の中国では牛の糞の乾いたのを焚き付けにしてその牛糞の火の中へ芋をいれて焼いている処へ勅使が来た。らいさん和尚は牛糞の中から芋を掘り出して勅使に食えって云うんだ。勅使が見るとこの和尚、鼻水を垂らして下顎まで延びている。それを勅使は「まあ、洟を拭きなさいと云ったんだ。

なんだ、お前はそんな事で来たのか、勅使としておれを迎えに来たのではねえのか。おれが洟を垂らしていようがそんな事どうでもいい事だ、おれは三昧になっているんだ。っていう面白い問答があるんだよ。それを元にして漱石は「焼き芋を食らい、鼻汁を垂らす」てな、昔の懶瓚和尚がやったという事を思い出して書いているんだけれど、猫に笑われるから消しちゃうんだ。」(鎌倉漱石の会会報所載)

やはり禅定様の仰ることは納得のゆくものですね。

念のために付記しますと、漱石の友人で円覚寺・釈宗演の師である今北洪川について参禅をし、居士号を与えられた逸材が二人いました。無為という居士号は菅虎雄、天然の居士号は米山保三郎でした。米山は不運にも若くして病死したのでしたが、彼の伝記を漱石が書くという計画もあったと狩野亨吉は書いています。漱石がもう少し生きていたらなば実現したかも知れないのですが…。

風邪の季節ですから、どうか皆さまもお気をつけられますように。






# by tsubakiwabisuke | 2008-01-09 14:06 | 夏目漱石
2007年 12月 25日

新宿区歴史博物館で区長さんのおもてなしを受けて

スライドショー漱石の命日に講演 松岡陽子マックレインさん 新宿区歴史博物館も訪問
関 健一氏撮影 以下3枚


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これからは新宿区の歴史博物館での私のしろうと写真です。

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新宿区のお役人さん方は女性の区長さんのもと、よく協調され 大変いい 印象を受けました。漱石公園リニューアルもいよいよ来春には完成とのこと。陽子さんもどんなにかお慶びのことでしょう!現在は工事中のため、漱石の胸像が一時避難としてここに鎮座しておわしました。

帰源院の漱石忌のもようもご覧いただけましたでしょうか。





# by tsubakiwabisuke | 2007-12-25 15:33 | 夏目漱石
2007年 12月 18日

マックレイン陽子さんが書かれたゲスト帳


漱石忌って申しますと、大正五年(1916)年十二月九日、夏目漱石が四十九歳の生涯を終えた日のことをいうようです。毎年十二月九日なのですね。
ことしの漱石忌は丁度日曜日に当たりましたので、北鎌倉の円覚寺・帰源院には全国から多くの漱石愛好者が集まりました。主催される方々のご苦労に頭がさがります。


松岡陽子マックレインさんはオレゴン州からこの日のために来日。鎌倉漱石の会が行う例会の午後の講演を担当されました。私は先生と二泊三日同じ宿舎で過ごしましたので今年の師走が特に印象深い月になったと思います。愛猫を見送ったあとの寂しい時間を遠くに置いてきたような癒される日々だったのです。


2001年秋におめもじしてから私のゲスト帳には、松岡陽子マックレインさんのことばが流麗な筆跡でしるされています。最近のページをご披露いたしましょうか。

「この度は伊津子様のご紹介で十二月九日の第九一回「鎌倉漱石の會」で 「漱石と鏡子夫人」というお話をさせて頂きました。

この会では丁度四十年前に父松岡譲もお話させて頂いたそうで大変光栄に思いました。

三百人近い聴衆が全国からおいで下さり、美しい青空と紅葉に囲まれ、なごやかな集会になったと思いました。

集会後は、朝日新聞社の三人の編集の方々と伊津子様と五人で東慶寺を訪ねました。

松岡陽子マックレイン                       」


写真も撮っておりますので後から挿入することにいたしましょう。何よりご講演の内容がスパっと切れ味がよく、表裏の無い真摯なものであったことを喜びたいと思います。これは録音しておりますのでいずれ。。。今日はとりあえず陽子さんのメッセージのみお伝えいたします。






# by tsubakiwabisuke | 2007-12-18 00:14 | 夏目漱石